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学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

「失った」、また買えばいい

2025-05-23 18:39:42 | 日記
 我が家の周りの道路や側溝を掃除していると実にさまざまな物が捨てられている。タバコの吸い殻、それから最近はマスクが目立つ。物のない時代に生まれたせいだろうと思うが時々耳にするあの言葉「もったいない」が最近は特に気になるようになってきた。というのは…
 僕が気になるのが落とし物だ。ハンカチから学童の何を入れているのか分からない布袋、それから幼児の靴下から靴まである。小学生の通学用黄色い帽子は学年と名前があるので朝の通学時間に高学年の子に学校に届けてもらったこともある。問題は通学路脇の目につく石の上に置いておいても誰も持ち帰る人がいない落とし物だ。何日も放って置かれる物は不要品ということになる。英語ではアンウオンテッド・アイテム(unwanted item)、つまり“望まれていない物”だ。
 僕には変な癖があって、誰かが大切にしていたと思われるような落とし物には「君、こんなとこでなにしてるの?」と話しかける。ランドセルに吊りさげられていたであろうマスコット人形の落とし物などは特に気になるのだ。だって人間の場合なら自分は望まれていないと感じる時に絶望が始まる。大切な人と思われたいのが人間だ。だから他人にも優しく、つまり、なんと言うか性善説のようなこと。自分の持ち物も大切に、などと言いたいけれどどうも昨今はそうでもないらしい。日常生活にあまり不足を感じない飽食の時代、なんとなく殺伐感をぬぐえない。落とし物や忘れ物、一度落としたり忘れらた物はもうアンウオンテッドなのかなぁ…

50年も会っていない人の夢を見た

2025-05-20 16:26:54 | 日記
 僕がアメリカから帰ってきて最初に着いた仕事は英会話教師、自分の留学経験などを中心に教室では少しでも英語に興味をもってもらうことに精を出して生徒の皆さんを刺激したものだった。今日のブログはその英会話教室で知り合った英文学部卒業の新人教師だ(名前は公表できない)が夢に出てきた。とにかくプロレスのことならレスラーを中心になんでも知っていて、彼は学生の頃から休みがあれば世界中をプロレスを追って旅したという変わりものだ(兵庫県の実家がどうやらお金持ちであったらしい)。
 僕は不思議とプラス思考的な刺激を受けて“情報集めや研究”とは、などということの大切さを彼から教えられたような気がしている。この人、プロレスの英語のタブロイド版新聞やら雑誌を溜め込んでいて、押し入れは今にも底が抜けるような状態だと自慢ともなんとも言えない話をおかしく話していたのを思い出す。収集物とはほとんどの場合家族の厄介物だと彼は言っていた。
 “収集とは人が18歳になるまでに取得した「偏見」というものの集積だ”と言ったのはあのアインシュタインだ。収集癖なるものを違う角度から見つめてみると人生はすべて思い出というものの収集の結果だ。収集したものが自分が歩いてきた道を振り返る機会をくれるし、それらが自分を作ってきたのだとも言いきれる。振り返れば人生でおかしてしまった失敗だって、経験という名の集積物だ。集めた物は自分がこの世にいなくなる時の後始末も考えておかねばならない物なのだなぁ。

大阪弁の「ちゃうねん」…何が違うの?

2025-05-16 16:33:15 | 日記
 散歩に外に出る。僕が行く数メートル前で女性二人が出会った会話。一人が肘に大袈裟に包帯をまいている。「どうしたん、それ?」「ちゃうねん、それがな。自転車にぶつかられて…さっぱりや」と後に説明が続くのだが長いのでそこでとめるとする。ここで止める理由がもうひとつあって、大阪人が時々使うこの変な(?)日本語だ。「ちゃうねん、それがな…」は「違うの、それがね…」という意味なのだが、不思議がられるのは質問に対していきなり「ちゃうねん(ちがうの)」と応答するこの言葉である。いきなり何が違うのかさっぱり理解不能だという人がいた。説明をするとこれは「別に大したことではないのだが」を思い切り省略して「ちゃうねん…」となるのである。
 最近は言葉の省略が大流行だが大阪人は特に言葉の省略が好きな人種なのかなと思う時がよくある。全然ダメ、まるでダメだという意味で広辞苑にも出ている“さっぱり”という言葉。大阪人が独特のイントネーションで「今日はさっぱりや」というと笑いが生まれる。今日は何をやってもうまくいかないという日常生活を説明するのに“さっぱり”というひと言でことが足りる。ま、一般に大阪の人は物事にあまり深刻にならない性格だと受け止めることとする。
 ところで、英語にも便利な表現があって、offという短い単語で「今日は調子の悪い日」つまり何もかもがうまくいない日を “Today is my off day.”という(注:day off は仕事などが休みの日のこと)。(…ときどき、昔、先生だった“らしい”ことを言う…)

日本の5月は人間関係を探る時?

2025-05-13 15:49:00 | 日記
 連休が終わるとやっと大学の授業などは本格的に動き始める。一方で、早くも連休で緩んだ緊張を元に戻せず、なんとなく学生生活を軌道に乗せることに失敗する者もいる。いわゆる“五月病”というあれだ。新しい環境で自分の位置を模索している時で、「僕は自分の座るべき座布団を探している時」などと言葉を変えて5月という月の学生の心理状態を表現していたものだ。
 人にはそれぞれ自分が安心できる他人との距離というか空間がある。我々はこの微妙な距離や空間を無意識のうちに調整しながら社会生活を送っている。例えば大学の教室では一般に学生の座る座席はきまっていない。黒板や教壇に近い位置に座る学生はほぼ熱心で勉強の意欲が感じられる。後方に座る学生は教室の中での雰囲気などを窺っている慎重派か、そうでなければ学ぶという意欲や熱意にとぼしいように思われる。教師をはじめ周りの学生との人間関係という厄介な問題を頭の中で調整しなければならないのだ。彼らは小学校以来の経験から、心を乱して悩んだりするのはほとんどの場合外から押し寄せてくる人間関係のグジャグジャしたものだということに気づいている。この状態は子供も大人も同じことだ。
 現役を退いて後期高齢者の範疇にはいってはじめて自分に正直になってきて仕事など全くしたくないなどという人が大半だという。要するに、かつての人間関係の葛藤と過酷な現役時代を思いだすのだそうだ。「まわりの人間にいい顔をしていたら身がもたない」ということを知った時にはもうかなり歳をとってしまっている。

生きるとはまわり道だらけの旅を行くこと

2025-05-09 16:10:38 | 日記
 大阪万博の入場前の荷物検査で1時間も待たされてウンザリしたという話を聞いた。時間帯によっては人が集中することは日常のいろんな場面でも見受けられる。背景にある詳しい理由はわからないけれど、人は皆考えることは同じで、僕は“自分の都合の良い時間は他人にとってもきっと都合の良い時間”などという理解の仕方をしている。
 僕の奥さんの買い物に付き合って1階にあるスーパーを出ると駐車場は3階。2台あるエレベーターはきまって何秒かの差で一階に到着する。最初に着いたエレベーターはカートを押した人で大抵は満員だ。一台遅れて次の台はほとんどの場合自分たちだけ。なぜほぼ同じ時にみなさん買い物を終えてエレベーターに並ぶのかが不思議でしかたがない。そこで覚えたことは少し行動を他人から遅らせると自由があるということだ。
 アメリカでプラス思考を勉強していた時に「自分の行く道の障害物は本当は障害ではない。その障害物とは先にある隠れた危険を避けよというサインだ」というのがあった。アメリカを旅行していると時々道路の工事中で“detour(回り道)”というサインを目にすることがある。回り道を選べという意味は別の道を選べというサインだ。人生という旅では時としてこのサインがあるのに気がつかず、ただやみくもに直進思考で別の道があることを考えない人がいる。僕は歳をとるに従って「人生とは回り道だらけの旅である」ということに気がついた。今なら悩んでいた学生にもっと的確なアドバイスができたのかもしれないなぁ。