「全国のすべての市郡で自分の地域を徹底的に封鎖し、事業単位・生産単位・生活単位別に隔離した状態で、事業と生産活動を組織」するよう指示した。

2022-05-13 17:28:52 | 朝鮮を知ろう。

北朝鮮、国境閉鎖から2年で

「新型コロナ感染者」発生を初めて認める

登録:2022-05-13 06:42 修正:2022-05-13 07:19
 
8日、平壌でオミクロン株の感染者を確認 
「最重大非常事件」…6月上旬に全員会議 
ワクチンなど対南・国際協力要請するかに関心集まる 
クォン統一部長官候補「北朝鮮の困難を助ける用意ある」 
 
金総書記「計画された経済事業を滞りなく進めるべき」 
外部と遮断した状態で生産・事業・生活続ける方針示す
 
 
北朝鮮の金正恩朝鮮労働党総書記兼国務委員長の主宰で1月20日に開かれた労働党中央委第8期第6回政治国会の様子/朝鮮中央通信・聯合ニュース

 北朝鮮当局が12日、新型コロナウイルス感染症の変異株「オミクロン」の感染者が発見されたと正式に発表した。2020年1月末に国境を閉鎖して以来、「新型コロナウイルス感染者ゼロ」を主張してきた北朝鮮当局が感染者発生の事実を公表したのは初めて。

 このような事実は同日、金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党総書記兼国務委員長が労働党中央委本部庁舎で主宰した党中央委第8期第8回政治局会議で報告・確認され、「国家防疫体制を最大非常防疫体制に移行」する内容の政治局決定書が採択された。「朝鮮中央通信」が報じた。ただし、一般人民向けの「労働新聞」には関連記事が掲載されなかった。

 朝鮮中央通信の報道によると、北朝鮮の国家非常防疫指揮部とその単位は同日の会議で「8日、首都のある団体の発熱者から採集した検体に対する厳格な遺伝子配列分析(PCR)の結果を審議し、最近世界的に急速に広がっているオミクロン株『BA.2』と一致すると結論付けた」という。

 朝鮮中央通信は「2020年2月から今日に至る2年3カ月間にわたり強固に守ってきた我々の非常防疫戦線に穴が生じるという国家最重大の非常事件が発生した」と報じた。ただし、政治国会は新型コロナ感染者の発生を「国家最重大非常事件」と規定し「最大非常防疫体系に移行」することを決めたが、「全面封鎖措置」は取らなかった。

 金正恩総書記は新型コロナ感染者が発生したことを受け、「全国のすべての市郡で自分の地域を徹底的に封鎖し、事業単位・生産単位・生活単位別に隔離した状態で、事業と生産活動を組織」するよう指示した。地域間の移動を禁止し、外部と遮断した状態で生産、事業、生活を続ける方針を示したのだ。さらに「計画された経済事業で滞りなく進めなければならない」とし、「営農事業や重要工業部門と工場・企業所での生産を最大限に急ぎ、華城(ファソン)地区1万世帯の住宅建設と蓮浦(ヨンポ)温室農場建設のような人民のための党の念願事業を期日内に問題なく完成しなければならない」と明らかにした。つまり、新型コロナ感染者の発生にかかわらず、当初立てた目標を達成する経済活動は継続せよという指示だ。

 金総書記はこれと関連し、「全住民集中病検診」や「消毒事業の強化」、「備蓄しておいた予備の医療品の動員措置」などを指示した。また、最大非常防疫体制の基本目的として「新型コロナの安定的抑制・管理」と「感染者の治療、最短期間での感染原因の除去」を挙げた。

 金総書記は「戦線と国境・海上・空中で警戒勤務をより一層強化し、国防で安全の空白が生じないよう万全を期することを特に強調された」と、朝鮮中央通信は報じた。金総書記のこのような指針をみる限り、2020年1月末以降続いてきた「国境全面閉鎖」措置はしばらく続くものとみられる。多くの防疫専門家たちは、「国境の全面閉鎖」を前面に押し出した北朝鮮の「ゼロコロナ政策」が、脆弱な保健医療基盤によるやむを得ない選択だとみている。

 しかし、伝播力が非常に強いオミクロンの感染者が発生したため、北朝鮮当局の意志とは関係なく、防疫政策の変化が避けられないという指摘もある。新型コロナ感染の確認や感染者の隔離・治療には、診断キットやワクチンなど国際社会の助けが要であるからだ。北朝鮮当局が中国を越えて国連、さらに韓国当局にも支援を要請するかどうかに注目が集まるのもそのためだ。北朝鮮当局は文在寅(ムン・ジェイン)政権の「ワクチン提供など防疫協力」提案に反応せず、COVAXなど国際社会のワクチン協力の受け入れにも消極的な態度を示した。

 これと関連し、クォン・ヨンセ韓国統一部長官候補は同日、国会外交統一委員会で開かれた人事聴聞会で、国民の力のチョン・ジンソク議員の「北朝鮮に対するワクチン支援を南北対話のモメンタムにする考えはあるか」という趣旨の質問に「当然だ。北朝鮮の困難を積極的に助ける用意がある。すでに統一部の予算まで編成されており、(長官に正式に)就任すれば、協力案を積極的に検討する」と答えた。

 金正恩総書記が同日の政治局会議で、「一連の重要問題を討議・決定するために、6月上旬に党中央委第8期第5回全員会議の招集」を決定した事実にも注目する必要がある。6月上旬に労働党全員会議が招集されるまで、オミクロン株の感染拡大を自主的に制御できるかどうかと、21日にソウルで行われる尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領とジョー・バイデン米大統領の初の韓米首脳会談で、どのような「対北朝鮮発言」が出るかなどによって、金正恩総書記の政策方向に変化が生まれる可能性もある。

イ・ジェフン先任記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
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青瓦台という空間の歴史が単なる歴代大統領の統治史ではなく、日帝侵奪史の本流から始まり、分断時代へとつながる朝鮮半島の苦難に満ちた現代史そのものだったことを気づかせてくれる。

2022-05-13 11:43:34 | 韓国文化

起源は日帝の総督官邸…

「83年にわたり最高権力の空間」青瓦台の秘史=韓国

登録:2022-05-13 03:13 修正:2022-05-13 08:04
 
[ノ・ヒョンソクの時事文化財] 
景福宮の後苑、日帝の総督官邸が起源 
紆余曲折の末、解放の6年前に完成 
 
戦争3日目にしてやってきた金日成 
3回滞在も、什器には触れず 
フランチェスカ女史の回顧談に 
「景武台は自分のものになると確信」解釈
 
 
1910年から1939年まで第1~7代朝鮮総督の居所だったソウル南山麓の倭城台官邸。 解放後、国立博物館として使われ、1950~60年代に撤去。正確な撤去時期は不明=ソウル歴史博物館提供//ハンギョレ新聞社

 「本日をもって青瓦台(大統領府)大統領時代が終わります」

 9日、大統領府からの最後の退勤をした文在寅(ムン・ジェイン)前大統領が見送る人々の前で叫んだ言葉は、重みのある宣言のように聞こえた。創氏改名で悪名高い第7代朝鮮総督、南次郎(1874~1955)が、朝鮮王朝の正宮である景福宮(キョンボックン)の後苑に景武台(キョンムデ)新官邸を建てて1939年9月20日に入居したことから始まった最高権力の空間が、83年の歴史(正確には82年8カ月)にピリオドを打ったという意味を持つからだ。

 1939年9月は日中戦争において中国の反撃が本格化していたほか、ドイツがポーランドに侵攻したことで第2次世界大戦が勃発したばかりの時期だった。不安な国際情勢が最も大きな問題となっていたため、総督の新官邸建設のニュースを当時のメディアは大きくは扱わなかった。1939年9月21日付の「東亜日報」2面には、景武台総督官邸の落成式の記事と写真が掲載されている。日本の神社から派遣された神官が、白い服を着て官邸入口に護符をずらりとはりつけて儀式を行っており、その後ろでは総督府の官僚たちが頭を下げている。写真に付け加えられた記事は、2年をかけ48万ウォンの公費で竣工した新総督官邸の華やかな落成式が、9月20日午前11時から南総督と総督府ナンバー2の大野政務総監、各局の課長の参列のもと行われ、2日後の22日に南総督夫妻と後藤秘書官の一家が新官邸と官舎に移る予定だと伝えている。

 
 
1993年10月、撤去中の大統領府旧本館。旧本館は20世紀初めの日本の伝統的な屋根様式と西欧のモダンな立方体建築が融合した建築で、日帝の公共機関の官邸の権威的な様式を踏襲していた=国家記録院提供//ハンギョレ新聞社

 新官邸を世間の話題の的にしたのは「朝鮮日報」だった。南総督が入居して10日たった同年10月3日付の朝鮮日報が、1面に新官邸の単独探訪記を載せたのだ。朝鮮人を兵士や労働者として徴用する強制動員政策が露骨になっていた時期だった。南総督の入居を祝うとして書かれたこの記事は「景武台の松林を道場として謹厳に健康な日課を送る」という大見出しと「老総督の新官邸生活訪問記」という小見出しが付いている 南総督の景武台官邸への入居を祝うために、朝鮮日報の当時のパン・ウンモ社長とイ・フング主筆が果物を手土産に訪ね、あいさつしながら交わした会話、景武台内部の風景、そこから眺めた京城の風景を紹介している。記事は、「紅顔白髪」の南総督がいつもと同じように賑やかに一行を迎え、珍しい草木と石灯籠のある庭園、鎮海(チンヘ)から取り寄せた金魚やコイの泳ぐ池、官邸の裏にある白岳山(北岳山の異称)の麓の散策路まで見物させてくれたと説明しつつ、このように記している。

 「総督は、再び足をのばして構内見物のために山麓に案内する。庭園の前に回って山麓の陸橋に上がると、かつて景武台の後ろにあった朝鮮の建物をここに移して……六角亭に登ると、樹々の海のような松林の向こうに南山以北の城内一帯が広がり、眺めがとても良かった」

 
 
1931年、日本の陸軍大臣在職時代の南次郎。5年後、朝鮮総督に就任する=パブリックドメイン//ハンギョレ新聞社

 多くの人々が看過しているが、権力の空間である大統領府の起源は、実は朝鮮総督府庁舎の建設が決定的な背景となっている。1926年、景福宮を目隠しするように総督府庁舎が建設された後にも、依然として会賢洞(フェヒョンドン)近くの南村(ナムチョン)の倭城台(ウェソンデ)官邸に住んでいた総督が、通勤するには距離が遠く警護上の不便さもあって、1930年代半ばに移転方針が決定されたが、工事は遅れた。紆余曲折の末に南総督が赴任した1937年に着工されたものの、日中戦争にともなう物資不足と戦時経済統制により1938年に一度工事が中断され、1939年9月20日に日本の神官が参席して伝統的な神道の儀式を挙行し、官邸が落成した。500年の朝鮮王朝の威厳と気品が漂う、国の王宮である景福宮の象徴的空間への官邸の建設は、銃刀を前面に押し立てた日帝の威力をもってしても、事実上は一気にはなしえなかったのだ。総督府庁舎の隣の西村(ソチョン)と北村(プクチョン)に日本人の社宅街や京城医専病院などの官公庁が確実に建てられた後である1939年に、すなわち解放のわずか6年前に景武台官邸が完成したというのは、じっくり考えるべきことだ。空間的に朝鮮を完全に統制していることを示す象徴的な作業が、解放をわずか6年後に控えた時期にようやく最終的に完成したことを示しているのだ。青瓦台官邸は、このような日帝の象徴的な空間の侵奪に、いかに長い時間がかかったかを証言する歴史的証拠としても意味がある。

 南次郎以降、1942~45年に総督として在任した小磯國昭と阿部信行は、まさにこの官邸で、人材および物資の供出令、徴兵令、挺身隊動員など、最後の悪あがきの強制動員と搾取政策を議論し、実行に移した。官邸と龍山(ヨンサン)の朝鮮軍(朝鮮駐留日本軍)司令部は、朝鮮半島の収奪と侵奪の二大中枢拠点だった。朝鮮軍司令官出身の南は、部下たちが守る龍山の朝鮮軍司令部も統治の手段として活用した。総督官邸と司令部は一体だった。

 解放後、阿部総督が什器を燃やした官邸を、米軍政司令官ハッジはそのまま使用する。李承晩(イ・スンマン)が続いて景武台を押さえ、朝鮮戦争開戦からわずか3日でソウルを占領した金日成(キム・イルソン)は3回ソウルを訪れ、景武台に滞在した。しかし、李承晩の妻フランチェスカが生前、知人たちに打ち明けた回顧によると、金日成は内部の家具や什器にほとんど手をつけなかったと伝えられている。陸軍参謀総長を務めたペク・ソニョプ(1920~2020)はこれについて、2016年に出版した回顧録で、「権力に敏感だった金日成が『景武台はまさに自分のもの』という考えから、大切に保存したと考えた方が合理的だ」と解釈している。

 1968年、北朝鮮の政権は特殊部隊を送って大統領府襲撃作戦を展開したが、失敗に終わる。深刻化した南北政権の分断と対立は、官邸をより民意とかけ離れた権力の鋼鉄の城にした。このような秘史は、青瓦台という空間の歴史が単なる歴代大統領の統治史ではなく、日帝侵奪史の本流から始まり、分断時代へとつながる朝鮮半島の苦難に満ちた現代史そのものだったことを気づかせてくれる。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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