平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

わたしは世の光です(2013.10.6 礼拝)

2013-10-06 07:01:53 | 礼拝メッセージ
2013年10月6日礼拝メッセージ
『わたしは世の光です』
【ヨハネ8:12~21】

はじめに
 礼拝ではこのところ、ずっとヨハネの福音書を開いていますが、きょうもヨハネの福音書です。私は、このヨハネの福音書の学びを通じて、皆さんに聖書を「広く深く」学ぶことの楽しさを共に味わっていただきたいと願っています。「狭く深く」ではなく、或いはまた「広く浅く」でもなく、「広く深く」、です。ヨハネの福音書の理解が深まるなら、聖書を「広く深く」読むことができるようになります。そして聖書を学ぶことが一層楽しくなるでしょう。きょうのヨハネ8章12節以降の箇所は、そんな楽しさを味わっていただけるのではないかと思います。

1.2つの「わたしは世の光です」
 では聖書を見て行きましょう。まず12節です。

8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 ここに「わたしは、世の光です」とありますね。そしてヨハネの福音書にはもう1カ所、イエスが「わたしは世の光です」と言っている箇所があります。9章5節です。9章の5節から7節までをお読みします。

9:5 「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 イエスは盲人の目に泥を塗りました。そして盲人が池の水で泥を洗ったら目が見えるようになったとあります。この盲人は、「生まれつきの盲人」でした。1節に、「イエスは道の途中で生まれつきの盲人を見られた」とありますから、イエスは生まれつきの盲人の目が見えるようにしました。
 きょうは、ヨハネの福音書を読み解く面白さを是非、皆さんとご一緒に味わいたいと願っていると先ほど言いましたが、この8章の「わたしは世の光です」と9章の「わたしは世の光です」はサンドイッチ構造になっています。そして、このサンドイッチの両側のパンが意味することと、中身の具の意味することがわかった時、私は「いやぁ~、ヨハネの福音書って、本当に面白いですね」と心の底から思いました。この面白さを皆さんにも是非とも感じていただけるとうれしいなと思っています。

2.ヒゼキヤ王の時代の「世の光」
 では、まず「旧約の時代」における「わたしは世の光です」が何を意味するかを見て行きたいと思います。何度も話していますように、ヨハネの福音書の1章から11章では「イエスの時代」に「旧約の時代」と「使徒の時代」とが重ねられています。そのうちの「旧約の時代」について、まず見てみます。
 はじめにヨハネの福音書の「旧約の時代」の全体の流れを簡単に説明しておきます。この全体のことについては、もしまだ理解できないのであれば、それでも構いません。あとの「わたしは世の光です」の部分だけ理解できれば十分です。でも、全体の流れがわかると、聖書のことを一層面白く感じていただけると思いますので、簡単に説明しておきたく思います。
 まずヨハネ1章の背後には、創世記の時代があります。そして、ヨハネ2章の背後には出エジプト記の時代があります。続いてヨハネ3章では一気に時代が進んで、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、そしてサムエル記の時代が3章の背後にあります。そして、4章から11章までは列王記の時代です。列王記の時代は王様の時代であり、また預言者たちが盛んに活動していた時代ですから、ヨハネの福音書の4章から11章の背後の「旧約の時代」には、この王様たちと預言者たちがいます。
 さてイスラエルはソロモン王の時代の後に、北王国と南王国に分裂してしまいました。そして、まず北王国が滅亡してしまいました。そこから見て行きましょう。ヨハネの福音書の6章66節を見てください。

6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

 この時、イエスは北のガリラヤ地方にいました。イエスが北にいる時、背後の列王記の時代では、北王国のことが描かれています。ですから、このヨハネ6章66節で北にいたイエスの弟子たちの多くの者が離れ去って行ったということは、北王国が滅亡して、北のイスラエルの民の多くの者が捕囚としてアッシリヤに引かれて行ってしまったことを表しています。
 そして、イエスはヨハネ7章で南に移動しました。6章で北王国は滅亡してしまいましたから、これ以降の7章から11章の「旧約の時代」は、すべて南王国のことです。この北王国が滅亡した時、もう一つの南王国ではヒゼキヤが王様になったばかりの頃でした。ですから、ヨハネ7章の背後の「旧約の時代」はヒゼキヤ王の時代です。
 ヒゼキヤは律法を重んじて宗教改革を行った王様です。ヒゼキヤ王について列王記は次のように記しています。

「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。」(Ⅱ列王18:5,6)

 列王記はヒゼキヤを絶賛していますね。ヒゼキヤは「主がモーセに命じられた命令を守った」と列王記は記していますから、ヒゼキヤは主の律法を守った王様でした。
 私たちは少し前まで礼拝での聖書交読で詩篇119篇をご一緒に読んでいました。この詩篇119篇は主の律法をほめ讃える詩篇であり、この中では「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(103節)と詩っています。この時代のみことばとは(主に)律法のことであり、律法は「足のともしび」であり、「道の光」でした。そしてヨハネの福音書は1章のプロローグで、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1:1)と記し、また「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)と記しています。そうしてイエスは8章12節で、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と言いました。つまり、ことばであるイエスは、ここではヒゼキヤが重んじていた律法のことばでした。

3.ヨシヤ王の時代の「世の光」
 さて、この「わたしは世の光です」はサンドイッチ構造になっていると、先ほど話しました。この「わたしは世の光です」がサンドイッチのパンの部分に当たります。そして、もう一つの側のパンの「わたしは世の光です」はヨハネ9章の5節にあります。こちらの「わたしは世の光です」は何を表すでしょうか。聖書に詳しい方なら、ピンと来るかもしれませんね。ヒントはヨシヤ王の時代にあります。少し前の礼拝で私たちはヨハネ10章を見ました。ヨハネ10章の背後にはヨシヤの子のエホヤキム王の時代がありました。10章がエホヤキム王で、その前の9章はエホヤキム王の父親のヨシヤ王の時代です。ここまで種明かしをすれば、もうおわかりでしょうか。
 (そうですね。)ヨハネ9章5節の「わたしは世の光です」は、ヨシヤ王の時代に律法の書が発見されたことに対応します。このことを記した旧約聖書の箇所は、ご一緒に見ることにしましょう。列王記第二(22章)にも書いてあるのですが、歴代誌第二のほうが状況がわかりやすいので、歴代誌第二の34章をご一緒に見ましょう(旧約聖書p.787)。まず34章1節と2節、

34:1 ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。
34:2 彼は【主】の目にかなうことを行って、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。

 次いで3節から7節までには、ヨシヤ王がユダとエルサレムをきよめ始めて、バアルの祭壇を取り壊し、アシェラ像などの偶像を取り除いたことが記されています。次いでヨシヤ王は宮の修理を始めました。8節から9節までをお読みします。

34:8 この地とこの宮とをきよめたのは、彼の治世の第十八年で、彼は、その神、【主】の宮を修理するため、アツァルヤの子シャファン、この町のつかさマアセヤ、エホアハズの子参議ヨアフを遣わした。
34:9 彼らは、大祭司ヒルキヤのもとに来て、神の宮に納められた金を渡した。これは入口を守るレビ人が、マナセとエフライム、すべてのイスラエルの残りの者、全ユダとベニヤミンから集めたものである。それから、彼らはエルサレムに帰って、
34:10 【主】の宮で工事している監督者たちの手に渡し、さらにそれを【主】の宮で行われる工事をしている者たちに渡して、宮を繕い、修理させた。

 ここに記されているのは、宮の修理は宮に納められた献金を使って行われた、ということです。そして、彼らがそのためのお金を献金箱から取り出していた時のことです。14節から19節まで読みます。

34:14 彼らが、【主】の宮に携え入れられた金を取り出していたとき、祭司ヒルキヤは、モーセを通して示された【主】の律法の書を発見した。
34:15 そのときすぐ、ヒルキヤは書記シャファンに対してこう言った。「私は【主】の宮で律法の書を見つけました。」ヒルキヤがその書物をシャファンに渡すと、
34:16 シャファンは、その書物を王のもとに携えて行き、さらに王に報告して言った。「しもべにゆだねられたことは、すべてやらせております。
34:17 彼らは【主】の宮にあった金を箱からあけて、これを監督者たちの手に、工事をしている者たちの手に渡しました。」
34:18 ついで、書記シャファンは王に告げて、言った。「祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。」そして、シャファンは王の前でそれを朗読した。
34:19 王は律法のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。

 こうして律法の書が献金箱の中から見つかりました。この律法の書が【献金箱】の中から見つかったことは重要ですので、覚えておいて下さい。
 律法の書が見つかったことでヨシヤ王は、その律法の書に書かれている内容に沿って、一層の宗教改革を推し進めました。これがヨハネ9章5節の「わたしは世の光です」です。ヨシヤ王が生まれた頃、律法の書がどこにあるのかわからなくなっていたほど、ユダの国の不信仰は甚だしくなっていました。恐らく、律法の書があるということは、わかっていたのだと思いますが、それがどこにあるのかわからなくなってしまっていて、律法の書を見たことがある者が誰もいない状態になってしまっていたのでしょう。ですから、律法を知らないヨシヤ王の時代の人々は、「生まれつきの盲人」でした。ヨハネ9章で、イエスはこの生まれつきの盲人の目を見えるようにしました。ですから、世の光である律法を失っていたヨシヤ王の時代の人々は暗闇の中にいました。そんなヨシヤ王の時代の人々にイエス・キリストは「我が足のともしび」、「道の光」を与えたのでした。

4.「世の光」にサンドイッチされた暗闇の時代
 これが2つの「世の光」によるサンドイッチ構造です。2つの光にサンドイッチされているのは、暗闇の時代です。宗教改革が行われたヒゼキヤ王とヨシヤ王の時代に挟まれたマナセ王とアモン王の時代は暗闇の時代でした。特に、マナセ王の時代は最悪でした。このマナセの罪のゆえに、主はユダの王国を滅ぼすことにしたのでした。列王記は次のように記しています。

「ユダを主の前から除くということは、実に主の命令によることであって、それはマナセが犯した罪のためであった。また、マナセが流した罪のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを罪のない者の血で満たした。そのため主はその罪を赦そうとはされなかった。」(Ⅱ列王24:3,4)

 この極悪の王のマナセ、そしてマナセの時代の人々のことをヨハネ8章のイエスは、「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者」と言っています。ヨハネ8章44節です。42節から44節までをお読みします。

8:42 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
8:43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

 これはイエスのことばとしては、相当に厳しいことばです。特に「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者」などと、人を悪魔呼ばわりするのは、相当に厳しいですね。マナセの時代というのは、それほどに悪い時代であったのだと言うことができるでしょう。そして、そのような時代であったために、律法の書も無視され、マナセの孫のヨシヤの時代には、律法の書がどこにあるのかわからなくなってしまっていたのでした。

5.献金箱の秘密
 この律法の書が紛失してしまう直前の状況を、ヨハネの福音書の中でも見ることができます。20節を見て下さい。「イエスは宮で教えられたとき、【献金箱】のある所でこのことを話された」とあります。「このことを話された」とは、12節の「わたしは、世の光です」以下のことです。そして21節でイエスはユダヤ人たちに言いました。

「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」(ヨハネ8:12)

 イエスは【献金箱】のある所で「わたしは世の光です」と言い、そして「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます」と言いました。つまりここに、世の光である律法の書が【献金箱】の中に入れられ、その後、人々が捜しても見つからなくなり、どこにあるのかわからなくなってしまったことが、ちゃんと書いてあるのですね。この8章20節の【献金箱】という何気ない一言には、今話してきた律法の書を巡る事情がぎっしりと詰め込まれていたのですね。「いやぁ~、ヨハネの福音書って、本当に面白いですね」と思いませんか。私は、このことがわかった時、ヨハネの福音書の驚異的な面白さに本当に感動しました。

6.目からウロコが落ちたパウロ
 ここまでが「旧約の時代」のことです。残りの時間で「使徒の時代」のことも、お話ししたいと思います。ヨハネの福音書の面白さを、お腹いっぱい味わっていただきたいと思います。
 ヨハネ8章の悪魔の時代は、「使徒の時代」においては、パウロがユダヤ人たちと一緒に、キリスト者を迫害していた時代です。このとき、多くの血が流されました。その代表がステパノに対する迫害です。このステパノへの迫害は、ペンテコステの日の少し後のことです。このペンテコステの日の聖霊の注ぎのことは、ヨハネ7章に記されています。ヨハネの2章でも「最初のしるし」として、聖霊の注ぎのことが記されていましたが、ヨハネの福音書には、7章にもペンテコステの日のことが書かれています。細かい話になりますが、ヨハネ2章のペンテコステの日は「使徒の時代」の「ペテロ編」で、7章のペンテコステの日は「パウロ編」です。ヨハネの福音書の「使徒の時代」は、ペテロ編とパウロ編の二部構成になっています。使徒の働き(使徒行伝)も、ペテロ編とパウロ編の二部構成のようになっていますね。それと同じです。
 では、パウロ編のペンテコステの日であるヨハネ7章の37節から39節までをお読みします。

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

 39節に書いてあることを読めば、ここがペンテコステの日のことであると分かりますね。こうして、7章にペンテコステの日のことが書かれ、8章には、ステパノの迫害があった悪魔の時代のことが書いてあり、9章でイエスが盲人の目を開いたことが書いてありますから、9章の盲人は、実はパウロのことだということがわかりますね。9章の5節から7節までをお読みします。

9:5 「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 イエスは、泥を盲人の目に塗りました。この泥が乾くとどうなりますか。パサパサになりますね。そして、ひびが入ります。泥が乾いてパサパサになってひび割れがすると、それは魚のウロコのようになります。盲人はシロアムの池で、目からウロコを落としたのですね。
 使徒の働きの、このパウロの箇所を見ましょう。使徒の働きの9章です。皆さんのほとんどの方々は、この使徒9章でパウロがどのような経験をしたかを、ご存知でしょう。パウロ、この時はまだサウロでしたが、サウロはキリスト者を縛り上げてエルサレムに引いて来るためにダマスコに行く途中で復活したイエス・キリストに出会い、目が見えなくなってしまいました。9章の8節と9節、

9:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。

 この目が見えなくなったサウロのもとにアナニヤが遣わされました。17節から19節までをお読みします。

9:17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
9:19 食事をして元気づいた。

 こうして、サウロの目からウロコが落ちて、サウロの目は見えるようになりました。ヨハネ9章の盲人の目が見えるようになった箇所には、使徒の働きの9章のことが書いてあったのですね。「いやぁ~、ヨハネの福音書って、本当に面白いですね」。 

おわりに
 使徒の働き9章で目が見えるようになったパウロはバプテスマを受けて、聖霊に満たされましたから、「旧約の時代」の律法の恵みだけでなく、「新約の時代」の律法の恵み、すなわち聖霊の恵みも、わかるようになりました。
 エレミヤ書の31章を、もう何度も、礼拝の締めくくりにご一緒に読んでいますが、やはり今日も、エレミヤ書31章で締めくくりたいと思います。きょうは「旧約の時代」と「新約の時代」の両方の「世の光」の恵みについて学びましたから、このエレミヤ31章のみことばが、一層心に響くのではないかと思います。エレミヤ書31章の31節から33節までを交代で読みましょう。33節はご一緒に読みましょう。

31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 お祈りいたしましょう。
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