夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

靖国神社の合祀を考える

2009年07月19日 | 文化
 17日に、「日本人の宗教心の無さが日本を駄目にしている」と書いた。その一部に靖国神社の合祀問題を採り上げたら、その事について「対象は誰か」との御質問があった。答は簡単だが、簡単過ぎてかえって分かりにくい。そこで常々考えている事を書いて、それで答にしようと書き始めた。ブログでの答のつもりだったので、ですます調になっている。

 靖国神社に祀られている戦死者の中には韓国の人もいます。その遺族は日本に無理矢理徴兵されて死んだ戦死者を戦争を起こしたA級戦犯と合祀するような靖国神社に祀って欲しく無いと思っている人が居ます。日本国民の中にも居ます。ただ一人軍人ではないにも拘らず戦犯とされた広田弘毅氏の遺族もその一人です。
 本来、神道では死者はその家の守り神となります。家の神棚や神霊舎に祀られ、家族は日々奉仕をし、神は家族を守るのです。神社の多くは地元の氏神ですが、そこはその地を守る神様を祀っているのであって、個人個人の神霊を祀っているのではありません。
 死者が出ると、氏神に報告します。もちろん、これは神式で葬儀を行った場合です。神社の神官は故人の霊を仏教の位牌に相当する物に移し、その霊は忌明け(50日、100日あるいは1年)の後に家の守り神となります。神社が関与するのはその神霊を移す時と、その神霊を家に祀る時だけです。そこが一般の神社と靖国神社の大きな相違点です。靖国神社の場合、ご神体は一人一人の戦死者なのです。
 つまり、その家の守り神が自分の家には居ないで、靖国神社に居ます。守り神を取られてしまったようなものです。一人の神様は一体しか居ません。だからご神体を分祀して同じ○○神社を各地に作るのです。
 家の守り神を分祀してもらい、自分の家に祀りたいと思っても、靖国神社はそれを許しません。合祀したからには、ご神体は一つであって、分祀などとんでもない、と言う訳です。もちろん、分祀ではなく、ご神体その物を返してくれ、も聞き入れてはもらえません。日本人の多くは神道ではなく、仏教です。仏教で葬儀を行えば、死者は仏教の世界でその家の守護霊となります。神仏は自由無礙だから神にもなり、仏にもなるんだと言われても、他の宗教に勝手に祀られるのは嫌な人も居ます。極端な話、我々がイスラム教のどこかの寺院で自分の家族が祀られていると知ったら、どのような気持がするでしょうか。しかも自分の家には居ないのです。

 分祀の対象となるのは、遺族がそのように希望した戦死者です。A級戦犯も含めるべきだと私は思っています。昭和天皇は合祀を不快に思われ、A級戦犯合祀以降は靖国神社の参拝をしませんでした。それが昭和天皇のメモ発見として話題に上りました。ただ、A級戦犯の遺族は合祀にこだわるでしょう。「合祀=国からも認められた死」になると考えているからです。もちろん、多くの遺族もそう考えています。そうでも思わなければ、一片の紙切れで招集され、戦死させられてしまった人は浮かばれません。
 靖国神社は元々は各地にある幕末の動乱で戦死した死者の霊を祀るための招魂社の一つです。それだって戦争の犠牲者です。多くの戦死者が下級武士だったり、農民だったりした訳です。それぞれの○○藩の大義名分のための犠牲者です。藩はその罪滅ぼしのために鎮魂社を建てたのです。その後、対外戦争での戦死者も祀るようになりました。それは各地にあったのですが、明治政府が国の戦争を大義名分化するために国のために死んだ戦死者を祀る神社として東京の招魂社である靖国神社を昇格させまたのです。そこで靖国神社に祀られる事は名誉になりました。
 でも、果たして靖国神社はその大任を果たせているのか、と私は疑問に思っています。と言うのは、どこの神社でもたいていはご神体は一人です。まあ、浅草神社のように「三社様」と呼ばれ、三人の神様が祀られている場合も、平安神宮のように二人祀られている場合もありますが。因みに、平安神宮は二人の天皇を分祀している事になります。二人の天皇は皇室が祀っているからです。
 その神様に対して神官一人だけで祀っているのではありません。高野山金剛峰寺では、たった一人の弘法大師のためにだけに奉仕する専門の僧侶が居ます。そのほかに大勢の僧侶が居ます。神霊への奉仕はそれほど大変な事です。
 それなのに、靖国神社には何百万人ものご神体が祀られています。一体どうやって奉仕が出来ているのでしょうか。そんなに戦死者の霊とはちっぽけな存在なのでしょうか。神官は百人居たって足りはしません。一人当たり何万人ものご神体に奉仕する事が果たして可能でしょうか。そんな奉仕ならたかが知れています。
 だからこそ、靖国神社は霊は一つになっている、と言うのです。一つの霊に対して何人も、いやもっと多くの神官が奉仕をしている、と言いたいのでしょう。でもたとえ一つになっているとしても、何百万人もの霊が一つになっているのでから、それはそれは大変なものです。もしもそうではない、と言うのなら、靖国神社は神霊の力を軽蔑している事になります。

 信教の自由は一体、どこに行ってしまったのでしょうか。自分の家は神道ではなく仏教だ、それも○○宗だ、と言う人の思いを踏みにじって何で平気なのでしょうか。それでは単なる邪教の一種ではありませんか。国が関わって来た、そして今でも密かに国が関わっているから、誰も手が出せないのでしょう。仏教界やキリスト教会、他の神道の諸宗派などはどうして黙って見ているだけなのでしょうか。
 前のブログで「宗教とは神仏に熱心に祈る事ではない。神仏と言う大いなる存在の前に己を無にして、教えを請う事である」と書きました。そして文体の研究のために『バカの壁』の最初の部分に目を通したら、次のような事が書かれていて、我が意を得たり、と思いました。

 本来、人間には分からない現実のディテールを完全に把握している存在が、世界中でただ一人だけいる。それが「神」である。この前提があるからこそ、正しい答も存在しているという前提が出来る。それゆえに、彼等は科学にしても他の何の分野にしても、正しい答というものを徹底的に追求出来るのです。唯一絶対的な存在があってこそ「正解」は存在する。ところが私達日本人の住むのは本来、八百万の神の世界です。ここには、本質的に真実は何か、事実は何か、と追求する癖が無い。

 己を無にする大いなる存在が、決して「大いなる」とは言えないのです。今年の正月は○○神社に詣で、来年は××神社に詣でる、と言う事を何の疑問も無くしているからには、神は大いなる存在ではあり得ません。まるでファーストフード店をはしごしているようなものです。だから本当に勝手気ままな事がやられています。靖国神社の「大いなる存在」と他の諸宗教の「大いなる存在」は全く別の存在なので、誰も文句を言えないと思っているのです。言ってみれば、イスラム教とキリスト教の関係のようなものです。互いに、自分達こそが真実であると言って譲りません。
 宗教心の無い悲しさは、「様々な真実」があると思い込んでしまう事だと思います。それは宗教戦争のような愚を繰り返さないためには役に立っていますが、相手の勝手気ままを許してしまう欠陥も持っています。そこに靖国問題の本質があると、私は考えています。