夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

日本人には宗教心が必要だ

2009年07月17日 | 文化
 新聞のコラムに日本人は宗教心があまり強くないから幸せだ、と言うのがあった。確かに中近東のイスラム諸国のような宗教の争いで殺し合ったりする事とはまるで無関係である。宗教の名の下で人を殺すなど言語道断なのは言うまでも無い。だが、それはそうした宗教が間違っているだけの事である。正しい宗教なら熱心な信者であってちっともおかしくはない。
 日本人が宗教心が薄いのは、神道と仏教と言うまるで性格の異なる宗教が共存しているのも原因ではないか。日本では神道が担当する部分と仏教が担当する部分とが分かれている。物部氏と蘇我氏の戦いは古来の神道と新来の仏教との勢力争いと言われているが、宗教に名を借りた権力争いだと私は考えている。従って、物部氏が滅亡しても神道は滅びなかった。
 日本人が素朴に信仰しているのは自然の中に神を求める神道で、そこに教養としての仏教が入って来たのであり、共存しているのは当然なのだ。だから、誰もが何の疑いもなく新年には氏神に詣で、夏祭りや秋祭りでは盛大に氏神を迎え、お盆には仏式で先祖を迎え、葬儀では仏式で魂をあの世に送る。

 こうした宗教に対してのおおらかさに実は大きな落とし穴がある。宗教とは本来現世の御利益とは無縁の存在である。死後の安寧を願うのが宗教だ。そのために現世を身を清くして生きるのである。そうした宗教とは無縁に生きているから、宗教がどのような物であるのかを知らない。そうした無知に新興宗教がつけ込む。現世の御利益を餌としてちらつかせて、人々を誘う。病気や貧苦に苦しんでいる人にとっては大きな救いに思える。精神的に空虚な人も餌食となる。そこで信者になる。その最たる存在が、教祖が死刑宣告をされているオーム真理教だ。いくら名前を変えても、その本質は変わらない。
 そこまでひどくはなくても、この世に本当に邪教だと言える新興宗教は数限りなく存在している。
 神道のほんの一派に過ぎない靖国神社は戦死者の魂は、合祀したからには一つの霊魂になっていて分祀出来ないと言い張って、合祀の取り下げを願う遺族の心を踏みにじっている。それではお聞きするが、京都の平安神宮は誰を祀っているのか。ここには平安京を作った桓武天皇と平安京最後の天皇である孝明天皇のお二人が祀られている。ではそのお二人は一つの霊魂になってしまっているのか。とんでもない、神社側ははっきりとお二方をお祀りしていると言っている。靖国神社とて同じである。
 靖国神社は日本人の宗教心の薄さ、宗教に対する理解の無さを利用して、自分達の勝手な言い分を押し付けているに過ぎない。靖国神社には信教の自由の精神など微塵も無い。多くの新興宗教もこれによく似ている。自分達以外はすべて邪教なのである。
 
 基本的人権の信教の自由も無ければ、政教分離の原則もまた存在しない。ある宗教団体は政治団体を作り、国会に送り出している。母体の宗教が現世利益だけだから、その政治団体もまた同じであるのは言うを待たない。私が危うく引っ張り込まれそうになった時代、現世利益だけだったから、今だって同じはずである。教義がころころと変わるようではとても信用など出来ない。
 宗教とは神仏に熱心に祈る事ではない。神仏と言う大いなる存在の前に己を無にして、教えを請う事である。無心だから、良い事がどんどんしみ込んで行く。修身教育が必要だと言われているが、謙虚な心があれば、道徳など自然に分かるはずである。
 謙虚な心が無いから、我こそはと思い上がっているから、自分勝手な事のし放題になる。政治家から庶民に至るまで、我がまま勝手である。宗教と言うと○○教のような事をすぐに考えてしまうからいけないのである。そんなちっぽけな教義に囚われないで大いなる存在に対する畏怖心を持つ事、それが宗教だと私は考えている。教祖の教えが絶対なのではなく、教祖は単に大いなる存在の教えを分かり易く翻訳してくれるだけの存在に過ぎないのである。その翻訳の仕方が宗派によって多少異なるだけである。教祖を崇めさせるようになったら、その宗教は終わりである。あとは堕落の道を歩むしか無い。
 無宗教と宗教心が無いのは同じではない。特に信仰している宗教が無くても、立派に宗教心は持てる。今の日本人に必要なのは、この宗教心だと思う。