徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

西南の役 「熊本城突囲隊之図」

2014-09-27 22:39:29 | 歴史
 津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」に「安巳(安政)橋周辺」という記事がアップされていた。その中に西南の役における「熊本城突囲隊之図」が紹介されていたが、実はこの図は以前、ある文献で見てとても興味深かったことを思い出した。それは、この図に描かれている白川の手前側も川向うの側も、実はわが祖母ゆかりの地域だからである。祖母が生まれたのは西南の役から6年後の明治16年のことである。その生家は手前側、つまり熊本府内の一番被分町だった。そして祖母が生まれて数年後に曾祖父は川向こうの大江村の村長になった。そんなわけでこの図を見ると妙に心が騒ぐのである。
 津々堂さんが記事の中でこの図について「左手前の石垣が何なのか・・・よく理解できない。」と書かれている。僕はあまり気にも留めていなかったのだが、そう言われてみると何だろうと気になりだした。そこで以前、スクラップしていた「明治前期における白川の橋梁」図を引っ張り出して見てみると、「熊本城突囲隊之図」の視点は赤丸の地点あたりかと推察できる。上流側のすぐそばには空堀らしきものが書き込まれている。この頃は既に上流に明午橋が架けられているので、白川の渡しは無くなっているかと思うが、旧藩時代には「法念寺渡し」が近くにあった所。ひょっとしたら空堀のところには櫓が乗った番所があったのかもしれない。もう少し詳しく調べてみたい。



▼明治前期における白川の橋梁


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