かれこれ1年7ヶ月ぶりくらいでしょうか?
最後には、とうとう甲斐バンドの機関紙「BEATNIK」の
表紙の「言葉」にまで手を伸ばしてしまったアノ日々から…(笑)
新聞・書籍・雑誌、CMコピー、映画・ドラマ、インタビューなどから
「おおっ!」「えっ!?」と思った一文やグッと来たセリフを
独断と偏見でご紹介するシリーズ、勝手に復活です!(笑)
まずは、復活のきっかけになった
「作ることは、壊すこと」という言葉から…
生物学者の福岡伸一さんが、ある建築家の方と
「伊勢神宮と法隆寺のどちらが生命的か?」という議論を交わされた際に
「生命を生命たらしめているのは、絶えず分解と合成を繰り返す『動的平衡』…
生き物の体は、栄養素が通り過ぎる『流れ』のようなもの
(体内で絶え間なく分解と合成が続いており、同じ人でも1年も経てば
分子レベルでは、まるで別人だ)という考え方…の作用であり
20年に1回、新たに建て替えられる伊勢神宮の方が
一見、分があるように思えるが
法隆寺は、世界最古の木造建築と言われながら
長い年月をかけて、様々な部材が常に少しずつ更新されて来た
その意味で、全取り替えをする前者よりも
ちょっとずつ変える後者の方が、より生命的ではないか?
しばしば『解体的出直し』といったことが叫ばれるが
解体しなければならなくなった組織は、その時点でもう終わりである
そうならないために、生命はいつも自らを解体し、構築し直している
つまり(大きく)変わらないために
(小さく)変わり続けている」
と話されたそうですが、これがボクの中で
先日ご紹介した甲斐さんのカバーについての考え方や
ご自身の曲を新たな切り口で披露されること
「現状維持を目指すことは後退を意味する」とおっしゃったこと
…等々とシンクロした次第(笑)
更に、音楽学者の大久保賢さんは
未だ誰も聴いたことのない音楽を求め、逆に隘路に入った現代音楽に向けて
「求められるのは『創造性』よりも
既存のものを活かす『創意』である
『発明』することではなく『発見』することである」と記され
ドラマ「ふぞろいの林檎たち」の演出家・鴨下信一さんは
落語や歌舞伎、映画など「本歌どり」こそが原点であり
まず型があって、更にそれをずらすから
どこがどう変わったか?が、キチンと掴める
暮らしも日々、その型の手入れを続け
かつ、少しずつ手直しして行くことで保たれる
だから「必要なのは、激越なオリジナリティではなく、微妙な変化だ」と話されていて
甲斐さんが、ニューレコーディングやリミックスに取り上げられた曲には
「違うやり方でやりたい」「もっとこういう風にしたい」という何らかの理由…
発表された当時には、録音機材や演奏技術など最大限の力をもって
「ベスト」と判断されたものが
年月の経過と共に「マイナーチェンジ」の必要を覚えられたり
当時は不可能だった録音技術が進歩したことによって
新たな可能性に気づかれたり…がおありだったんだろうなと…
絵本作家の荒井良二さんは「ものを作る人には
人が気づかないようなところを掘り下げる役割がある
問題を前にして、人はつい一つの答えを求めるが
それは、様々な可能性を狭める
だから、作品を作るより「?」を持ち帰ることを大事にしている
すると「この手があったか!」と唸らされるようなものが出て来る
いつもと違う「引き出し」をいくつ持てるかにかかっている
…と書かれているのを読んで
「やるだけやってダメだったら寝る
目が覚めたら、新しい世界が広がっているかも知れない」とか
「作品を書く時に、どうしても3行しか書けなかったら
そのまま残しておくんですよ
そうすると、明日、その3行から始められるじゃないですか」という
甲斐さんの言葉を思い出しました
また「アルバムの最後の曲には
次に目指す方向や課題となることが込められている」との言葉からは
現状では「これがベスト」とはいえ
「決して満足はしていない」という思いが垣間見え
民芸思想家・柳宗悦さんの「不完全を厭う美しさよりも
不完全をも容れる美しさの方が深い」という言葉に繋がりました
人は誰しも過ちや矛盾を免れない
完全からは程遠い
巧みに描かなければ美しくならないような絵が
ついに、まずまずというところまでしか行けないのなら
過ちや矛盾を取り去って完全を目指すよりも
完全か否かの分別へのこだわりを捨て
「不完全なままに謬(あやま)りのない世界に受け取られる」ことをこそ願うべし…と記され
また、加藤登紀子さんも
「作品を発表するということは、自分の限界を認めること
自分に求め過ぎると何にも発表できなくなっちゃうよ!
『悔しいけど、これが私のベストです』って、出しちゃうの
この悔しさが次の作品を生む力になるかも知れないしね」とおっしゃってますが
アルバム「破れたハートを売り物に」への悔しさが
甲斐バンドに海を渡らせ「虜」を生んだんだなあとハゲ同(笑)
一方で「『これでもう触ってはいけない』
という時ってあるんですよね」と美術家の内藤礼さん
作品を作る中で「ここだ」というのは判るけど
「何故か?」というのは判らない
作ることは自己表現ではなく、自己を超え出るためにある
だから、作るという意識から、まずは離れ
自分を超えた何かが立ち現れる、その瞬間に身を委ねるのだと…
また、坂口安吾さんは「美というものの立場から付け加えた一本の柱も鋼鉄もなく
美しくないという理由によって取り去った一本の柱も鋼鉄もない」と記され
刑務所とか冷却剤の工場などを例に
ただ必要なもの、それだけが必要な場所に置かれている姿が美しい
何かについて書く時も、上手くまとめようという下心がついうごめき出すが
「美しく見せるための一行があってはならぬ」と戒めておられます
作家の矜持は、省略と削ぎ落としにかかっているという言葉は
そのまま、甲斐さんの書かれる詞や
アコギライブ、ロッキュメント〜愛ろくでのスタイルに当てはまるんじゃないかと…
余談ですが…「作ることは、壊すこと」の続きには
「そして(生命は)予め分解することを予定した上で、合成がなされている
都市に立ち並ぶ高層ビル群を眺めながら思う
果たして、この中に解体することを想定して建設された建物があるだろうか
作ることに壊すことが既に含まれている
これが生命の有り方だ」と記されているんだけど
奈良の宮大工・西岡常一さんは
「力は釣り合いが崩れると、弱い所へ弱い所へと集中しますからな
飛鳥時代の建物が強靭なのは
『木のクセを読む』『木の育った方位に使う』ことで
一つとして同じではない木を一つ一つ適材適所で使っているからで
木には強いのもあれば、弱いのもある
割った形もそれぞれ違うし、右に左に曲がるクセもある
それを削って真っ直ぐに見せるのは綺麗かも知れないが
後で必ず無理が来る」と、おっしゃっていて
法隆寺の小さな「更新」の様子が垣間見えるようです
最後には、とうとう甲斐バンドの機関紙「BEATNIK」の
表紙の「言葉」にまで手を伸ばしてしまったアノ日々から…(笑)
新聞・書籍・雑誌、CMコピー、映画・ドラマ、インタビューなどから
「おおっ!」「えっ!?」と思った一文やグッと来たセリフを
独断と偏見でご紹介するシリーズ、勝手に復活です!(笑)
まずは、復活のきっかけになった
「作ることは、壊すこと」という言葉から…
生物学者の福岡伸一さんが、ある建築家の方と
「伊勢神宮と法隆寺のどちらが生命的か?」という議論を交わされた際に
「生命を生命たらしめているのは、絶えず分解と合成を繰り返す『動的平衡』…
生き物の体は、栄養素が通り過ぎる『流れ』のようなもの
(体内で絶え間なく分解と合成が続いており、同じ人でも1年も経てば
分子レベルでは、まるで別人だ)という考え方…の作用であり
20年に1回、新たに建て替えられる伊勢神宮の方が
一見、分があるように思えるが
法隆寺は、世界最古の木造建築と言われながら
長い年月をかけて、様々な部材が常に少しずつ更新されて来た
その意味で、全取り替えをする前者よりも
ちょっとずつ変える後者の方が、より生命的ではないか?
しばしば『解体的出直し』といったことが叫ばれるが
解体しなければならなくなった組織は、その時点でもう終わりである
そうならないために、生命はいつも自らを解体し、構築し直している
つまり(大きく)変わらないために
(小さく)変わり続けている」
と話されたそうですが、これがボクの中で
先日ご紹介した甲斐さんのカバーについての考え方や
ご自身の曲を新たな切り口で披露されること
「現状維持を目指すことは後退を意味する」とおっしゃったこと
…等々とシンクロした次第(笑)
更に、音楽学者の大久保賢さんは
未だ誰も聴いたことのない音楽を求め、逆に隘路に入った現代音楽に向けて
「求められるのは『創造性』よりも
既存のものを活かす『創意』である
『発明』することではなく『発見』することである」と記され
ドラマ「ふぞろいの林檎たち」の演出家・鴨下信一さんは
落語や歌舞伎、映画など「本歌どり」こそが原点であり
まず型があって、更にそれをずらすから
どこがどう変わったか?が、キチンと掴める
暮らしも日々、その型の手入れを続け
かつ、少しずつ手直しして行くことで保たれる
だから「必要なのは、激越なオリジナリティではなく、微妙な変化だ」と話されていて
甲斐さんが、ニューレコーディングやリミックスに取り上げられた曲には
「違うやり方でやりたい」「もっとこういう風にしたい」という何らかの理由…
発表された当時には、録音機材や演奏技術など最大限の力をもって
「ベスト」と判断されたものが
年月の経過と共に「マイナーチェンジ」の必要を覚えられたり
当時は不可能だった録音技術が進歩したことによって
新たな可能性に気づかれたり…がおありだったんだろうなと…
絵本作家の荒井良二さんは「ものを作る人には
人が気づかないようなところを掘り下げる役割がある
問題を前にして、人はつい一つの答えを求めるが
それは、様々な可能性を狭める
だから、作品を作るより「?」を持ち帰ることを大事にしている
すると「この手があったか!」と唸らされるようなものが出て来る
いつもと違う「引き出し」をいくつ持てるかにかかっている
…と書かれているのを読んで
「やるだけやってダメだったら寝る
目が覚めたら、新しい世界が広がっているかも知れない」とか
「作品を書く時に、どうしても3行しか書けなかったら
そのまま残しておくんですよ
そうすると、明日、その3行から始められるじゃないですか」という
甲斐さんの言葉を思い出しました
また「アルバムの最後の曲には
次に目指す方向や課題となることが込められている」との言葉からは
現状では「これがベスト」とはいえ
「決して満足はしていない」という思いが垣間見え
民芸思想家・柳宗悦さんの「不完全を厭う美しさよりも
不完全をも容れる美しさの方が深い」という言葉に繋がりました
人は誰しも過ちや矛盾を免れない
完全からは程遠い
巧みに描かなければ美しくならないような絵が
ついに、まずまずというところまでしか行けないのなら
過ちや矛盾を取り去って完全を目指すよりも
完全か否かの分別へのこだわりを捨て
「不完全なままに謬(あやま)りのない世界に受け取られる」ことをこそ願うべし…と記され
また、加藤登紀子さんも
「作品を発表するということは、自分の限界を認めること
自分に求め過ぎると何にも発表できなくなっちゃうよ!
『悔しいけど、これが私のベストです』って、出しちゃうの
この悔しさが次の作品を生む力になるかも知れないしね」とおっしゃってますが
アルバム「破れたハートを売り物に」への悔しさが
甲斐バンドに海を渡らせ「虜」を生んだんだなあとハゲ同(笑)
一方で「『これでもう触ってはいけない』
という時ってあるんですよね」と美術家の内藤礼さん
作品を作る中で「ここだ」というのは判るけど
「何故か?」というのは判らない
作ることは自己表現ではなく、自己を超え出るためにある
だから、作るという意識から、まずは離れ
自分を超えた何かが立ち現れる、その瞬間に身を委ねるのだと…
また、坂口安吾さんは「美というものの立場から付け加えた一本の柱も鋼鉄もなく
美しくないという理由によって取り去った一本の柱も鋼鉄もない」と記され
刑務所とか冷却剤の工場などを例に
ただ必要なもの、それだけが必要な場所に置かれている姿が美しい
何かについて書く時も、上手くまとめようという下心がついうごめき出すが
「美しく見せるための一行があってはならぬ」と戒めておられます
作家の矜持は、省略と削ぎ落としにかかっているという言葉は
そのまま、甲斐さんの書かれる詞や
アコギライブ、ロッキュメント〜愛ろくでのスタイルに当てはまるんじゃないかと…
余談ですが…「作ることは、壊すこと」の続きには
「そして(生命は)予め分解することを予定した上で、合成がなされている
都市に立ち並ぶ高層ビル群を眺めながら思う
果たして、この中に解体することを想定して建設された建物があるだろうか
作ることに壊すことが既に含まれている
これが生命の有り方だ」と記されているんだけど
奈良の宮大工・西岡常一さんは
「力は釣り合いが崩れると、弱い所へ弱い所へと集中しますからな
飛鳥時代の建物が強靭なのは
『木のクセを読む』『木の育った方位に使う』ことで
一つとして同じではない木を一つ一つ適材適所で使っているからで
木には強いのもあれば、弱いのもある
割った形もそれぞれ違うし、右に左に曲がるクセもある
それを削って真っ直ぐに見せるのは綺麗かも知れないが
後で必ず無理が来る」と、おっしゃっていて
法隆寺の小さな「更新」の様子が垣間見えるようです