のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

ダダイズム?

2024年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム

 春の嵐ってこういうのかな?雪を伴った北西からの強風が吹き荒れた一日でした。お天気奉行所の予報では風速5mとなっていましたが、5mなんてもんじゃない。20mクラスの強風でした。

 スキー場なら風速20mでリフトが自動的にストップするのですが、今日は山仕事そんなの関係ねぇオッパッピーです。このギャグも古いなぁ。

 その昔、まだ昭和の頃にふきのとうと言うフォークデュオが歌っていた「春雷」と言う歌が頭の中を行き来していました。この歌、、まだふきのとうが解散する前に生で聞いたことがあるんです。お江戸のライブハウスのようなところでした。作詞作曲したのは山木康生さんで、歌っていたのは細坪さんでしたが、ふきのとう解散後に山木さんがこちらにコンサートに来たときに話を伺う機会がありました。

 海援隊の「思えば遠くへきたもんだ」を作曲したのが山木さんだったんですね。ある晩、突然武田鉄矢さんからいい詩ができたと電話があり、「踏切のそばに咲くコスモスの花・・・」と詩を読み上げて、最後の方は「あとは山木さん、作曲ついでにテキトーに作ってよ。」と、最後の歌詞は山木さんが作ったと言ってました。思えば遠くにきたもんだの映画を見て、角館に行ってきましたよ。どこがどの場面のロケ地なのか?よくわからなかったけど。

 思えば遠くへきたもんだ 十二の冬のあの夕べ は中原中也の「頑是(がんぜ)ない歌」で、その頃はまだ中原中也の言葉の方が力を持っていました。私なんか10代の頃は中原中也にどっぷりはまってましたからねぇ。というより、高校の時のガールフレンドが中也大好きで、その影響で読みふけっていたんですけど。下心もあったなぁ。

 今では女房子供もち 思えば遠くへきたもんだ この先まだまだ何時までか 生きていくのであろうけど こっちは中原中也の詩で武田鉄矢が本歌取りしている部分ですが、歳を重ねていくと武田鉄矢の詩がいいんですよ、武田さんに限らず、海援隊の千葉さんや中牟田さん、あるいは作曲した山木さんが歌っても、それぞれ違う人生の味わいが出ていて、歳を纏った甲斐があったなぁってしみじみ思いますね。

 ちなみに、武田説ではJR(当時国鉄)のコマーシャル用に創った歌だったそうですが、採用されたのは谷村新司さんが作って山口百恵さんが歌った「いい日旅立ち」だったそうです。

 中原中也の破滅人生、脳腫瘍で30歳で物故ってのもめちゃくちゃですが、私の祖母と同じ年に生まれているので、早死にしなければ同じ時代を経験できたんですね。実際、中畑中也と同棲していた女優の長谷川泰子は平成5年まで生きていましたし、彼女を中也から寝取っちゃった小林秀雄も昭和58年まで生きていました。

 こうした人々が傾倒していたダダイズムってやつが、どうにも私たち世代にはなじめず、ただ単にお坊ちゃまお嬢様の身勝手にしか思えないのですが、左巻き活動家なんか似通った発想ですね。何かに反発している自分に喜びを感じているだけで、なんも責任は負いたくない。それでも供してくれる娑婆の忖度に気が付いていない。

 ダダイズムなんて思想は関係なく、自堕落街道の王道を突き進んでいる勝負師のタダシちゃんはパチスロ北斗の拳でラオウを倒し、お彼岸の花と果物を買ってきました。昨年末にお母さんが亡くなり初めてのお彼岸ですが、雪が溶けたら墓石、北斗の拳でいうなら聖帝十字陵って言うんですか?まぁ、それにお母さんの戒名を掘ってもらう計画だったそうですが、先週は「ジャギにやられちまっておふくろの墓石の加工料つぎ込んじまった。」ジャギ、卑怯な手を使うからねぇ。でも、トキとリンの励ましで立ち直り、再度戦いに赴いて墓石の加工賃とお供え物までゲットしたようです。「使っちまうといけねぇから、石屋に代金前払いしてきた。」それが安全策です。

 中原中也とタダシちゃん。全然重ならないや。

コメント
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