平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

二千年間毎週開かれ続けている聖書(2015.12.16 祈り会)

2015-12-17 02:41:55 | 祈り会メッセージ
2015年12月16日祈り会メッセージ
『二千年間毎週開かれ続けている聖書』
【マタイ1:18~25】

はじめに
 今朝は大変に暖かい朝で感謝でした。冬至まであと1週間を切りましたから、今が一年で最も昼の時間が短い時期です。昼の時間の長さの一年間の変化は、だいたい正弦波、サインカーブのような形をしていますから、傾斜が一番大きい春分の日と秋分の日の辺りは昼の時間の変化が激しいですが、カーブの山と谷に当たる夏至と冬至の前後1週間ぐらいはあまり大きな変化がありません。ですから、まだ冬至まで1週間近くありますが、今が1年間で最も昼が短いと言って良いでしょう。私は昼が短い時期は気持ち的に今一つという気分にいつもなりますが、今年は暖かいことと、会堂問題で主が祝福して下さっていますから、いつもの年のように気持ち的に今一つということはありません。本当に感謝に思っています。ただ、天気予報によると明後日からの何日間は寒気が入って冷え込むようですから、体調管理にはお互いに注意したいと思います。

クリスマスの定番のマタイとルカ1,2章
 さて、きょうはマタイの1章を開くことにしました。今年はアドベントに入ってからも、定番のマタイ1章と2章そしてルカの1章と2章をまだ開いていませんでした。そろそろ開きませんと、クリスマスの感じがしませんね。それぐらいマタイ1章と2章、そしてルカの1章と2章はクリスマスのシーズンの定番の箇所となっていると思います。きちんと調べたことがありませんので、想像でしか言えませんが、恐らくは世界中のキリスト教会の大半は今の時期にはマタイ1章2章またはルカの1章2章のどちらか、或いは両方が開かれるのではないでしょうか。それは去年もおととしも同様ですし、100年前も200年前も同様でしょう。確かなことは言えませんが、それは1世紀にまで遡ることができるのではないでしょうか。12月をキリストの誕生月として祝い始めたのは4世紀頃からのようですから、それ以前には別の月に行われていたと思いますが、いずれにしてもキリストの誕生月に当たる時期には主のご降誕を祝い、マタイ1章2章或いはルカ1章2章が開かれていたのだろうと想像します。
 この毎年のクリスマスについてはともかく、毎週日曜日には聖書のどこかの箇所が二千年近くにわたって開かれ続けて来たことは確かです。こうしてキリスト教会で聖書が開かれる営みが連綿と続けられて来た連続性を私はとても重要であると考えます。なぜ、このような話をしているかというと、藤本満先生の著書の『聖書信仰 その歴史と可能性』を読んで、聖書信仰には「今日性」と「歴史性」のギャップの問題があることを知ったからです。いま私は、このギャップの問題の勉強中なのですが、この問題は意外と根深いようです。根深いとは言っても私はヨハネの福音書から見えて来ることを適用すれば、この問題は解決できると考えています。それゆえ当初私はこの問題についてはあまり深く考えませんでした。ヨハネの福音書を適用すれば解決するのだから、そんなに深く考える必要はないだろうと思っていました。しかしヨハネの福音書のことを知っていただくための戦略として、私自身もまずはヨハネの福音書のことを考慮しない場合のこのギャップの問題の根深さについての理解を深め、その上で段階を踏んでヨハネの福音書から見える解決法を提案して行けば、ヨハネの福音書について理解していただけるかもしれないと期待を持って、いま考えているところです。

今日性と歴史性のギャップ
 そこで、この「今日性」と「歴史性」のギャップの問題について、現在の私が知り得ている範囲で少しお話ししたいと思います。たとえば、きょうの聖書箇所のマタイ1章21節を見てみましょう。お読みします。

1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 この箇所を読む時、私たちの多くは今日(こんにち)の私たちのことに適用して解釈しようとすると思います。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」というところでは、「ご自分の民」とは私たちのことであると解釈し、「その罪」も私たちの罪と解釈しようとすると思います。これが「今日性」です。これは信仰上、まったく問題ないことで、信仰とはそのようなものでしょう。しかし、「歴史性」という観点からこの1章21節を見るなら、これはあくまでも1世紀のユダヤでの話ですから、「ご自分の民」というのは1世紀のユダヤ人のことであり、「その罪」というのもユダヤ人の罪のことです。そして記者のマタイもやはり1世紀の人物であり、読者もまた1世紀の読者です。マタイは1世紀の読者のために霊感を受けて、このマタイの福音書を書きました。ですから「歴史性」を重視する立場から言えば、これを安易に今日の私たちに適用することは、正典としての権威を軽視していることになる、ということにもなるのだそうです。
 この「歴史性」を重視する立場のことを初めて知ったときは、それは随分と固い考え方だなと私は思いました。聖霊の働きを考慮するなら、今日の私たちが聖書を通して神の語り掛けを聞くのだと考えて、まったく問題ないではないかと思いました。しかし、立場を替えて歴史性を重視して当時の事柄について専門的に研究している研究者の立場に立つなら、確かにあまり軽々とは今日に適用してほしくないであろうという思いもわからないではありません。ですから、確かにギャップは存在すると言えるのでしょう。では、どうしたら、ギャップを埋めることができるのでしょうか。それは先ほども言いましたが、聖霊の働きを考慮すれば良いのだと思います。
 しかし、聖霊の働きは水戸黄門で使われる葵の御紋の印籠のようなものなのかもしれません。聖霊の力を信じる私の場合は、聖霊の働きだと言えば、皆が「ハハー」とひれ伏すと考えがちですが、聖霊の力を信じない人から見れば「何それ?」という感じでしょう。それは現代の私たちには葵の御紋がほとんど威力を持たないのと同じことなのかもしれません。徳川家と言えば今でもスゴイなとは思いますから、葵の御紋を見せられたら多少は「オッ」と思うでしょう。しかし葵の御紋を見せられても現代においては何かが解決するわけではありません。ですから聖霊の場合も、もし聖霊を持ち出さなくてもある程度は説明できるなら、聖霊という葵の御紋を見せるのはギリギリ最後の時まで取っておくのが良いのかもしれません。

連綿と続いて来た礼拝の営み
 そこで、私が有効であろうと思うのが、最初の方で話した連続性です。1世紀と21世紀の今日との間には、相当なギャップがあることは確かです。しかし、2世紀から20世紀に掛けてキリスト教が途絶えていて、21世紀にまたキリスト教が復活したわけではありません。1世紀から2千年に亘って毎週のように礼拝が捧げられ、そこで聖書が読まれて今日に至っているわけです。この長い年月の間に様々な変化があり、今では1世紀と21世紀では全く別世界になってしまっていたとしても、1週間という単位で見るなら、先週と今週ではほとんど変わりがありません。新会堂が建てられた場合には大きな変化があるでしょうが、それ以外はほとんど変わらない営みが続けられています。そういう連綿とした毎週の営みの連続で1世紀と21世紀とはつながっています。ですから「ギャップ」と言うのとは少し違うのではないかと思います。
 そして、この毎週の営みの中には神が共におられます。マタイ1章23節、

1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 このインマヌエルの神がいつも私たちとともにおられます。このインマヌエルの神は1世紀の礼拝にも2世紀の礼拝にも20世紀の礼拝にも21世紀の礼拝にも私たちと共におられます。このインマヌエルの神がいつの時代にあっても共におられて、その時代の人々を罪から救って下さいました。このことを考えるなら、聖書の権威が軽くなることは少しもないと言えるでしょう。

ヨハネの福音書が教えていること
 そして、この連綿とした教会の働きに力を与え続けているのが聖霊です。このように聖霊は1世紀から21世紀にギャップを越えて働いているわけではなく連続して働いているわけです。さてしかし、この連続という見方は肉の時間に縛られている人間の側からの見方だと言えるでしょう。神の側から見れば、長い時間が連続しているわけではなく、どの時代も同時に存在しています。これがヨハネの福音書が教えていることです。
  私は藤本先生の『聖書信仰』が出版されて感謝しています。「今日性」と「歴史性」に【過去→現在→未来】の一方通行の時間観から見ればギャップがあるように見えるかもしれませんが、実はギャップとは違うというのがヨハネの福音書が教えるところです。これを上手く説明できれば、ヨハネの福音書への人々の理解も深まるだろうと思います。
 きょうは毎年のクリスマスのお祝いが連綿と続いていることから始めて、毎週の礼拝の営みを考え、この営みが1世紀から途切れることなく続き、そこに共にいて下さるインマヌエルの神様について考えることができましたから感謝です。
 神様が共にいて下さることを心いっぱい感謝しつつ、なおクリスマスに向かって歩んで行きたいと思います。
 お祈りしましょう。
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