昨日は「こどもの日」、天気も良くて日本各地でさまざまな行事が行われた事だろう。“だろう”と推量の表現で文章を締めるのは自分が子育てが“とうの昔”に終わって子供との関わりがなくなってきているという人生を物語っている(本当は“遠の昔”と書けばしっくりくるのだが遠いという字で表すのは間違いであると国語辞典には記されている)。
近くを散歩しながらふと思ったことがある。最近は町内で鯉のぼりをみることがなくなったことに気づいた。僕が子供の頃はどことなく誇らしげにそこら中で鯉のぼりが空に向かって泳いでいたのを思い出す。どことなく男の子が我が家にはいるのだ…的な雰囲気があってこどもの日は男の子の日であるような印象があったようにおもう。最近になってこどもの日は男子女子、平等にこどもの日なのだと主張が変化してきたのかな。
話を戻して、鯉のぼりは風に向かって一斉に同じ方向を向いて空を泳ぐ。へそ曲がり的というかつむじ曲がり的というか、見方によっては人は大人になれば世間に合わせて皆同じ方向を向いて、自分の本心という流れに逆らって泳がなければならない大変さを教えようとしているのだろうか。たとえば川魚は疲れて流れに沿って泳げばあっという間に下流や海に流されて自分の居場所を失ってしまう。屋根より高い鯉のぼり…「敢然と水の流れに向かって泳ぎ、時々岩陰や川の淵の流れの穏やかなところで休むという川魚の習性を手本にしなさい」と子供達に教えているような気がしてきた。(う~ん、なんか意味深、素直でないかな~)