平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

永遠の神と共にいる者たち(2014.2.23 礼拝)

2014-02-23 23:22:19 | 礼拝メッセージ
2014年2月23日礼拝メッセージ
『永遠の神と共にいる者たち』
【マタイ25:14~30】

はじめに
 おとといの金曜日、私はCGNTVという放送局の「みことばに聞く」という番組の収録のために、沼津シオン・キリスト教会に行って来ました。CGNTVというのは、Christian Global Network Televisionの頭文字を取ったものです。この放送局は、衛星放送とインターネットを通じてキリスト教の番組を24時間放送しています。このCGNTVの「みことばに聞く」という番組では伝道者が約10分間のショート・メッセージを行いますが、開局以来この7年間で全国で1000名以上の牧師が参加して来たということです。今の時期は、静岡県にある教会の伝道者のメッセージの収録が行われていて、私にも声が掛かりました。それで、おとといはヨハネの福音書から、2本のメッセージを語らせていただきました。
 週報に、その収録風景の写真を載せました。この写真を載せたのは、収録風景を見ていただきたいというよりは、シオン教会の礼拝堂の写真を、この礼拝の場で皆さんとご一緒に見たいと思ったからです。荻野先生が牧会しておられる沼津シオン・キリスト教会は、主から本当に豊かに祝福されている教会で、このように素晴らしい礼拝堂が与えられています。先週から私たちの教会では会堂問題に特化した祈祷会を始めました。私たちにも、このような素敵な礼拝堂が与えられますように、御霊の一致を保って、お祈りして行きたいと思います。

神を感じるとは
 どのような礼拝堂を素敵な礼拝堂と言うのか、人によって感じることは、それぞれ異なると思いますが、私が感じる素敵な礼拝堂というのは、一歩足を踏み入れただけで、すぐに神様の臨在を感じる、そんな礼拝堂です。私たち信仰を持つ者は、どんな場所にいても、目をつむって心を整えれば、神様の臨在を感じることはできます。しかし、それには、まず心をしっかりと整える必要があります。それに対して、こういう素敵な礼拝堂は、入る前に特に心が整っていなくても、入った瞬間に心が整えられます。自分で意識的に心を整えようと努力しなくても、礼拝堂の雰囲気が心を瞬間的に整えてくれます。このような、神様の臨在を瞬間的に感じさせてくれるような素敵な礼拝堂は、教会は初めてという方をお連れした時に威力を発揮して、初めての方でも神様が感じ易くするのではないかと思います。私たちにも、このような素敵な礼拝堂を備えた会堂が与えられますよう、熱心に祈って行きたいと思います。
 さて、では神様を感じるとは、どういう状態のことを言うのでしょうか。神様は目には見えません。しかし、それでも私たちは神様の存在を感じることができます。この神様の感じ方も人によって異なるのかもしれませんが、私は、神様を感じるとは、永遠を感じることなのだろうと考えています。では、永遠を感じるというのはどのような状態なのか、という話になりますが、それは私がいつも話している、【過去・現在・未来】が渾然一体となった状態のことです。私たちの日常生活の中での感覚では、時間は【過去→現在→未来】と流れていると感じていますが、永遠の中では、このような時間の流れは感じません。そして、この時間の流れを感じないことが、絶大な心の安定をもたらします。この絶大な心の安定が、永遠の中にいる神を感じていることであると私は考えています。

漂流感と安定感
 私が母教会の高津教会を初めて訪れたのは、2001年のことで、もう13年前になります。その時までの私は、いつも時間の中を漂流しているような感覚を持っていました。漂流ですから、どこに向かって流されているのかわかりません。ですから、私はいつも漠然とした不安の中にいました。例として挙げるのは、少し不謹慎かもしれませんが、わかりやすい例だと思いますから挙げさせていただくと、最近のニュースで、バリ島の海で潜水を楽しんでいた女性グループが潮の流れに流されてしまうという事故がありました。生還した女性たちが発見された場所は、潜水地点から数十kmも離れていました。一昼夜以上、ただ潮の流れに流されるままでいて、そのように漂流している間は、本当に不安だったろうと思います。そして、潮の流れと同様に、時の流れに流されている時というのも、常に不安感が付きまといます。高津教会を訪れる前の私は、時の流れの中を漂流しながら、いつも漠然とした不安感の中にいました。しかし、教会の門をくぐり、神様にしっかりとつながれてからは、漂流感はピタリと納まり、驚くほどの心の安定を感じるようになりました。神様は永遠の中にいますから、神様につながっているなら、もはや時の流れの中を漂流することはなくなります。

漂流している悪いしもべと永遠の中にいる良いしもべ
 少し前置きが長くなりましたが、きょうの聖書箇所に移ります。きょうのマタイの福音書25章の5タラントと2タラントの良いしもべは、永遠の中にいる神様としっかりとつながっている者たちです。そして、もう一方の1タラントの悪いしもべは、時の流れの中を漂流している不安感で一杯の者であると言うことができるでしょう。私たちの教会の礼拝では今年に入ってからマタイとマルコの福音書を「ヨハネの永遠観」を通して見る説教のシリーズを続けていますが、きょうもまた、その続きです。マタイの福音書の5タラント、2タラント、1タラントのしもべの例え話を、「ヨハネの永遠観」を通して見ることにします。
 まず14節と、少し飛んで19節を、先に見ておくことにします。14節、

25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。

 次に、19節、

25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。

 この主人は、旅に出て行って、そして、よほどたってから帰って来ましたから、その間は長い時間が経過しています。しかし、時間が経過しているのは人間の側だけであって、この例え話の主人というのは神様のことですから永遠の中にいます。人間であるしもべにとっては時間が経過していますが、永遠の中にいる主人にとっては、時間は流れていません。そして、5タラントと2タラントの良いしもべは、その永遠の中にいる主人と、ちゃんと共にいることができました。しかし、1タラントの悪いしもべは、永遠の中にいる主人と共にいることができませんでした。このマタイの福音書の箇所を「ヨハネの永遠観」を通して見るなら、このように読み取ることができます。

公平には与えられていない能力
 では、もう少し詳しく見て行きましょう。15節、

25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

 主人はしもべの能力に応じて、5タラント、2タラント、1タラントを渡しました。このタラントというのは、才能の意味の英語の「タレント」とも通じると言われていますね。この才能は神様が私たちに与えて下さるものです。音楽の才能がたくさん与えられている人もいれば、スポーツの才能や料理の才能がたくさん与えられている人もいます。そして、与えられる量も、人によってそれぞれ異なります。この例え話では、商売の才能になっていますね。3人のしもべたちがいて、それぞれ能力が違いました。神様が人に与える能力が人によって違うことを、不公平だと感じる方もいらっしゃることでしょう。しかし、このほうが世の中は上手く行くのだろうと思います。仮に神様が全員に全く同じタラント、例えば3タラントの能力を与えたとしましょう。そして、全員が、ちゃんと商売をして、だいたい2倍の6タラントぐらいにまで増やすことができたとします。しかし、皆それぞれが微妙に異なる環境の中で商売をすれば、全員が6.0タラントになっているということは、まず有り得ないでしょう。3人いれば、主人が帰って来た時に、5.9タラントの者と、6.0タラントの者と、6.1タラントの者とに分かれてしまうことでしょう。初めが同じでも、結果が異なって来るなら、いろいろと複雑な人間感情が生じて、争い事の種になるのではないかなと思います。
 オリンピックではいろいろな成績の選手たちが、お互いを讃え合います。金メダルを取った選手も、銀や銅だった選手も、或いはメダルを取れなかった選手も、皆がお互いに讃え合うことができるのは、皆がもともと異なる量の能力が与えられていて、その能力の中で皆が精一杯の努力をしたからだろうと思います。
 次に16節から18節まで、

25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

 5タラントのしもべと2タラントのしもべが、預かったタラントを2倍に増やすことができたのは、神様の祝福があったからです。神様は一見すると、旅に出てしもべから離れたように見えますが、実はいつも共におられます。5タラントと2タラントのしもべは、ちゃんと神様が共にいて下さっていることを感じて、自分の与えられた能力を最大限に使って神様のために働いたのだと思います。そんな二人のしもべを、神様は祝福して下さいました。
 この二人のしもべを、神様は全く同じ言葉でほめています。5タラントのしもべに対しては、21節、

25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

 そして、2タラントのしもべに対しても、23節、

25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

というように、全く同じ言葉でほめています。ですから、神様が私たちに与えて下さる能力の量は一人一人で異なりますが、神様がいつも共にいて下さることを私たちが感じながら与えられた能力を最大限に用いるなら、神様は私たちに、「よくやった。良い忠実なしもべだ」とおっしゃって下さいます。

神から離れていた悪いしもべ
 しかし、1タラントのしもべに対して神様は、26節のように、「悪いなまけ者のしもべだ」と言いました。
 以前、私がまだ「ヨハネの永遠観」に気付く前、私はこの箇所について、少しだけ不満に感じていました。1タラントのしもべは、確かになまけ者かもしれない。でもタラントを減らしたわけではないのだから、ここまで悪く言わなくても良いのではないか。というような感想を持っていました。しかし、「ヨハネの永遠観」を通して見るなら、この1タラントのしもべは、やっぱり悪いしもべなんですね。なぜなら、主人が旅に出ていた期間はずっと、このしもべの心は完全に主人から離れてしまっていたからです。悪いしもべは1タラントを土の中に埋めてしまっていましたから、主人が旅に出ていた期間が5年だったなら5年間、主人から心が離れていましたし、10年だったら10年間、もし20年間だったら、20年間も主人から心が離れていました。
 19節に、「さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て」とありますから、この「よほどたってから」というのが、どれくらいの期間かはわかりません。わかりませんが、悪いしもべは、1タラントを土の中に埋めておいたのですから、もし主人が旅に出ていた期間が50年だったら、50年間も、離れていたことでしょうし、主人が帰って来る前に死んでしまえば、一生、心が離れていたことになります。これは、どう考えても悪いしもべですね。一方、5タラントと2タラントの良いしもべたちは、主人が旅に出ていた期間が10年でも、20年でも、50年でも、いつも主人と同じ永遠の時間の中にいて、主人と共にいました。そうして、主人の喜びを共に喜ぶことができました。
 きょう聖書交読で読んだ詩篇4篇の詩人は、「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにも、まさっています。」と、神様から与えられた喜びを表現しています。このように、5タラントと2タラントの良いしもべは、神様と共に喜びの中にいました。
 それに対して1タラントの悪いしもべがどのような中にいたかと言うと、それは、時間の流れの中で漂流しており、常に不安の中にいたと言うことができるでしょう。そして、時間の流れの中で漂流して不安になるだけでなく、その不安は神様に対する疑いの心を生みます。24節と25節で、1タラントのしもべは、このように言いました。

「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。」

 神様から心が離れてしまい、神様との間に信頼関係を築くことができないと、この1タラントの悪いしもべのような残念なことになってしまいます。本当は、神様はいつでも身近な所にいらっしゃるのに、この1タラントのしもべは、神様が本当に旅に出てしまい、遠くに行ってしまったと感じていたのでした。ですから、旅に出ていたのは主人のほうではなくて、しもべの方であったとも言えるでしょう。それは、父親から遠く離れた所に旅に出た放蕩息子のようなものです。ルカの福音書の放蕩息子の場合は、我に返って、自分で父親の家に帰りましたから、父親が温かく迎えてくれました。この1タラントのしもべの場合も、途中で我に返って主人が帰ってくる前に1タラントで商売を始めていれば、きっと主人もほめてくれたことと思いますが、このしもべは我に返ることはありませんでした。それゆえ、主人は言いました。

「悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。」

 このしもべは、神様から心が離れてしまっていましたから、神様から「悪いなまけ者のしもべだ」と叱られてしまいました。一方、5タラントと2タラントのしもべは、永遠の中にいる神様といつも共にいて、神様から与えられた能力を最大限に用いてタラントを増やして神様にお返ししましたから、神様は、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」と祝福して下さいました。

知恵を絞りながら祈る
 先週から私たちは、会堂問題に特化した祈祷会を新たに始めました。私たちには、この今沢の会堂が30年前に与えられましたが、これは、神様が私たちに預けたタラントではないでしょうか。この会堂が何タラントなのかはわかりませんが、ずっと同じタラントのままであるなら、土を掘って埋めておいたのと同じことになってしまうのかもしれません。私たちは自分たちのことを決して悪いなまけ者のしもべだとは思っていませんが、もし私たちが私たちに与えられたものを最大限に用いていないのであれば、もしかしたら、悪いなまけ者のしもべなのかもしれません。
 先週の礼拝説教で私は、私たちはただ単に新しい会堂が与えられるように祈るだけでなくて、知恵も絞らなければならないという話をしました。知恵を絞りつつ祈るなら、神様が良い知恵を授けて下さるであろうという話をしました。5タラントと2タラントのしもべも、商売をするに当たっては、いろいろと知恵を絞ったことでしょう。ですから、私たちもまた知恵を絞らなければなりません。この会堂に、どうしたら地域の方々が来て下さるか。どうしたら入りやすい雰囲気にすることを考えることが、まず一つです。
 そして私は、「ヨハネの永遠観」を上手く活用して行く工夫もしなければならないと思います。このことについて積極果敢にあらゆる努力を惜しまずに、知恵を絞りながら粘り強く活動して行こうと思っています。その他にもいろいろと皆さんとご一緒に知恵を絞りながら歩んで行きたいと思います。

おわりに
 そうして私たちは、この今沢の会堂というタラントを2倍にも3倍にも何倍にも増やして、神様に献堂したいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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