学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

「敬老の日」に思ったこと

2020-09-25 16:22:47 | 日記
今週の初めにコロナ感染との関係で騒がれていた連休が ‘敬老の日’ を中心に成立していたものだったということを忘れていた。自分が後期高齢者であることも忘れているほどでなぜか敬老の日が他人事に思えるのは喜ぶべきことなのだとは思うのだが…お彼岸のお墓参りをしていても自分がいずれそこに入るということすら頭をよぎらない。自分が老人の範疇に居ないと思うのは痴呆のせいではないのでやっぱり喜ぶべきことなのだろう。(ところで、このように自慢したり喜びをストレートに表現したときに’復讐の女神’のタタリを恐れて身近にある木製品をコンコンとドアをノックするように叩くというおまじないがアメリカにある。“Knock(on)wood!” と口に出して机や椅子などなんでもコツコツとやるのである。本当は映画のシーンに何度も出ているのだがそれに気づいている人は日本では少ないと思う。)
話を元に戻して、歳をとってくると健康であることがどれほど重要な意味を持つのかを身をもって感じることが多い。朝、どのような気持ちや感覚でベッドを出るかがその日の幸不幸を決めるということを僕は信じている。プラス思考の勉強で特に最近大事にしている学びがある。それは「惨めな気持ちになる秘訣は自分が幸福であるかどうかを考える暇を持つことである」という文章だ。これは別に年寄りでなくても良い、若い人も目覚めは「よしっ」と声を自分にかけることで1日が変わるのである。幸せかどうかを考えていること自体がまず無駄の始まりだ。
もう一つ敬老の日に気づいたことは8月の特殊詐欺被害のうち65歳以上の高齢者が占める割合が80%に上ると新聞に出ていたことだ。この国でお年寄りに対する敬老の念が希薄になってきたのはいつからだろうか。我々年寄りが下手をすると煙たがられるというのはなんとか我慢できるとしても、残りの人生に不安を覚えながら生活している年寄りからお金を騙しとろうという輩が存在することをどのように理解すればいいのだろうか。まず、年寄りをお金を元に判断してはならない。どんな老人も一つや二つ、人に胸を張って教えられる学びを経験していることを若者は忘れてはいけない。

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