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学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

気配(けはい)を察するということは…

2025-06-10 17:47:15 | 日記
 僕の家の横の車数台が入る小さな駐車場に畳3帖ほどの緑地がある。そこはちょうど四ツ角で学校帰りの子供達のほんの数分の休憩場、そこから子供達がめいめい三方向に別れて自分の家に向かう。僕が子供達の会話をよく耳にするのはちょうど彼らが学校を終えて変える時間だ。子供達はなぜか叫んでいるように大声で話す。だからその時間は或る意味で楽しみな時でもあるのだが。昨日耳にしたのは「おまえ、空気読まへんからアカンわ」の一言。彼らはすぐに走り去った。何名のグループだったのかすら分からないけれど驚いたのは“空気を読む”という言葉を小学生の誰かが口にしたからだ。今の子供はそんな言葉を使うことができるのだと驚いたのだ。
 空気を読むというのは場の雰囲気を感じ取って使う言葉に気をつけたりすることだ。周りの人との穏やかな人間関係を構築するには欠かすことのできない気遣い、心配り、である。アメリカ人はそんな微妙な心配りはできない人種だ、などという人がいたけれど、彼らも空気を読むということは日常に行っている。英語では read the room という表現を使うらしい。直訳すれば部屋を読むということになるが、部屋、つまり場と捉えれば文字通り場を読む、つまり我々がいう空気を読むということになるのだ。…ということで、空気を読むという行為は人との調和を重んじるからだ。ただ「過ぎたるは及ばざるが如し」、気にし過ぎると自分を押さえ込み過ぎてストレスの原因になることも。一人で過ごす人が増えてきている現象はひょっとするとこんなところに潜んでいるのかも知れない。“察する文化”…疲れることも多いよなぁ。

後悔とは、してもしなくても…

2025-06-06 16:57:18 | 日記
 母親の死に以前元気な頃にもっとしておいてあげることがあったのでは、と“後悔”する人の話を新聞で読んだ。ぼくだって同じようなことが頭をよぎることが時々ある。で、今日は“後悔”について考えた。人に「生きているうちにあまりしたくないものは」と聞けば答えに後悔という言葉が返ってくることが多い。後悔とはなんらかの因果関係があるものの間に存在する。とすると、人は生きている限り後悔することから逃れられないのではないだろうか。「後悔、先に立たず」という格言のように、とにかく後から湧き出てくる或る意味ではやっかいな想いである。
 何かをして後悔するより、しなくて後悔することの方が後悔の度合いが高いといわれることがあるが、どちらも過去の決断のことだ。してもしなくてもなんとなく心に残るものが後悔というものだと思う。済んでしまったことを後悔しているほど人生って長くないと考えるようにしていると気が楽になる。後悔はいろんなことを教えてくれる、とはいえどうしようもない過去の後悔を繰り返し後悔することは時間の無駄だ。そんなことをして時間を浪費しているとまた時間の無駄遣いを後悔しなければならなくなる。
 変えることのできない過去の後悔は無駄、不確定要素が多すぎる未来ばかりを見ていること、それも無駄。今この瞬間を精一杯いきることしか人間にはできない。でも後悔した事柄から何かを学べばそれでいい。もしも何も学ばなかったら、それこそ本当の後悔となる。

アクション俳優トム・クルーズの“Why not!”

2025-06-03 16:26:14 | 日記
 最近、数日、立て続けにTVで放映されるトム・クルーズ主演の『ミッション・インポシブル』を3本楽しんだ。本当をいうと楽しむどころかストーリーの展開に翻弄されながら必死に場面を追っていたというのが正直なところだ。この頃のアメリカ映画はとにかく展開が早いのとストーリーが複雑で年寄りにはなかなかついていくのが一苦労である。
 ま、それはいいとして、トム・クルーズさんは“Why not! “という言葉を好み多用するのが性格だということをある雑誌で知った。その時々で日本語訳を変えなければならない厄介な英語ともいえるが、実に味のある言葉なのだ。何かを提案する時に使うかと思えば、「できない理由はない」「やってみよう(やってみない理由はない)」などと使ったり、 why と not の組み合わせが面白いのだ。僕がアメリカにいた時も友人などが「OK、そうしよう」的な気楽さというか気軽さで使っていたのを思い出す。で、あのクルーズさん、不可能に思えるミッション遂行の場面では「やってみよう!」の精神で出来る限り自分で実際にビルとビルの間を飛んで見せたりするという。一般の我々はそんなリスキーなやる気精神だけでは生きていくことはできないけれど、日常では尻込みばかりの人生はつまらない。やってみればうまくいくことも多いのが人生で、だから毎日が楽しくなるような気もするのだ。最近聞いた話だが、或るお金持ちの老人が病院のベッドで一人寂しく余生を送っていた。「あー、金持ちより幸せがいいなぁ」とその老人が言ったと…。“Why not be both.  両方ではいけないの?”とどこかで声がする。

笑いと痛みの間にはなぜか共通の涙がある

2025-05-30 16:33:54 | 日記
 大阪では本当に“日常茶飯事”という例えを使ってもいいかどうか分からないが、とにかく「アホ」と言う言葉を頻繁に耳にする。別に他府県の人が感じるほど深い意味はないのだがとにかく大阪の街はアホで満ち溢れている。この言葉、不思議な力をもっていて笑いを誘うのである。深刻な意味を持っているのではなくて、ま、標準語では軽く「バカだなー」に当たるのではないかと思う。いつものように家の塀越しに聞こえてきた自転車の一瞬の会話、「ホンマ私ってアホやろ」が笑いを生む。これを言った女性、きっとなにかつまらない失敗をしでかしたのだろう。大阪人は笑いは「最良の薬」だということを知っていると言った人もいたなー。
 最良の薬で思い出した。昔、英語を勉強していた頃、いつも「リーダズダイジェスト」という英語のアメリカの雑誌を買っていた。最近は全く目にしないけれど Laughter, the best medicine というページがあって頑張って辞書を引き引きアメリカのユーモアを理解しようとしていた頃がなつかしい。自信はないが“笑いは二人の距離が最も近くなる時である”という趣旨の話があったことをよく覚えている。以来、僕は人間関係がおかしくなるとこの言葉をおもいだすようにしていた。女房との口喧嘩を始め、友人との人間関係にも、とにかく会話に笑いを生み出す努力をしてきたように思う。僕がこの言葉を大切にしている理由、それはおかしくて大笑いした時も誰かのお葬式に参列した悲しみの時にも不思議と涙が出るからだ。大阪人の生活の中のコメディと、映画や演劇にもみる悲劇の間には人間が共有する不思議な涙の存在がある。

「三日坊主」は楽をしたくなる本能か

2025-05-27 16:55:34 | 日記
 先日、足を鍛えるために散歩を励行したいと考えているのになぜか自分は長続きしない性格だとこぼす友人と話す機会があった。何を隠そう、僕も同じ悩みを持っていて歩けなくなれば人生終わりだのとある種の悲壮感すらもっている。なのに続かない。健康に関してあせりがあるのだろう。「三日坊主」と言う言葉を思い出した。三日坊主とは手元の国語辞典を調べてみて、物事に飽きやすく長続きしないこと、またそういう性格、行動癖をもっている人をあざけっていう言葉だとの解説に納得した。だいたい人は何かを決心してその気になっているのに、一方では行動に飽きやすく長続きしない弱点を兼ね備えている。なぜだろう。
 先ず一つ、その決心に悲壮感がともなっていることだ。自分を追い詰めて何かをやろうとする時には何も成果を得れないことが往々にして起こる。Don’t force yourself. (自分に圧をかけすぎるな)ということを忘れているからだと思う節がある。先ずやって楽しいものを選ばなければならないはずなのに、少しでも負荷をかけて努力しなければ、などと自分に無理やりの努力を課しているような節があるのだ。Start small. 先ずは小目標から第一歩を踏み出して、そして徐々に目標を高めていくようなアプローチも忘れてはならないことの一つだ。それから雨の日があれば雪の日も、暑い日もあれば寒い日も、絶対実行などと考えず例外の日もとっておく余裕も必要だ。散歩することばかりに気を取られず、楽しんで歩くことを考えればそれでよい。問題は決心ばかりが先行して自分を苦しめるから楽をしたくなるのでは、などと考えていた。