万が一、一部の政治的野望を持つ軍人がクーデターを起こし、一時的に政権獲得に成功したとしても、永久に政権を握り続けることはできないし、任期を終えた後には処罰を受けることになる。

2023-11-30 09:07:39 | 韓国を知ろう

90年代にもハナ会によるクーデター説…

全斗煥の反乱の種が取り除かれるまで

登録:2023-11-29 08:27 修正:2023-11-29 23:02
 
「ソウルの春」を踏みにじった陸軍少将全斗煥はどうやってクーデターに成功したのか
 
 
映画『ソウルの春』の中の全斗煥保安司令官の姿=プラスエムエンターテインメント提供//ハンギョレ新聞社
 
クォン・ヒョクチョルの見えない安保//ハンギョレ新聞社

 映画『ソウルの春』は全斗煥(チョン・ドゥファン)など新軍部が1979年12月12日主導した軍事反乱を題材にしている。12月12日夕方から13日未明までクーデターを起こした新軍部とこれを阻止しようとする鎮圧軍の9時間にわたる死闘を取り上げた映画だ。

 当時、保安司令官として陸軍少将に過ぎなかった全斗煥は、どうやってクーデターに成功したのだろうか。この疑問は「保安司令官」と「ハナ会」というキーワードでひも解くことができる。韓国軍内部では1960年代からクーデターを防ぐための装置が二重三重に設けられていた。朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領自身が1961年5・16軍事クーデターで政権に就いたため、クーデターの再発防止のための安全装置が張り巡らされていた。

 全斗煥が司令官を務めていた保安司令部の主な任務は対転覆任務だ。「ひっくり返す」という意味の「転覆」はクーデターを指す。対転覆任務は、簡単に言えば、クーデターを防ぐことだ。

 保安司令部の対転覆任務遂行は、脅威となる要素を見つけて取り除くのではなく、転覆の兆候を事前に捉えて取り除くか、転覆に繋がる要因が発生しうる条件を探し出して管理することで、脅威となる要素の発生自体の防止を目指す。保安司令部はクーデターの芽を摘むために、主要軍指揮官が公式・非公式に接触した人物と動向をきめ細かくチェックする。主要軍指揮官の有線・無線通話も24時間傍受する。

 朴正煕元大統領は、本当に信頼できる人を保安司令官に任命した。陸軍第1師団長を務めていた全斗煥は1979年3月、保安司令官に任命された。全斗煥大尉は1961年5・16軍事クーデター直後、朴正煕将軍に抜擢され国家再建最高会議議長室民願秘書官を務めるなど、早くから朴正煕の腹心だった。

 保安司令部のクーデター予防措置にもかかわらずクーデターが起きた場合、1979年当時ソウル忠武路(チュンムロ)に駐屯した首都警備司令部やソウル松坡区(ソンパグ)の特殊戦司令部がソウルに入ってきたクーデター軍を鎮圧する。これらの部隊を対転覆任務部隊とも呼ぶ。

 このようなクーデターの予防・鎮圧システムは1979年12月12日にもあったが、新軍部の軍事反乱を防ぐことはできなかった。クーデターを防ぐべき全斗煥保安司令官がクーデターの「首魁」だったからだ。『ソウルの春』では保安司令部が軍通信網を傍受し、鎮圧軍の動きをやすやすと把握し対応する。クーデター防止のために保安司令部に与えた軍通信網の傍受権限を、新軍部が逆にクーデターに悪用したのだ。猫に鰹節のようなものだった。

 対転覆部隊の任務を遂行すべき特殊戦司令部と首都防衛司令部の一部指揮官も軍事反乱に加担し、行動隊長を務めた。軍事反乱を鎮圧しようとしたチョン・ビョンジュ特戦司令官の部下であるパク・ヒド第1空輸特戦旅団長とチェ・セチャン第3空輸特戦旅団長、チャン・ギオ第5空輸特戦旅団長が反乱軍に加わり、直属の上官に銃口を向けた。

 
 
1979年12月12日クーデターに成功した全斗煥(前列左から5番目)、盧泰愚(4番目)ら新軍部の主軸勢力は、その翌日に保安司令部で勝利を祝う記念写真を撮った=『第5共和国前史』より//ハンギョレ新聞社

 彼らが正常な指揮系統と任務を無視してクーデターを起こすことができたのは、「ハナ会」という私組織で堅く結ばれていたからだ。1963年、全斗煥、チョン・ホヨン、盧泰愚(ノ・テウ)、キム・ボクトンなど陸軍士官学校11期生の主導で軍隊内の私組織ハナ会が結成された。1979年12・12軍事反乱当時、保安司令部、特戦司令部、首都警備政令部などの主要メンバーがハナ会所属だった。ハナ会はもともと朴正煕大統領の親衛組織を標ぼうし、朴大統領の庇護の下で勢力を拡大した。朴大統領とハナ会は宿主と寄生生物のような関係だった。ところが、1979年10月26日に朴大統領が死去すると、寄生生物だったハナ会が宿主の座を射止めようと12・12軍事反乱を起こしたのだ。

 金泳三(キム・ヨンサム)大統領は就任するやいなや、ハナ会を解体し始めた。金大統領は就任11日後の1993年3月8日、陸軍参謀総長と機務司令官を更迭し、ハナ会の粛正に着手するとともに、「栗谷不正事件」や人事不正、12・12軍事クーデター関係者を軍から追い出すなど、電光石火のようにハナ会関係者たちを片付けていった。このようなハナ会の清算過程は「政治的なパフォーマンス」とも皮肉られたが、金泳三政権の関係者たちは当時の状況では不可欠な措置だったと反論する。

 「1979年冬、全斗煥保安司令官を東海(トンヘ)警備司令官に左遷しようとする計画が漏れて12・12軍事反乱が起きた。この点を金泳三大統領は意識せざるを得なかった。就任初期、盧泰愚政権時代に任命された軍将官の中で、金大統領が信頼できる人はほとんどいなかった。ハナ会と妥協して同居するつもりがないなら、政権発足初期に息をつく暇もなく刀を突きつけるしかなかった」

 金泳三大統領も退任後、1999年8月、あるメディアとのインタビューで、ハナ会の解体に一か八かの覚悟で臨んだと述べ、「それを行っていなかったら、政権は存続できなかっただろうし、次の金大中(キム・デジュン)政権も誕生しなかっただろう。再びクーデターを起こしたはずだ」と述べた。

 金泳三政権が発足した1993年夏、情報機関や軍、大統領府などにはクーデター説が広がり始めた。閑職に追いやられたハナ会所属の一部の将軍たちが資金調達と兵力の動員などの役割を分担し、クーデターを準備しているという噂が流れたのだ。

 「ハナ会のクーデター謀議説」が広がったことを受け、韓国政府はクーデターを主導する可能性がある将軍とその周辺人物の電話を傍受するなど動向を密着監視し、クーデターの資金源を探るために銀行口座を隅々まで調べた。結局、うわさにとどまったが、クーデター説は1993年末まで幽霊のようにソウル上空を漂っていた。

 1990年代半ばまで、政局が不安になれば軍部が介入する可能性が取り上げたりもした。この頃、各種世論調査では、軍部が韓国政治で最も影響を及ぼす集団に挙げられていた。

 しかし、2000年以降、韓国社会でクーデターを起こすのは不可能だと思われている。何より社会が変わったからだ。韓国社会が政治・経済・社会的に多元化され成熟した。軍が主導的な役割を果たす時代は過ぎ去った。

 
 
1996年8月26日、12・12軍事反乱を主導したなどの疑いで、囚人服を着て1審宣告公判を待つ全斗煥と盧泰愚=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 万が一、一部の政治的野望を持つ軍人がクーデターを起こし、一時的に政権獲得に成功したとしても、永久に政権を握り続けることはできないし、任期を終えた後には処罰を受けることになる。金泳三政権時代、検察は12・12軍事反乱について「成功したクーデターは処罰できない」という見解を示した。これに対する国民の抵抗が激しくなり、国会は1995年、5・18光州民主化運動などに関する特別法を議決し、全斗煥と盧泰愚に対する起訴が行われた。1997年4月、最高裁の確定判決で全斗煥には無期懲役、盧泰愚には懲役17年が言い渡された。成功したクーデターも処罰されるという先例が作られた。ハナ会のように公式指揮系統まで破り周到にクーデターを企画し実行できる軍内の私組織はもう存在しない。

 金泳三政権以降、軍に対する文民統制の原則は大きな流れとして定着した。文民統制は、国民が選出した政治権力(大統領)と文民の官僚(国防長官)が安全保障政策を主導・決定し、安全保障専門家集団である軍は軍事作戦でこれを後押しする方式だ。民主軍隊は政治的中立を前提に軍本来の任務だけに専念する安全保障専門家集団だ。『ソウルの春』は民主軍隊とクーデターは両立できないという事実を改めて物語っている。

クォン・ヒョクチョル記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

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