学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

「日記」はジャーナル?

2020-09-22 15:03:19 | 日記
イベントの参加人数緩和でプロ野球を観戦する人が各球場の収容人数の50%以内で詰めかけた。制限された状態とはいえ久しぶりに賑やかな球場での試合が帰ってきた。それでも心のどこかで、「大丈夫かな?」と言う不安がある。コロナ感染者数を記入してその日の日記を閉じるのが僕のここ数ヶ月の習慣になったしまった。翌朝の新聞を見ればそんな統計のようなものは即座に分かるのに、なぜかその日の気温と東京と大阪の新規感染者の数を書き込むのだ。日々の数を比べながらなんとなく自分で外に出かけるタイミングを図っているような気もするし、コロナ情勢の中での“GoTo”に関する自分の判断を確認したいのだろうとも思っている。
ただ気になることは歳をとってきて自分の日常が退屈なものになってきていることに対する心情の現れだという見方が時々頭をかすめるのだ。毎日、頭のどこかで「今日は何をする?」と自問して退屈している僕がいるのである。それでも気温が身体を動かすのに適した季節がやってきて、頑張って庭の掃除や塀際にある樫の木の剪定などに挑戦したりしている。日記に対する様々な考え方があるだろうが、僕は自分の内面の苦悩などのようなものは書かない。単に自分が何をしたのかや首相が辞任しただのと世間の目立った出来事や身の回りで何が起こっているのかを列挙した記録である。退屈な記録であるともいえるが、4、5年経って見直すとその時の状況が蘇って面白いのだ。たったそれだけのために日記をつけているような気がする。
日記といえばもちろんあの有名な書き出しの『土佐日記』である。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。…師走の二十日あまり一日の日の戌(いぬ)の時に門出す…」の出だしの旅日記だ。紀貫之が女性に仮託して仮名文で書いたと言われている。「日記を英語にすると?」と聞けば日本ではダイアリーとすぐに返事が返ってくる。当然である。辞書にも個人的な性格のものはダイアリー(公的な性格のものはジャーナル)と解説がある。ところがアメリカにいるときに気づいたのはアメリカ人は日記をジャーナルと呼ぶ人が多いのだ。航海日誌や旅日記のように日常の記録といえどどこかしかっかりした記録的な性格を感じさせる。僕のこのブログもジャーナルに格上げ(?)するとするか。

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