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花のお江戸の文化発信

2024-02-22 16:17:55 | 音楽芸能
 大衆文化の発信地が「花のお江戸」になったのは文化・文政期(1804〜1830年)だそうである。それまでの京都中心のいわゆる上方(かみがた)にとって代わった。江戸から離れた地方にもファッション、書物、絵本、食、芸能等々の江戸の文化が伝えられた。もちろん今日のような通信メディアやコミュニケーションツールはないから、専ら地方と江戸間を往来する人々によって伝えられたので時間はかかった。熊本にも江戸の文化が伝わった事情について、「肥後史話」(昭和56年発行 卯野木卯一良著)には次のように記されている。

 お江戸上りの侍や足軽達は参勤交替の長い旅から熊本へ帰ると、いつも得意で、江戸の流行歌を家中の朋輩などの間で歌って聞かせたものである。すると熊本にはまた熊本の芸術家が居って、早速、その悠暢なリズムに一味のユーモアを加えて、更に第二の歌謡を作り出す。面白い/\、肥後独特の郷土味があって素敵だ、などと宴会ごときの場合には、すぐ首打ち振りながら歌い出す者が出るという始末、こうして文化の中心江戸の歌謡は、それら参勤交替の御供の人々の間から、数年越しに田舎の熊本あたりまでも輸入されたものであった。博多や長崎などの様に、海運交通の便利にも余沢にも恵まれていない純然たる封建城下町の熊本市は、一、二特別の場合を除くの外、あらゆる中央の文化的要素を、この参勤交替の御供の人々の土産物として貰い且つ喜んだものであった。

 東海道第一番目の宿場として整備された品川宿は、参勤交代や旅人など多くの人々が行き交う場所で、多くの旅籠や飯売旅籠や水茶屋が立ち並び、飯盛女500人を置くことが公認されていた。また、品川宿周辺には御殿山の桜、海晏寺の紅葉、品川沖の潮干狩りなどの行楽地があり、江戸でも屈指の文化発信地であった。


東海道五拾三次之内 品川(歌川広重、部分)

 江戸の文化を研究している「江戸東京下町文化研究会」というサイトがある。今から11年前、舞踊団花童(当時はザ・わらべ)が踊る「品川甚句」の映像を江戸文化の一例として紹介したところ、このサイトに快く掲載していただき今日まで多くの方に見ていただいている。

2012.5.26 熊本城本丸御殿 春の宴
振付:中村花誠
立方:ザ・わらべ(中村くるみ・上村文乃)
地方:藤本喜代則・中山康子・中村花誠と花と誠の会・本條秀美社中


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