奧さんから聴いたツインズの感想を少しご紹介しようと思うんですが
ストーリーや演出等のネタバレがございますので
お知りになりたくない方はご注意くださいね…m(__)m
まず、このお芝居の背景というか設定は
甲斐さんの「カオス」の歌詞みたいな世界で…と言っても
そう思ったのは奧さんくらいでしょうけど(笑)
「東日本大震災直後を連想した」とのレビューが多かったです
この曲は、甲斐さんがアメリカ人のご友人お二人に捧げられたものですが
震災後の愛ろくツアーで「萩尾望都に菜の花があるように
俺にはこの曲があった」とお歌いになったんですよね
ともあれ、朝食の準備中に水道水を飲んだり
ポットのお湯で双子の赤ん坊のためにミルクを作る妻
それを止めようとして何も言えず、自分はペットボトルの水を飲む夫
「コーヒー飲むでしょ?パンも食べるでしょ?」と訊かれて
ヒステリックに「飲みません!」と答える彼と
「美味しいのに…(何か問題でも?)」と首をひねり、何度も勧める人々
「あ…じゃあ…頂きます」と気が進まない様子の若い娘
そこへ、娘が「一口だけ」飲んだコーヒーを取り上げ
中身を床にぶちまけて、パンを放り投げる父親と
それを「拭け」と怒鳴る彼の兄…
「もう巣家(シェルター)にお入り」や「何かお腹に入れよう」
「ほんとのミルクとスマイルは死ぬまでゴブサタ」
といった終末的状況…って、ことに気づくと
キャストの中のどなたの反応が正しくて
一番まともなのか?判らなくなるらしい(苦笑)
長塚圭史さんはパンフレットのあとがきに…
そこに愛があろうがなかろうが血で繋がれた家族という集合体に
飲み込まれたり、堪えたり、甘えたりする人々の様は
ありきたりで、滑稽で、痛々しい
そうした光景を囲うこの劇の背景には、極めて過酷な状況を設定した
この背景ゆえに、彼らは誰もが今や漂流者である
彼らを繋ぐのは、目に見えぬ血の縁と
その縁の結ぶ団欒という幻想と
過度にデフォルメされたであろう思い出と
共に囲む食卓である…と記されていて
その食事の場面では、実際に料理が食卓に並べられ
キャストの皆さんは、それを召し上がりながら演技をなさるそうで
奧さんの席にもコーヒーや焼きたてのパンの香り
ボンゴレビアンコのオリーブオイルの匂いなどが漂って来たらしく
終演後には、どうしてもそれらが食べたくなってしまったんだとか…(笑)
ちなみに、最初は本当に舞台上で料理をすることになっていたようだけど
ちゃんと完成させるには時間が足りず(苦笑)
かといって、台詞を変えようという選択肢はなかったみたいで(笑)
「リアルに見える工夫」をなさったらしい
中山祐一朗さんが、鍋にパスタを投入されたのが目の端に入っていたものの
その場のやり取りに集中していたら
いつの間にか湯気の立つボンゴレが皿に盛られていたと奧さん(笑)
初心者には知る由もなかったんですが
舞台上でアツアツの料理というのは、かなり珍しい演出だそうです
テレビのホームドラマでも食事のシーンは
その家族の在り方を表す重要な要素だと思うんだけど
「打破できない状況の中で」
「先が見えない不安や恐怖を抱えて絶望し不安定にブレている」家族
「孤立して次第に追い詰められて行く」家族
「あくまで普段通りの日常を過ごしている」家族
「娘だけは守りたいという思いが空回りしている」家族…が
なごやかに、あるいは声を荒げて会話する場面は
上っ面のどこか空々しい明るさが鼻についたり
微妙に食い違って「えっ?そっち?!」って方向に転がって行ったりで
不穏なものを孕みつつ、ずっとズレまくり
落ち着かないことこの上ないらしい(苦笑)
甲斐さんは「毎朝、ご飯を食べる時に
会話がずっと続いてる家庭というのは
きっと幸せなんだと思う」と話され
震災直後にもお嬢さんに「ご飯を作ろう」とおっしゃったり
また、アルバム「嵐の明日」を作られた際には
「家庭はあっても家族がなくなりつつある時代だからこそ
日常の中のドラマをキッチリ歌にしなければいけない」と
「漂泊者をもっと厳しいテーマで
今の形でオマージュ」なさったり
お子さん達に「どんな時でも
ユーモアを言える人間になって欲しい」と教えられたり
若い世代の方には「自分自身をしっかりと確立させて
どんな状況にいようが、どんな境遇であろうが
周りに流されないでいて欲しい」と思っていらしたり…
このお芝居の登場人物に甲斐さんを当てはめるとしたら…と
頭の隅で考えながら観ていたと奧さん(笑)
「やっぱり、古田パパの役がイチバン近いかなあ?」と言ってたんですが
そのパパがどんな役なのか?ご紹介するには
もう少し文字数が必要なので、次回に持ち越しにさせてくださいね(笑)
ちなみに…奧さん自身は「不安定にブレる」タイプだと言ってるんだけど
いつもの開き直りの早さでもって(笑)
案外、フツーに淡々と日常生活を送るような気がするなあ(笑)
ストーリーや演出等のネタバレがございますので
お知りになりたくない方はご注意くださいね…m(__)m
まず、このお芝居の背景というか設定は
甲斐さんの「カオス」の歌詞みたいな世界で…と言っても
そう思ったのは奧さんくらいでしょうけど(笑)
「東日本大震災直後を連想した」とのレビューが多かったです
この曲は、甲斐さんがアメリカ人のご友人お二人に捧げられたものですが
震災後の愛ろくツアーで「萩尾望都に菜の花があるように
俺にはこの曲があった」とお歌いになったんですよね
ともあれ、朝食の準備中に水道水を飲んだり
ポットのお湯で双子の赤ん坊のためにミルクを作る妻
それを止めようとして何も言えず、自分はペットボトルの水を飲む夫
「コーヒー飲むでしょ?パンも食べるでしょ?」と訊かれて
ヒステリックに「飲みません!」と答える彼と
「美味しいのに…(何か問題でも?)」と首をひねり、何度も勧める人々
「あ…じゃあ…頂きます」と気が進まない様子の若い娘
そこへ、娘が「一口だけ」飲んだコーヒーを取り上げ
中身を床にぶちまけて、パンを放り投げる父親と
それを「拭け」と怒鳴る彼の兄…
「もう巣家(シェルター)にお入り」や「何かお腹に入れよう」
「ほんとのミルクとスマイルは死ぬまでゴブサタ」
といった終末的状況…って、ことに気づくと
キャストの中のどなたの反応が正しくて
一番まともなのか?判らなくなるらしい(苦笑)
長塚圭史さんはパンフレットのあとがきに…
そこに愛があろうがなかろうが血で繋がれた家族という集合体に
飲み込まれたり、堪えたり、甘えたりする人々の様は
ありきたりで、滑稽で、痛々しい
そうした光景を囲うこの劇の背景には、極めて過酷な状況を設定した
この背景ゆえに、彼らは誰もが今や漂流者である
彼らを繋ぐのは、目に見えぬ血の縁と
その縁の結ぶ団欒という幻想と
過度にデフォルメされたであろう思い出と
共に囲む食卓である…と記されていて
その食事の場面では、実際に料理が食卓に並べられ
キャストの皆さんは、それを召し上がりながら演技をなさるそうで
奧さんの席にもコーヒーや焼きたてのパンの香り
ボンゴレビアンコのオリーブオイルの匂いなどが漂って来たらしく
終演後には、どうしてもそれらが食べたくなってしまったんだとか…(笑)
ちなみに、最初は本当に舞台上で料理をすることになっていたようだけど
ちゃんと完成させるには時間が足りず(苦笑)
かといって、台詞を変えようという選択肢はなかったみたいで(笑)
「リアルに見える工夫」をなさったらしい
中山祐一朗さんが、鍋にパスタを投入されたのが目の端に入っていたものの
その場のやり取りに集中していたら
いつの間にか湯気の立つボンゴレが皿に盛られていたと奧さん(笑)
初心者には知る由もなかったんですが
舞台上でアツアツの料理というのは、かなり珍しい演出だそうです
テレビのホームドラマでも食事のシーンは
その家族の在り方を表す重要な要素だと思うんだけど
「打破できない状況の中で」
「先が見えない不安や恐怖を抱えて絶望し不安定にブレている」家族
「孤立して次第に追い詰められて行く」家族
「あくまで普段通りの日常を過ごしている」家族
「娘だけは守りたいという思いが空回りしている」家族…が
なごやかに、あるいは声を荒げて会話する場面は
上っ面のどこか空々しい明るさが鼻についたり
微妙に食い違って「えっ?そっち?!」って方向に転がって行ったりで
不穏なものを孕みつつ、ずっとズレまくり
落ち着かないことこの上ないらしい(苦笑)
甲斐さんは「毎朝、ご飯を食べる時に
会話がずっと続いてる家庭というのは
きっと幸せなんだと思う」と話され
震災直後にもお嬢さんに「ご飯を作ろう」とおっしゃったり
また、アルバム「嵐の明日」を作られた際には
「家庭はあっても家族がなくなりつつある時代だからこそ
日常の中のドラマをキッチリ歌にしなければいけない」と
「漂泊者をもっと厳しいテーマで
今の形でオマージュ」なさったり
お子さん達に「どんな時でも
ユーモアを言える人間になって欲しい」と教えられたり
若い世代の方には「自分自身をしっかりと確立させて
どんな状況にいようが、どんな境遇であろうが
周りに流されないでいて欲しい」と思っていらしたり…
このお芝居の登場人物に甲斐さんを当てはめるとしたら…と
頭の隅で考えながら観ていたと奧さん(笑)
「やっぱり、古田パパの役がイチバン近いかなあ?」と言ってたんですが
そのパパがどんな役なのか?ご紹介するには
もう少し文字数が必要なので、次回に持ち越しにさせてくださいね(笑)
ちなみに…奧さん自身は「不安定にブレる」タイプだと言ってるんだけど
いつもの開き直りの早さでもって(笑)
案外、フツーに淡々と日常生活を送るような気がするなあ(笑)