虫干し映画MEMO

映画と本の備忘録みたいなものです
映画も本もクラシックが多いです

キャプテン・ウルフ (2005/アメリカ)

2005年11月02日 | 映画感想か行
THE PACIFIER
監督: アダム・シャンクマン
出演: ヴィン・ディーゼル  シェーン・ウルフ
    ローレン・グレアム  クレア・フレッチャー
    フェイス・フォード     プラマー夫人
    ブリタニー・スノウ    ゾーイ・プラマー
    マックス・シエリオット     セス・プラマー
    クリス・ポッター     ビル・フォーセット大佐

 対原爆用の特殊装置を開発したプラマー博士が誘拐され、それを救助に行った特殊部隊のウルフ大尉は失敗し、博士は死に自らも撃たれる。怪我が癒えた時、彼に与えられた任務は、プラマー博士の家族を守ることだった。
 プラマー夫人の留守中、家政婦まで出て行き、彼は5人の難しい年頃から赤ん坊までの子どもたちの面倒を見なくてはならなくなる。

 シュワルツェネッガーの「キンダーガートン・コップ」と同じような、コワモテの筋肉マンが日常些事と家事に直面してあたふたして、でも新しい世界への愛情に目覚める、とかそんな感じですが、シュワちゃんの方が上手ですねえ。こういう映画は、今までの映画で出来上がったイメージがあってこそおかしみが生きるというものでしょうが、私「リディック」と「ワイルドスピード」しか知りませんしねえ。「ターミネーター」に比べると弱いよね。それに、白紙状態では、導入のアクションだけでは、そこまでガチガチの非情のタフガイを印象付けるのは無理だろうと思います。

 総じてアクションが少ないかな。ドメスティックな生活でオタオタ部分が細かく描かれてます。でもそこにひっきりなしに敵が襲って、それを撃退してるのに、あまり誰も深刻に受け止めてない、とか主人公の生きる暴力の世界とそれに縁のない世界の落差がもっと浮き上がったほうが、お話としてもコメディとしても私はよかったんじゃないかと思うけど、完全にお子様と一緒ご家族向け映画みたいだから、これでしょうがないのかなあ。

 ああ、でも昨日「続・夕陽のガンマン」たっぷり堪能しちゃったばかりで、それでこの映画でエンニオ・モリコーネ聞いたときはつい「ぐははは…」とはた迷惑に声だして笑ってしまいました。オマケに博士の名前がプラマーで…ってミュージカルシーンでは素直に笑わせていただきました。

黒い裾/幸田文

2005年11月02日 | 
新潮文庫(昭和47年7刷)

 幸田露伴から、ひ孫に至るまで4代にわたって作家になっているけれど、ナンバー1は幸田文です。
 露伴に厳しくしつけられ、文章を書くことを禁じられていたというけれど、この人は書けるときを待っていたし、そうせねばならない作家の業を持っていた人だと思わされる。
 彼女の持つ迫力が、そのまま文章になるようで、映画化された作品、成瀬巳喜夫の名作「流れる」でさえも、原作のこの鍛えられた目には負けるか…と思う。人間の挙措のわかる、そこからその人となりを暴き出してしまう文章である。
 その目は結局自分をも暴き出してしまって、映画では優しくよく出来た姉ですんでしまう「をとうと」の主人公も、己が正しい、そして自分の周囲をその正しさで律しなければ神経に障る、といった潔癖さの持ついやらしさまで感じさせてしまう。

「黒い裾」は、人を弔う、そして関係者が一堂に会する時に着る喪服と共に歳を重ねていく、女の16歳から50過ぎまでを書いている。優秀で気働きのいい、勘のいい女性の、だからこそ幸福とは縁の薄いような人生。
 この小説のクライマックスは、年上の最後の縁者…もう送るべき人はいない、という葬式に、いかにも着慣れたものを着る描写から、その着物の裾の「透切れして、ところどころは裾心の真綿が鼠色によごれて、たるんだ吊橋になっていた。」
 そこからはもの凄まじさに息を呑む。喪服の黒と襦袢の白。
「ぱっと蝙蝠が飛んだように着物が両袖を浮かせて畳へ這った。」
「裁ち落された裾は真綿をはみ出させて、死んでいる長虫のようにうねった。」
「縫うでもくけるでもない、ただ裏表を綴じつけるだけの粗い針目を押っ飛ばすと、年代のついた古羽二重は、ぷっつ、ぷっつと音を立てて拒んだ。」
 この恐ろしさは着物を着ない人にも共有できるでしょうか?