日本政府が2日に戒厳令を宣言するために「朝鮮人暴動説」を流布したということを、在日コリアンの歴史学者である姜徳相(カン・ドクサン、1931~2021)氏らが明らかにした、

2023-08-29 11:51:00 | 韓国を知ろう
 

関東大震災朝鮮人虐殺100年

「日本、朝鮮人の遺骨掘り起しトラック3台分移送」

登録:2023-08-30 08:27 修正:2023-08-30 08:55
 
[現場]関東大震災朝鮮人虐殺100年 
6644人殺害後、組織的に隠蔽 
軍人と警官は処罰せず、自警団は特別赦免
 
 
「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」は1982年9月、荒川付近で遺骨の発掘作業を始めたが遺骨は発見できなかった。1923年11月に警察が遺骨を移して隠ぺいしたという新聞記事が翌年1983年に発見された=裴昭氏提供//ハンギョレ新聞社

 「あそこがかつて四ツ木橋があった場所です。関東大地震当時、あのあたりで軍と自警団が朝鮮人を無惨にも虐殺しました。河川敷に100人ほど埋められたそうです。残念なことに、名前も分からず、遺骨も見つけられませんでした」

 11日午前11時、世界で最も高い電波塔である「スカイツリー」がひと目で見える東京墨田区の荒川河川敷。社団法人「ほうせんか」の西崎雅夫理事(63)は、写真資料を片手に持ち、100年前にそこで起きた惨劇を話し始めた。気温が35度まで上がり、そのまま立っていることも大変な天気だが、西崎理事は汗をたらたら流してながら、あたかも昨日起きたことのように、その日のことを説明した。

■目撃者「日本刀で斬り竹槍で刺して…妊婦も殺しました」

 1923年9月1日午前11時58分、マグニチュード7.9の大地震が首都圏である関東地方を襲い、東京・神奈川・埼玉・千葉などを廃墟に変えた。地震が起きた時間が昼食時だったため、火を使っていた家が多く、火災による被害が激しかった。東京の場合は約44%、横浜は80%に達する地域が消失した。破壊された家屋だけで約29万3000棟、死亡・行方不明者は10万5000人を超え、まさに阿鼻叫喚だった。

 当時の社会不安の雰囲気と相まって「朝鮮人が暴動を起こした」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマが広がり、収拾がつかなくなった。日本政府が2日に戒厳令を宣言するために「朝鮮人暴動説」を流布したということを、在日コリアンの歴史学者である姜徳相(カン・ドクサン、1931~2021)氏らが明らかにした、この虐殺劇の本質だ。その過程で、軍・警察・自警団が、朝鮮人、中国人、社会主義者の日本人たちを無差別に虐殺した。

 
 
社団法人「ほうせんか」の西崎雅夫理事が11日、東京墨田区にある荒川河川敷で写真資料を片手に持ち、100年前の1923年9月1日の関東大地震当時の朝鮮人虐殺について話をしている。後ろに見える鉄橋は京成電鉄の押上線=東京/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 西崎理事が虐殺場所として説明した四ツ木橋は、長さ247.3メートル、幅3メートルの木製の橋で、1969年に撤去された。京成電鉄押上線の鉄橋と木根川橋の間にある。

 その日、この地域の在郷軍人会や青年団などで構成された「自警団」は、橋の入り口に検問所を作り、朝鮮人を探しだした。当時、荒川では大規模な放水路の工事が行われており、安い賃金で雇える朝鮮人労働者が大勢仕事をしていた。

 「確か(1923年9月)3日の昼のことでした。四ツ木橋の下の方で朝鮮人を数人ごとに縛り、自警団が殺したという話です。いかに残忍な方法で殺したのかというと、日本刀で切って竹槍で刺し、鉄棒で打って殺したのです。腹が大きく膨らんだ妊婦もいましたが、そのまま刺して殺しました。私が見た時、30人ほど殺していました」(目撃者の青木氏証言)

 自警団だけでなく、日本軍も虐殺に加担した。「22~23人の朝鮮人を機関銃で殺したのが、四ツ木橋の下流の土手でした。あっという間に全員殺したのです。女性も2~3人いました。ひどすぎました。裸にしてもてあそんでいました」(目撃者の大川氏証言)

 日本の良心的な市民が1982年に作った「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」が直接足を使って作成した資料集(『風よ鳳仙花の歌をはこべ』という書名で出版)には、目撃者と生存者の証言が多数載っている。

 追悼する会は、その日の真実を糾明して無念の死を慰めるため、遺骨の発掘に乗りだした。1982年9月、証言に基づき、荒川付近で発掘を試みたが、遺骨は見つからなかった。

■「警察、朝鮮人虐殺を組織的に隠蔽」

 翌年の1983年に発見した過去の新聞記事から、理由が分かった。当時、警察と軍隊は、朝鮮人だけでなく日本人の労働活動家も殺害した。後にその事実を知ることになった遺族が、遺骨の返還を要求した。警察は、四ツ木橋近くに朝鮮人たちと一緒に埋葬され区別が難しいと言ったが、労組団体と遺族はあきらめなかった。大規模な虐殺が発覚することを恐れた警察は、事前に遺骨を取り出した。その事実が新聞に報道されたのだ。

 「1923年11月12日と14日に起きたことです。2回目の移送でトラック3台分の量の遺骨が移送されたそうです。遺骨がどこへ行ったのかは不明です。こうして組織的な隠蔽がなされたため、誰がどれくらい犠牲になったのか分からないのです」。西崎理事は「日本政府が真相を糾明して責任を負わなければならない」と強調した。

 朝鮮人虐殺は、東京など関東地方全域でなされた。虐殺を避けて多くの辛酸と苦難の末に埼玉に逃亡した朝鮮人を待っていたのは、現地の自警団だった。「埼玉では朝鮮人が223~240人ほど犠牲になったと推定されています。他の地域では、警察と軍隊による虐殺があわせて行われましたが、こちらでは自警団が中心でした」

 22日、埼玉県染谷にある常泉寺で会った日朝協会埼玉県連合会の関原正裕会長(70)は、「この地域の朝鮮人犠牲者は、東京など他地域から逃げてきた人が多いようです」と述べた。関原会長は「関東では、どこに行っても朝鮮人が生き残ることはできない雰囲気だった。逃げる場所がないと思うと、恐ろしさで途方に暮れただろう」と語った。

■墓碑の正面に「朝鮮人姜大興墓」

 常泉寺にはきわめて特異な墓がある。関東大地震当時、自警団によって殺害された朝鮮人の姜大興(カン・デフン)さんの墓碑だ。正面に大きな文字で「朝鮮人姜大興墓」と記されている。「虐殺の犠牲者のうち、自らの民族と個人の名前が彫られているケースはほとんどありません。過ちを繰り返さないという染谷の人たちの考えが反映されたのでしょう」

 
埼玉県染谷にある常泉寺には1923年9月4日早朝、自警団に殺害された朝鮮人虐殺被害者の姜大興さんの墓がある。上の石の正面に「朝鮮人姜大興墓」と記されている=埼玉/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 姜さんは1923年9月4日、24歳で命を絶たれた。埼玉県警は東京から埼玉県に避難した朝鮮人数百人を受け入れていた。これらの人々を群馬県に移送する計画だった。姜さんはそのなかの1人だったと推定される。

 理由は不明だが姜さんは単独で離脱し、4日早朝、片柳村で自警団に出くわした。「4キロメートルの距離を必死に逃げたそうです。足が水路にはまり、追いかけてきた自警団にとらえられ、刃と槍で刺されました」

 関原会長は、姜さんが逃げたと推定される道を案内した。「死の恐怖」のなかで逃げ、最後は自警団に殺された場所には「さいたま市コミュニティセンター」の建物がぽつんと立っている。

 関原会長は、姜さんをはじめとする朝鮮人が虐殺されたのは、日本政府の責任が大きいと強調した。9月3日午前、内務省警保局は「朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ(中略)厳密ナル取リ締マリヲ加エラレタシ」という文書を各地方に送った。

■デマ「朝鮮人暴動」が公式文書に

 地方自治体も動いていた。埼玉県はこれより早い2日夜、内務部長名義で県下の郡町村役所に「不逞鮮人暴動に関する件」と題する公文書を送った。「在郷軍人分会消防隊青年団等と一致協力して、其の警戒に任じ、一朝有事の場合には、速かに適当の方策を講ずる様」と記されていた。

 「不逞鮮人は、朝鮮の独立を求めるテロリスト集団の意味として用いられた言葉です。自警団を組織して村を守れと戦闘命令を下したのと同じことです」。関原会長は「何より『朝鮮人暴動』が公式文書を通じて伝えられ、自警団はデマを事実と認識した」としたうえで、「虐殺が急速に広がった理由」だと強調した。

 
 
22日、日朝協会埼玉県連合会の関原正裕会長(70)が1923年9月4日早朝、自警団に殺害された24歳の朝鮮人の姜大興さんについて話をしている=埼玉/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 東京の南に位置する神奈川県も、虐殺が大規模に発生した場所だ。神奈川県横浜市の東神奈川駅からゆっくり30分ほど歩くと、国土交通省の「横浜港湾空港技術調査事務所」の建物がみえてくる。

 大地震当時、その近所には浅野造船所があった。技術調査事務所の建物がある場所は、浅野造船所の埋立工事を行った朝鮮人労働者たちの集団宿舎である「飯場」があった所だ。

 21日に会った「関東大震災時朝鮮人虐殺の事実を知り追悼する神奈川実行委員会」の山本すみ子代表(84)は、飯場があった場所を手で示し、「そこにいた朝鮮人労働者50人あまりが虐殺された」と述べた。

 過去の新聞記事を検索して見つけた内容だ。誰がいつ殺したのかは明確ではない。「集団虐殺が可能だったのは、人々がそこに朝鮮人がいたという事実を知っていたためだと考えています。最もよく知っていたのは警察です。朝鮮人は、それ以前から危険人物とされ、常に監視されていました」

 山本代表は「その日の真実」を知るために2013年に実行委員会を作り、地域の図書館を飛び回って、新聞記事・日記・公文書などを調べ始めた。それらを集めて2014年、『横浜における関東大震災時朝鮮人虐殺』と題する報告書を発表した。

■「記録がない」とする日本政府

 いったいなぜ、こうした無差別的な虐殺が起きたのだろうか。関東大地震での朝鮮人虐殺問題を生涯にわたり研究した姜徳相氏は著書『関東大震災・虐殺の記憶』で次の結論を下した。この集団虐殺は、大規模災害による民衆の怒りが場合によっては皇室や治安当局に向かわないかと心配した官憲首脳部の術策▽植民地統治下の朝鮮に対する敵対政策と蔓延した差別▽3・1独立運動などから、朝鮮民衆に対して感じていた恐怖心などが重なり発生した民族犯罪だったということだ。

 関東大地震から100年が経過したが、日本政府は一度も正式な真相究明を行わなかった。そのため、正確な犠牲者数や虐殺の原因などは正確に解明されずにいる。

 当時の朝鮮人が直接調査した結果が、ある程度は当時の状況を類推できる基礎資料になっている。日本在住の朝鮮人団体が1923年10月までに調査した「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」の報告書がそれだ。この内容は、大韓民国臨時政府の機関紙である独立新聞の1923年12月5月付にも掲載された。

 
 
21日、「関東大震災時朝鮮人虐殺の事実を知り追悼する神奈川実行委員会」の山本すみ子代表(84)が朝鮮人労働者達が集団虐殺されたところを指し示している=神奈川/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 調査結果によると、神奈川県が3999人で犠牲者が最も多く、東京都1781人、埼玉県488人、千葉県329人、群馬県34人、栃木県8人、茨城県5人など合計6644人だ。独立新聞はこれを6661人として報じた。

 日本政府の公式統計と差が大きい。司法省(現法務省)は、朝鮮人犠牲者を合計230人と集計した。関東大地震における朝鮮人虐殺を研究した立教大学の山田昭次名誉教授は著書『関東大震災時の朝鮮人虐殺―その国家責任と民衆責任』で、司法省の発表の問題点として「朝鮮人虐殺の数を隠そうとしたことだけではない。軍隊と警察の虐殺を除いている」と批判した。山田教授は「独立新聞に掲載された統計も(調査の限界などで)不正確な部分がある」と指摘した。

 最新の資料は、内閣府の中央防災会議が2008年に出した分析報告書だ。この文書で日本政府は「人為的な殺傷行為」が起き、「殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1~数パーセント」にあたるとして、「殺傷の対象となったのは、朝鮮人が最も多かった」と明らかにした。これを根拠に犠牲者数を数千人と推算している。

 100年も経過したが、日本政府は「関連記録はない」とする無責任な態度をとり、適切な実情調査と謝罪を避けている。加害者への処罰もほとんど行われなかった。軍と警察は最初から処罰を受けなかったし、自警団は捕まって捜査と裁判を受けることになるが、ほとんどで執行猶予の判決が下されれた。それさえも、後に特別赦免となった。

 山本すみ子代表は「在日朝鮮人の集団居住地である京都の『ウトロ地区』で、20代の日本人青年が憎悪と偏見によって防火という重犯罪を犯した」として、「100年前になぜそのようなことが起きたのか、真実を明らかにすることで、繰り返しを避けることができる。これは、日本のためにも必要なこと」だと強調した。

東京・神奈川・埼玉/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
«  国民生活はすでに危機に直... | トップ |  指針は、子どもが清潔で、... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

韓国を知ろう」カテゴリの最新記事