夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

テレビでの花火見物がつまらない訳

2009年07月26日 | 文化
 きのう、やっぱり隅田川の花火をテレビで見た。そしてじきに消してしまった。やっぱり面白くない。私も何度か近くまで見に行った。特等席ではない。近所の人々と同じように道端で見たのである。家の中からよく見える人達は親戚や知人達を招待して接待しながらの見物だ。
 素晴らしい花火が上がれば、当然に歓声も上げれば、拍手もする。それが決してうるさくは感じられない。自分もその一人になっている。それは明確に共感を呼ぶ。ところが、テレビではそうではない。歓声を上げているのはゲスト出演達ばかりなのである。
 当然である。テレビの画面は最近は40インチ以上も増えているだろうが、32インチぐらいが多いのではないのか。私のも29のブラウン管だから、液晶にすれば32ぐらいには相当する。それでも決して迫力があるとは言えない。現場で見ているのとでは、迫力と言い、美しさと言い、格段に劣る。
 そこに映し出される花火を見て、歓声は上がらない。拍手も出来ない。ああ、きれいだな、と思う程度だ。それなのに、画面の中のゲスト達はそれこそ大はしゃぎなのである。それが面白くないのは当然である。

 実際に見ている場合には花火は巨大だし、迫力も満点。それに比べて観衆の歓声や拍手は小さい。すぐ耳元で起きているのに、うるさくは感じない。それなのに、テレビではそれが逆転する。花火は小さいし迫力も無いのに、歓声と拍手だけが盛大なのである。馬鹿馬鹿しくて見ちゃいられないのは当たり前である。
 テレビ局は分かっている。自分達が伝えている映像がどれほどの物かを。だから伝えられない美しさ、迫力をゲストの歓声と拍手とコメントで補おうと思うのである。それが裏目に出ている事を認識出来ない。

 現実に行われている花火を実際通りに素晴らしく伝える事は出来ない相談である。どんなに努力したって、実物よりずっとみすぼらしくなる。そんな当たり前の事がテレビ局は理解出来ない。せめて、忠実にその姿を伝えるしか仕方がないではないか。その忠実も、それは言葉だけの事であって、ほんの一部しか伝えられない。それが「伝える」と言う事の宿命である。実際に体験する事と天地雲泥の差がある。
 だから少しでも「真実」に近づこうと思えば、淡々と映像と音を流すしか方法は無いのである。下手な演出は百害あって一利無しなのだ。周囲の感動を伝えたってどうにもならない。我々は他人がどのように感動しているかを知りたいのではない。ひとはひと。
 現場に行けないからこそ、少しでもその現場を真実に近い形で見聞きしたいのである。自分とは全く感性の異なる他人の感動を通して感動したいと思う人など居やしない。

 同じ事を食べる番組でいつも体験している。おいしそうな料理をほんのわずか見せただけで、あとは出演者が食べて感想を述べるだけなのだ。味に対する感覚なんてそれこそ千差万別である。花火に対する感覚よりも遥かに微妙な所がある。それをあまり味に敏感とも思えないゲストが喜んで食べて感激しているのを見て、ああ、本当に旨いんだな、と思えるだろうか。
 これは差別ではないが、芸能人達は忙しくて、お金があってもあまり旨い物を食べる機会が無いと聞いている。普段、ロケ弁とか楽屋弁当しか食べていない人達なら、感激するのは当然だろう。だから感想も常にほとんど同じ。
 料理番組と言うのは本当は食べ慣れた人が評価して初めてその真価が分かるのだと思う。そこには味に対する感想だけではなく、見た目の美しさとか、料理の仕方や材料に対する深い洞察力がある。これまた差別で言うのではないが、ろくに正しい箸の持ち方も出来ない人が何を偉そうに、と思ってしまう。食べ方もとても汚い。きちんと正しく箸を持てる人が食べている姿は決して醜くはない。だが、駄目な箸の持ち方をする人は本当に醜い食べ方をするのである。
 それにこれは私だけの感じ方かも知れないが、物を食べている姿と言うのは決して美しくはない。人間の三大本能と言われる行為がある。食べるのはその一つに入っている。残りの二つ、一つは「眠る」だが、その姿は決して美しくはないし、あまり見たくもない。電車の中で居眠りしている姿など、本当にあほらしくなる。口をぼっかり開けて隣に寄りかかっている姿など、無惨である。
 さて、残る一つ。それはセックスだが、それは見せてはならぬ物とされている。見たがるのは美しいからではないだろう。欲情を刺激するから見たいだけの事。
 食べる姿はそれほどとは言わないが、私は決して美しいとも、いいなあ、とも思わない。いや、思えない。出来れば見たくない。大きな食べ物を一口にほおばり、口をもぐもぐなど、本当に嫌だ。そこには本能にすっかり身を委ねた表情しか見えない。演奏家が陶酔したような表情で楽器を奏でているのとはまるで違う世界である。なによりも、演奏ではそこに美しい音楽が流れている。だが、食べている姿には本能以外の何物も無い。
 せっかくの美しい料理なんだから、少しでも長く見ていたいではないか。箸を付けるのが惜しいくらいな料理はふんだんにある。味が分かるのか分からないのか、よく分からないような人のあまり美しいとは言えない食べる姿を見せられるよりも、黙っていても訴え掛けて来る力を持っている料理その物を見たい。
 素晴らしい料理はその姿で真相を伝える事が出来るのだ。もちろん、それには食べ慣れている視聴者が対象になる。と、ここで気が付いた。そうかテレビはあらゆる人を対象にしようと考えている。だから食べ慣れていない人にも何とか旨さを伝えたいと無駄な努力をしているのである。そして出演者が感激して食べている姿を見せて、それで目的が成就したのだと錯覚をしている。
 もちろん、私はこのような番組はほとんど見ないが、物事を伝えるとはどのような事なのかを考えてみたまでの話である。