夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

変な言葉を定着させるな

2009年07月31日 | 言葉
 青森県でなまこのストラップが人気を呼んでいると言う。東京新聞の記事だが、「ブサかわいい」と喜ばれているそうだ。この言葉に「キモかわいい」と同格の地位を与えているらしい。
 「ブサかわいい」は「不細工でかわいい」だから分からなくはない。「不細工」には「格好が悪い。器量が悪い」の意味しか無い。だが「キモかわいい」つまり「キモイ」の「気持」には「気持悪い」だけではなく「気持良い」があるのは誰でも知っている。その片方だけを取って「きもい」なる言葉を作るのはあまりにも身勝手過ぎる。
 若者がそう言って喜んでいる分には問題はない。だが、新聞がそうした表現を認めるとなると大きな問題である。そうか、今やマスコミは「社会の木鐸」などではなく、「社会と言う名の金魚のしっぽ」に過ぎない。ついでに「木鐸」とは「指導者」の意味である。なぜ「木鐸」かと言うと、昔、中国で法令などを人民に触れて歩く時に鳴らした大きな鈴の舌が木で作られていたから、だそうだ。これはどんな国語辞典にもあるはずだ。

 自分達の知って使っている言葉をもっと大事にしましょうよ。きちんと役目を果たさせましょうよ。そうした事をろくにしないから、既存の言葉では言い足りないとばかりに新しい奇妙な言葉を作る。それは目新しいから目立つし、すぐに跳び付く軽薄な人間にはもてはやされる。
 大体、日本人は言葉を磨く事を知らない。簡単に外来の言葉を利用して済ませてしまう。その代表格が字音語である。現在の日本語のほとんどが字音語で占められている。それはもう仕方の無い事だが、単に漢字の発音を使っているだけだから、文字を離れたら、途端に意味が分からなくなる。
 「とっさ」とか「がっこう」とか、ほかに同じ発音の言葉が無かったり、ほとんど使われなかったりすれば、発音だけで十分に用が足りる。そうした言葉と文字を離れては存在出来ない言葉とは明確に違う。

 例えば、テレビである医師が「熱中症では死んでしまうと言う後遺症がある」などと、とんでもない事を言っていた。これは稀に見る例だろうが、病気とか怪我が治っても影響が残るからこそ「後遺症」なのである。それはどなたもご存じのはず。死者に何の後遺症があるのか。因みに「後遺症が残る」は重言になる。
 比喩的に「鉄道ストの後遺症」などと使われるから、「後遺症」が単に「悪影響」などの意味で捉えられてしまう事にもなる。「遺=のこる」の意味を分からなくさせてしまうような漢字改訂が行われた結果である。

 字音語が重宝に使われるのは、重々しく響くからだ。易しい言葉では誰もが有り難がらない。自分の病気について別の医師の意見を聞く事を「セカンド・オピニオン」と言う。日本語なら「第二の意見」である。
 だが、「第二の意見」では誰も有り難がらない。「セカンド・オピニオン」と呼ぶから、威厳があるのだ。従って、医師達は絶対に「第二の意見」などを支持しないだろう。そして残念な事に患者も同じである。「意見」を「見解」などに変えて、「第二の」を「二次」などに変えて、「二次見解」とかにしなければ、いやいや、それでも駄目だろう、「見解」では弱い。「二次診断」などではかろうじて受かるかも知れない。
 いずれにしても、それらしい体裁を作らなければ、納得はしてもらえない。
 逆に、どのような意見であっても「セカンド・オピニオン」だから承服するのであって、「第二の意見」なら、「納得行かないから、第三の意見を聞こうか」と言う事にもなるだろう。

 どのような言葉であっても、少しでも意味を明確にしよう、分かり易くしよう、と言うのが、「社会の木鐸」たる新聞・テレビの使命である。一般人にはなかなか出来にくいからこそ、新聞・テレビが先に立つ必要があるのだ。彼等が率先してすれば、庶民は渋々でも付いて行くだろう。それなのに、先に立って軽佻浮薄な言葉に跳び付いている。情けない。
 まあね、日本にはその昔、国語をフランス語にしよう、などと真面目に言っていた文学者がいらっしゃる訳だから、本質的に駄目なのかもね。

 これは私の思い違いかも知れないが、以前は「マスコミ」と言っていたのを最近は「マスメディア」と言うようになったと思う。「マスコミ」はもちろん「マスコミュニケーション」で、「マス=大衆」「コミュニケーション=伝達」だから「大衆伝達」になる。ただ、この言葉には「大衆伝達(方式)」の意味と「大衆伝達(媒体)」の意味の両方がある。それが「マスメディア」であれば、「メディア=媒体」だから、明確に「大衆伝達媒体」の意味になる。
 私はずっと「マスコミ=大衆伝達媒体」だと思っていた。なぜなら、「コミュニケーション=通信・伝達」は抽象的な言い方であり、日本人はカタカナ語の「マスコミ」として、具体的な「媒体」の方を選んだのだと思う。以前は新聞やテレビ・ラジオを「マスコミ」と言っていたと思う。もし、私のこの感覚が正しいなら、「マスメディア」は正しい言葉の使い方の方に舵を切ったのだと思う。ある辞書には「マスコミ」を「マスメディア」の意味に用いるのは俗用、と書かれている。それに「コミュニケーション」は「コミニュケーション」と間違え易い。
 こうした事が出来るのだから、マスメディアはもっと日本語を磨く事に専念すべきだと思う。