夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

暴走族が「ダサイ族」に

2009年07月28日 | 言葉
 沖縄県の宜野湾市警察が全国的にも有名な暴走族の取り締まりで、名前を「ダサイ族」に決めたと言う。これはフジテレビの朝のニュースワイドで知った。「暴走」などと言うからかっこいい、なんて思うのだから、それこそ「ダサイ」名前にすればいいじゃないか、との発想である。市民の応募の中から選ばれた。
 どれほどの効果があるのかはよく分からないが、地元では確実に苦情が減っていると言う。
 司会者の夏休みで臨時司会者になった葛西アナウンサーが、言葉でその実態が分からなくなっている事がある、と言ったのは同感だ。彼が挙げた一つに「援助交際」があった。これは「未成年売春」と言えば良い、と言う。確かに「援助交際」にはあまり悪い意味は感じられない。ただ、これを「未成年売春」と言って良いか。成年だって援助交際をしている。そっちは成年だから許されるのか。
 「未成年の援助交際」を「未成年売春」と呼べば良いと言うだけの事ではないのか。つまり、「援助交際=売春」である。
 幸いに2003年に出来た国語辞典にはまだ載っていないが、「買春」ならその辞書にはある。「売春」と紛らわしいので「かいしゅん」と読む。売春にしても買春にしてもニュースになるのはいずれも相手が未成年の場合である。と言う事は、成人の間では、売春も買春も普通に行われていて、何もニュースにする事はないのである。「未成年売春」として「援助交際」の言葉が使われ、同じく「買春」の言葉が使われていると、本当に「売春・買春」は成人間なら問題ではない、と言っている事にならないだろうか。

 これらとよく似ているのが25日にも書いたが「マニフェスト」なる言葉である。「政権公約」ではないから、かっこいい、宣伝文句のように思えてしまう。政党は明らかに「政権公約」の意味をぼかすために使っていると私は思っている。だからマスコミは「マニフェスト」と言ってはならない、と信じている。
 先日は「マニフェスト」一点張りだった東京新聞が、今日は第一面のトップ記事でまず最初に「マニフェスト(政権公約)」と書いていた。やっと気が付いたか、と言いたい所だが、そうは行かない。そのあとずっと出て来る「マニフェスト」にどうしたって、考えが甘くなってしまう。ずっと「マニフェスト=政権公約」と読み替えて記事を読んでいる訳が無い。
 新聞は文字を大きくした時に記事の文体を変える工夫をした。当時定期購読紙は朝日だったが、朝日はそれを明確に述べた。少ない文字数で同じ事を表現するには文章が決め手になる。だから「マニフェスト」の6文字よりも「政権公約」の4文字の方が、文字数からも意味からも絶対的に優れているのである。
 宜野湾警察署が「暴走族」を「ダサイ族」に言い換えたのは言葉の持つ力を信じているからだ。ところが、大の新聞が言葉の力を信じていない。何たる事か。

 東京新聞は51回に渡って連載した「東京歌物語」を本にした。親しまれ愛されて来た歌謡曲を様々な面から掘り下げていて、私も好きな連載だった。書いたのは東京新聞編集局だ。だから「同編集局が本にした」と言うのが正しいと思った。ところが、これが本の広告になると「著書としてまとめた」になる。
 この「著書」に私は違和感がある。「著書・著作・著述」などの言葉にはある個人を感じてしまうからだ。もちろん、著作権などでは団体に所属している場合も多い。でも「著作権」は「原則として著作者の死後50年間存続する」などと説明されている。この場合の「著作者」は明らかに個人を想定している。
 つまり、「著者・著作・著書」などの言葉には個人のにおいがつきまとっている。まあ、「著作」では個人のにおいは薄くはなるが、特に「著者」には「人」の気持が十分にあると思う。その「著者」が「著作」したのが「著書」である。だから新聞の編集局が本にまとめた事を「著書としてまとめた」とは言わないのではないか、と思うのである。

 つまらない事にこだわっているなあ、と思うかも知れないが、新聞の使っている言葉だからこそこだわるのである。言葉を突き詰めて考えないから安易に「マニフェスト」などが乱発されているのだと思うのである。