夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

ワーブロ専用機の復活に大賛成

2009年07月21日 | 文化
 ワープロ専用機の復活を望む声を新聞でたびたび見る。文書作成が主な場合、パソコンよりはワープロの方がずっと良い。と言うよりも、パソコンは要らない。
 日本でこれほどまでにパソコンが普及しているのは、そもそもはワープロの需要があったからではないのか。欧米ならタイプライターがあるのに、日本ではそれは無理だった。日本語を打てるタイプはそれこそ大きくて、専用のタイピストが必要だった。そしてそれは清書機であって、誰もが簡単に操作出来る物ではなかった。
 日本語タイプライターへの夢がワープロとなって実現した。だから普及するのも速かった。ワープロ全盛期のパソコンで文章を作ろうとすると、あまりの勝手の悪さに辟易した。何しろ、字詰めの観念が無い。1行を何字にする、と言う事が出来ない。改行するまで1行はどこまでも続いてしまう。
 そのパソコンのワープロ機能がどうにかワープロ専用機に追い付いて、今度はワープロを駆逐してしまった。いや、機械がしたのではなく、機械を製造する立場の人間がしたのである。文章作成専用機よりも何でも出来るパソコンの方が優秀だと思ったのである。
 確かに当時のワープロとパソコンとを比べたら、頭の良さや速さには格段の差があった。ワーブロでひとまとまりの文章をコピーしようとすると、私の使っていた上級機である富士通のオアシスでは、コピーする始めから終わりまでをカーソルでなぞる。その速度が非常にのろい。遅い、ではなく、のろい、のだ。終わりまで来ると、今度は逆にカーソルが動いて始まりの所にまで戻る。そうやってコピーする部分を記憶するのである。
 それが終わると、今度はコピーする場所にカーソルを移動してコピーのキーを押す。するとカーソルが再びのろのろと動き出して、始めから終わりまでを一字一字複写して行く。
 そうした事にすっかり慣れてしまっていたから、パソコンで同じ事をした時、瞬時に終わってしまうので、コピーを失敗したかと思い、何度も何度も同じ物をコピーしてしまった。それくらい、ワープロとパソコンの頭脳の違いがあった。
 今ワーブロを作れば、パソコンと同じ速度が出るはずだ。

 ワープロは文章作成の専用機だが、データの処理だって出来る。当たり前だが、そうとは知らない人も居るだろう。ワーブロのオアシスではカード型データベースソフトが使えた。オアシスメイトと言う名のそのソフトは非常に使い易く、私はそれで様々なデータ処理をしていた。自分で会計のソフトを作り、会計のデータ処理をしていた。現在あるパソコンの会計ソフトと比べたらお話にならないが、それでも金額の転記ミスなどは防げたし、一つのデータさえ作っておけば、現金出納帳も預貯金出納帳も出来た。今パソコンでファイルメーカーと言う名前のデータベースソフトを使っているが、使い勝手はオアシスメイトとほとんど同じだ。ただ、CPUの能力が格段に優れているからソートや検索のスピードは比べ物にならないが。
 今ワープロ専用機を作って、そこで使えるデータ処理ソフトも作れば、それこそパソコンは要らなくなる人が大勢出て来るだろう。何でも出来る万能型は素晴らしい事は確かだか、それだけに価格は高くなるし、使い勝手も簡単とは言えなくなる。使い道を特化すれば、必要な機能は最高を望めるだろうし、余分な事が要らない分だけ安く出来るはずだ。使い勝手だって簡単で易しく出来る。
 あれもこれもは要らない。我々は人それぞれに個性が違う。物の使い方だって違う。すべての機能がすべての人に必要な訳は無い。誰だって、持っている電化製品の機能の内、ほんのわずかしか使っていない。つまり、余分な機能に高い金を払っている。単純な機能の機械に魅力を持たせる事は十分可能だ。それが出来ないのはメーカーに能が無いからに過ぎない。あるいは単純な機能なら価格も安くなるから、それが嫌なのか。

 私はパソコンでDTPを主に、インターネットとデータ処理、テキスト作成をやっているから、パソコンの方がずっと便利だが、一般的にはインターネットとテキスト作成くらいではないだろうか。メールなどもテキストを作って、それをコピーした方が効率も良いし、安全だ。それをワープロ専用機で出来るようにする事は決して難しくはないはずだ。
 ワーブロ専用機を、と言うのには別の理由もある。パソコンの世界ではどうしてもマニアックになる。技術優先になる。それが技術者としての誇りでもあり、やり甲斐だからだ。そこには初心者が分かり易いように、使い易いようにとの配慮は無い。それはパソコンのマニュアルやソフトのマニュアルを読めばよく分かる。マニュアルの説明は技術の説明であって、使い方の説明ではない。ほとんどのマニュアルがそうだ。どんなに詳しく説明がされていても、一向に分かりはしない。技術の説明を詳しくされればされるほど、逆に分かりにくくなるのだ。そんな事が分からない人々がパソコンやそのソフトを作っている。
 ちょうど司法関係の専門家が庶民の感覚とはまるで離れた自分達だけの世界にしか通用しないような決まりを作って運用しているのと同じである。パソコンは裁判官で、ワープロは庶民なのだ。我々の日常の暮らしに裁判官は要らない。

靖国神社の合祀を考える

2009年07月19日 | 文化
 17日に、「日本人の宗教心の無さが日本を駄目にしている」と書いた。その一部に靖国神社の合祀問題を採り上げたら、その事について「対象は誰か」との御質問があった。答は簡単だが、簡単過ぎてかえって分かりにくい。そこで常々考えている事を書いて、それで答にしようと書き始めた。ブログでの答のつもりだったので、ですます調になっている。

 靖国神社に祀られている戦死者の中には韓国の人もいます。その遺族は日本に無理矢理徴兵されて死んだ戦死者を戦争を起こしたA級戦犯と合祀するような靖国神社に祀って欲しく無いと思っている人が居ます。日本国民の中にも居ます。ただ一人軍人ではないにも拘らず戦犯とされた広田弘毅氏の遺族もその一人です。
 本来、神道では死者はその家の守り神となります。家の神棚や神霊舎に祀られ、家族は日々奉仕をし、神は家族を守るのです。神社の多くは地元の氏神ですが、そこはその地を守る神様を祀っているのであって、個人個人の神霊を祀っているのではありません。
 死者が出ると、氏神に報告します。もちろん、これは神式で葬儀を行った場合です。神社の神官は故人の霊を仏教の位牌に相当する物に移し、その霊は忌明け(50日、100日あるいは1年)の後に家の守り神となります。神社が関与するのはその神霊を移す時と、その神霊を家に祀る時だけです。そこが一般の神社と靖国神社の大きな相違点です。靖国神社の場合、ご神体は一人一人の戦死者なのです。
 つまり、その家の守り神が自分の家には居ないで、靖国神社に居ます。守り神を取られてしまったようなものです。一人の神様は一体しか居ません。だからご神体を分祀して同じ○○神社を各地に作るのです。
 家の守り神を分祀してもらい、自分の家に祀りたいと思っても、靖国神社はそれを許しません。合祀したからには、ご神体は一つであって、分祀などとんでもない、と言う訳です。もちろん、分祀ではなく、ご神体その物を返してくれ、も聞き入れてはもらえません。日本人の多くは神道ではなく、仏教です。仏教で葬儀を行えば、死者は仏教の世界でその家の守護霊となります。神仏は自由無礙だから神にもなり、仏にもなるんだと言われても、他の宗教に勝手に祀られるのは嫌な人も居ます。極端な話、我々がイスラム教のどこかの寺院で自分の家族が祀られていると知ったら、どのような気持がするでしょうか。しかも自分の家には居ないのです。

 分祀の対象となるのは、遺族がそのように希望した戦死者です。A級戦犯も含めるべきだと私は思っています。昭和天皇は合祀を不快に思われ、A級戦犯合祀以降は靖国神社の参拝をしませんでした。それが昭和天皇のメモ発見として話題に上りました。ただ、A級戦犯の遺族は合祀にこだわるでしょう。「合祀=国からも認められた死」になると考えているからです。もちろん、多くの遺族もそう考えています。そうでも思わなければ、一片の紙切れで招集され、戦死させられてしまった人は浮かばれません。
 靖国神社は元々は各地にある幕末の動乱で戦死した死者の霊を祀るための招魂社の一つです。それだって戦争の犠牲者です。多くの戦死者が下級武士だったり、農民だったりした訳です。それぞれの○○藩の大義名分のための犠牲者です。藩はその罪滅ぼしのために鎮魂社を建てたのです。その後、対外戦争での戦死者も祀るようになりました。それは各地にあったのですが、明治政府が国の戦争を大義名分化するために国のために死んだ戦死者を祀る神社として東京の招魂社である靖国神社を昇格させまたのです。そこで靖国神社に祀られる事は名誉になりました。
 でも、果たして靖国神社はその大任を果たせているのか、と私は疑問に思っています。と言うのは、どこの神社でもたいていはご神体は一人です。まあ、浅草神社のように「三社様」と呼ばれ、三人の神様が祀られている場合も、平安神宮のように二人祀られている場合もありますが。因みに、平安神宮は二人の天皇を分祀している事になります。二人の天皇は皇室が祀っているからです。
 その神様に対して神官一人だけで祀っているのではありません。高野山金剛峰寺では、たった一人の弘法大師のためにだけに奉仕する専門の僧侶が居ます。そのほかに大勢の僧侶が居ます。神霊への奉仕はそれほど大変な事です。
 それなのに、靖国神社には何百万人ものご神体が祀られています。一体どうやって奉仕が出来ているのでしょうか。そんなに戦死者の霊とはちっぽけな存在なのでしょうか。神官は百人居たって足りはしません。一人当たり何万人ものご神体に奉仕する事が果たして可能でしょうか。そんな奉仕ならたかが知れています。
 だからこそ、靖国神社は霊は一つになっている、と言うのです。一つの霊に対して何人も、いやもっと多くの神官が奉仕をしている、と言いたいのでしょう。でもたとえ一つになっているとしても、何百万人もの霊が一つになっているのでから、それはそれは大変なものです。もしもそうではない、と言うのなら、靖国神社は神霊の力を軽蔑している事になります。

 信教の自由は一体、どこに行ってしまったのでしょうか。自分の家は神道ではなく仏教だ、それも○○宗だ、と言う人の思いを踏みにじって何で平気なのでしょうか。それでは単なる邪教の一種ではありませんか。国が関わって来た、そして今でも密かに国が関わっているから、誰も手が出せないのでしょう。仏教界やキリスト教会、他の神道の諸宗派などはどうして黙って見ているだけなのでしょうか。
 前のブログで「宗教とは神仏に熱心に祈る事ではない。神仏と言う大いなる存在の前に己を無にして、教えを請う事である」と書きました。そして文体の研究のために『バカの壁』の最初の部分に目を通したら、次のような事が書かれていて、我が意を得たり、と思いました。

 本来、人間には分からない現実のディテールを完全に把握している存在が、世界中でただ一人だけいる。それが「神」である。この前提があるからこそ、正しい答も存在しているという前提が出来る。それゆえに、彼等は科学にしても他の何の分野にしても、正しい答というものを徹底的に追求出来るのです。唯一絶対的な存在があってこそ「正解」は存在する。ところが私達日本人の住むのは本来、八百万の神の世界です。ここには、本質的に真実は何か、事実は何か、と追求する癖が無い。

 己を無にする大いなる存在が、決して「大いなる」とは言えないのです。今年の正月は○○神社に詣で、来年は××神社に詣でる、と言う事を何の疑問も無くしているからには、神は大いなる存在ではあり得ません。まるでファーストフード店をはしごしているようなものです。だから本当に勝手気ままな事がやられています。靖国神社の「大いなる存在」と他の諸宗教の「大いなる存在」は全く別の存在なので、誰も文句を言えないと思っているのです。言ってみれば、イスラム教とキリスト教の関係のようなものです。互いに、自分達こそが真実であると言って譲りません。
 宗教心の無い悲しさは、「様々な真実」があると思い込んでしまう事だと思います。それは宗教戦争のような愚を繰り返さないためには役に立っていますが、相手の勝手気ままを許してしまう欠陥も持っています。そこに靖国問題の本質があると、私は考えています。

臓器移植法と民主党

2009年07月18日 | 社会問題
 私の体の一部はまだまだ健全な物が多いのですが、残念ながら寿命の方が尽きてしまいました。つきましては、使える臓器を必要な方に役立てて頂きたいと思い、差し上げる事にしました。そして私はどなたかの体の中で再び生き続ける事が出来ます。
 有難うございます。一生大切にいたしますので、是非使わせて下さい。

 と言うようなのが臓器移植でのやりとりではないだろうか。しかし現在は、臓器が欲しい、誰か健全な臓器を持っている人が死んでくれないだろうか、と心待ちに待っているような情況である。
 使って下さい。では頂きます。ではなく、譲ってくれ、との一方的なお願いをしている。もちろん命の綱である人に取っては真剣その物である。提供する人が非常に少ないためにそうした現状になっている。それでも、当然にもらえるのではなく、あくまでも「お使い下さい」と申し出る人が居て初めて成り立つ。
 本当はもっともっと多くの人が、どうぞ私の体をお使い下さい、と言っておかしくはないのだが、多分、認識不足に過ぎないだろう。どうせ灰にしてしまう物が、ある人々にとっては命その物になると言う事の認識が足りないだけの事である。
 そうした大切な事を一体、どれほど認識させようと努力をして来たか。ほとんどの人が他人事のように思っている。話題になるのは、アメリカなどに渡って移植を受けるために多額の費用がかかり、その募金活動をしていると言うような話ばかりである。
 大体が無責任である。自分達はやりたくないから、どこかよその国でやってもらってくれ、なのである。さすがに諸外国も堪忍袋の緒が切れた。自分達で解決せずにな何でよその国にばかり頼るんだ。そうなんですよ、我々日本人は自分の国の安全だってよその国に守ってもらおうと思っているんですから。
 だから臓器移植の値段はどんどん上がる。結局は、自分達の責任に目覚めたのではなく、高くなってしまったから、安上がりに自分達でやろうじゃないか、あるいは、外国では受け入れてもらえないから、とそんな事が発端ではないのか。馬鹿にするな、と言うのなら、もっと前から真剣に考えておくべきだったのだ。

 成立した臓器移植法改正A案は多くの人々が問題あり、と考えている。あまりにも拙速で、臓器欲しさの気持がもろに出てしまっている。欲しい臓器を目の前にして、人の死がどのような物であるかを忘れてしまっている。昨日書いたが、宗教心の無さがこうした場合に裏目に出る。

 今、政治の世界では庶民の目は民主党に向いているようである。次の政権を担当させてみようではないか、と思い始めている。あまりにも自民党がだらしないからである。積極的な支持ではなく、ほかに選択肢が無いからのいやいやながらの支持であると私は思っている。
 この臓器移植法案の衆院可決で、民主党・無所属クラブは反対した議員が賛成した議員より24人多い65人。棄権を入れれば更に6人増えて71人になる。社民党・市民連合にも共産党にも賛成者は一人も居ない。それでも可決してしまったのは、自公議員が多数だからだろう。それなら、参議院は逆転しているのだから、参院では否決されるかと見ていたら、何と可決してしまった。
 つまり、民主党議員の多くが賛成に回ったに違いない。そうでなければ計算が合わない。それとも社民党も共産党も賛成に回ったのか。いやいや、そんな事は無い。社民党は反対と棄権、共産党は全員反対だ。民主党では賛成46人、反対48人、棄権10人。
 衆院では過半数は112。民主党の賛成は41で過半数の36・6%。参院では過半数は104。民主党の賛成は46で、過半数の44・2%。明らかに衆院よりも賛成者の割合が増えている。公明党では賛成が14で、反対が6。これは衆院では賛成12、反対18だったから、明確に賛成に回っている。宗教団体が人の死をどのように考えているかを考えさせられてしまう結果ではある。
 こうした事を考えると民主党の賛成派が増えた事が参院での可決に繋がっていると見るべきだろう。

 こうした結果を見て、私は次の選挙でたとえ民主党が圧勝したとしても、その行く先には不安がある。人の死をいい加減に考えるような人間にどうして大事な国政を任せられるか。
 衆院で反対した民主党及び無所属クラブの議員の中には、以下敬称略だが、枝野幸男、田中眞紀子、長妻昭、鳩山由紀夫、原口一博、細野豪志、前原誠司の諸氏が居る。
 一方、賛成した同議員の中には、安住淳、小沢一郎、岡田克也、菅直人、小宮山洋子、仙谷由人、羽田孜、馬淵澄夫、松原仁、山岡賢次、渡部恒三の諸氏が居る。
 以上、単に私がテレビなどでよく見掛ける顔ぶれだけを挙げたのだが、勝手ながら非常にがっかりした。岡田も菅も賛成なのか。菅氏は厚生大臣だった時、役人を叱りつけて薬剤エイズの隠している部分を吐き出せた。そう私は理解していたのだが、もしかしたら、間違っていたかも知れない。やっぱり、民主党は世間が言うように、単なる寄せ集めに過ぎないようだ。
 悲しい事に、政権担当としては二者択一しか無い。こうなると、やっばり私が常々思っている、政党なんか要らないのじゃないか、になってしまいそうなのだが。次の衆院選挙で決まる新しい政権に私はまるで期待を持てないでいる。

日本人には宗教心が必要だ

2009年07月17日 | 文化
 新聞のコラムに日本人は宗教心があまり強くないから幸せだ、と言うのがあった。確かに中近東のイスラム諸国のような宗教の争いで殺し合ったりする事とはまるで無関係である。宗教の名の下で人を殺すなど言語道断なのは言うまでも無い。だが、それはそうした宗教が間違っているだけの事である。正しい宗教なら熱心な信者であってちっともおかしくはない。
 日本人が宗教心が薄いのは、神道と仏教と言うまるで性格の異なる宗教が共存しているのも原因ではないか。日本では神道が担当する部分と仏教が担当する部分とが分かれている。物部氏と蘇我氏の戦いは古来の神道と新来の仏教との勢力争いと言われているが、宗教に名を借りた権力争いだと私は考えている。従って、物部氏が滅亡しても神道は滅びなかった。
 日本人が素朴に信仰しているのは自然の中に神を求める神道で、そこに教養としての仏教が入って来たのであり、共存しているのは当然なのだ。だから、誰もが何の疑いもなく新年には氏神に詣で、夏祭りや秋祭りでは盛大に氏神を迎え、お盆には仏式で先祖を迎え、葬儀では仏式で魂をあの世に送る。

 こうした宗教に対してのおおらかさに実は大きな落とし穴がある。宗教とは本来現世の御利益とは無縁の存在である。死後の安寧を願うのが宗教だ。そのために現世を身を清くして生きるのである。そうした宗教とは無縁に生きているから、宗教がどのような物であるのかを知らない。そうした無知に新興宗教がつけ込む。現世の御利益を餌としてちらつかせて、人々を誘う。病気や貧苦に苦しんでいる人にとっては大きな救いに思える。精神的に空虚な人も餌食となる。そこで信者になる。その最たる存在が、教祖が死刑宣告をされているオーム真理教だ。いくら名前を変えても、その本質は変わらない。
 そこまでひどくはなくても、この世に本当に邪教だと言える新興宗教は数限りなく存在している。
 神道のほんの一派に過ぎない靖国神社は戦死者の魂は、合祀したからには一つの霊魂になっていて分祀出来ないと言い張って、合祀の取り下げを願う遺族の心を踏みにじっている。それではお聞きするが、京都の平安神宮は誰を祀っているのか。ここには平安京を作った桓武天皇と平安京最後の天皇である孝明天皇のお二人が祀られている。ではそのお二人は一つの霊魂になってしまっているのか。とんでもない、神社側ははっきりとお二方をお祀りしていると言っている。靖国神社とて同じである。
 靖国神社は日本人の宗教心の薄さ、宗教に対する理解の無さを利用して、自分達の勝手な言い分を押し付けているに過ぎない。靖国神社には信教の自由の精神など微塵も無い。多くの新興宗教もこれによく似ている。自分達以外はすべて邪教なのである。
 
 基本的人権の信教の自由も無ければ、政教分離の原則もまた存在しない。ある宗教団体は政治団体を作り、国会に送り出している。母体の宗教が現世利益だけだから、その政治団体もまた同じであるのは言うを待たない。私が危うく引っ張り込まれそうになった時代、現世利益だけだったから、今だって同じはずである。教義がころころと変わるようではとても信用など出来ない。
 宗教とは神仏に熱心に祈る事ではない。神仏と言う大いなる存在の前に己を無にして、教えを請う事である。無心だから、良い事がどんどんしみ込んで行く。修身教育が必要だと言われているが、謙虚な心があれば、道徳など自然に分かるはずである。
 謙虚な心が無いから、我こそはと思い上がっているから、自分勝手な事のし放題になる。政治家から庶民に至るまで、我がまま勝手である。宗教と言うと○○教のような事をすぐに考えてしまうからいけないのである。そんなちっぽけな教義に囚われないで大いなる存在に対する畏怖心を持つ事、それが宗教だと私は考えている。教祖の教えが絶対なのではなく、教祖は単に大いなる存在の教えを分かり易く翻訳してくれるだけの存在に過ぎないのである。その翻訳の仕方が宗派によって多少異なるだけである。教祖を崇めさせるようになったら、その宗教は終わりである。あとは堕落の道を歩むしか無い。
 無宗教と宗教心が無いのは同じではない。特に信仰している宗教が無くても、立派に宗教心は持てる。今の日本人に必要なのは、この宗教心だと思う。

東海道新幹線の車窓風景と「しんがり」

2009年07月16日 | 言葉
 新幹線の車窓風景の写真集を出した人がいる。題して「新幹線の車窓から」。その新幹線とは東海道新幹線だ。開業45周年を迎える同新幹線だからこそ、沿線の風景を変えて来た歴史がある。
 車窓風景は私も大好きだ。電車に乗れば、必ず外を見る。疲れているとつい座ってしまうが、それでも向かい側の窓から必至になって外を見ている。東海道新幹線は昔仕事でよく東京と京都を往復した。しょっちゅう見ているのにいくら見ても飽きない。だから必ず窓側の席を取ったし、取れなければ一応安全のために指定席は取って、始発駅の場合は自由席に座った。車窓風景を写真集にした人の気持はよく分かる。
 東京新聞の7月16日、その人と記者とカメラマンが一緒に「こだま」に乗った特集が掲載された。掲載された珍風景は6点だが、もっと載せてほしかった。著者の撮影している姿が一番大きい写真になっているのは主人公だから仕方がないかも知れないが、本当の主人公は車窓風景のはずである。
 著者は「移動手段としてだけでなく、旅の楽しみも提案したい」と語っているが、旅の楽しみを奪って来たのがほかならぬJRその物なのだ。速さだけを売り物にして来たから、今や名古屋や京都、大阪に行くのに「こだま」に乗る酔狂な人はいないだろう。何しろ「のぞみ」が増発されている時代なのである。
 いったん、速さに慣れてしまうと、遅い列車には乗れなくなる。恥ずかしい話、私のいつも乗っている東京都営の地下鉄・新宿線には地下鉄内でも急行が走っている。よく利用する区間では15分の所を10分で走る。5分の節約と途中駅を通過するのが快感となってしまったから、出来るだけ急行に乗ろうとする。そのためにわざわざ時間調整をしたりしている。調整時間は5分とか10分で、何の事は無い。それだけの時間を無駄にしている事にもなる。何のために速さを求めているのかと大いに疑問になる。でもしっかりと速さを求めてしまっている。

 そうそう、ついでながら、この地下鉄の急行の事をもう少し。実は急行を走らせるために割を食っている列車がある。途中駅で急行の通過待ちをする列車である。普通よりも2分以上も余分に停車する羽目になる。1分で良い所を3分も停車するのである。列車の込み具合から見ても、急行の利用客よりも各駅停車利用客の方がずっと多いのに、その多い方の乗客に不便を強いているのである。それに急行に乗れない客には、次の列車を待つと言う余分な待ち時間も要求する事になる。急行は今までのダイヤに新しく追加されたのではなく、各駅停車が急行に昇格したのである。乗れない列車が出来たのである。
 そんな僅かな時間に文句を付けるな、とは言えない。その僅かな時間、近距離での急行の利用客は僅か3分から5分程度、の節約を便利ですよ、地下鉄側は言っているのである。

 話を戻す。新幹線での風景を楽しみ方のコツとして、通過待ちがあり、駅弁も買える「こだま」に乗るのもそうだが、先頭車両に乗る事だ、と言う。特にこれは「鉄則」だと言う。発車直後、ゆっくりと流れる車窓風景を少しでも長く楽しむため、と言う。
 確かにそう言えるが、でも次の駅に到着する際には、先頭車両はすごいスピードである。風景は急速に流れている。しかし最後部車両ならずっとスピードは緩くなり、それこそゆっくりと車窓風景が楽しめる。
 発車の際にはホームの外に出る先頭がゆっくりで、後部はホームの外に出た時にはスピードが上がっている。反対に、到着の際にはホームに差し掛かる先頭はスピードがあって、後部がホームに差し掛かる時にはほとんど停止寸前のスピードになっている。そんなのは当たり前の事である。
 となると、この風景の楽しみ方と言うのは、出発するのに意味があって、到着には意味が無い事になる。何でも先頭が良いのか。最後尾では駄目なのか。最後尾は「しんがり」と言う。特別な言い方があるくらいだから、重要だと認められている。漢字にすれば「殿」。特に戦では退却する際に敵の追撃を防ぐ役目で、犠牲を伴うし、力量が大いに物を言う。岩波国語辞典には「しりがり(後駆)」の音便、との説明がある。こうした説明は非常に有用だ。
 またまた恥ずかしい話だが、「しんがり」を私はずっと「殿軍」と書くのだと思っていた。時代小説にそのように表記し「しんがり」とルビが付いていたからだ。そして、今、これを書いていて、改めて「しんがり」を辞書で引いて初めて分かった。
 同時になぜ「殿」なんだ、と疑問が湧いた。「殿」は元々は「尻」を表す漢字だと言う。それがなんで「大きな建物」を表すようになったのかは分からない。漢和辞典はその説明をしてくれない。「大きな屋敷に住むから殿様」は分かるのだが、肝心の「大きな建物」の理由が分からないから、理解出来た事にはならない。
 仕方が無いから『字通』で調べる。「殿」は「奠」と音が似ており、「奠=台の上に酒を置き、神に供える」から、「大きな建物=殿」になったと考えられる。本当は「奠」ではなく、「尸」の下に「奠」なのだが、そんな字は『字通』にも無いのだ。

 ついでながら、私の興味は常にこのようにして発展して行く。最初は新幹線の風景で、なぜ先頭車両が良いのか、との疑問があり、それが「しんがり」に繋がり、「殿」の漢字としての意味にまで発展する。忙しい時は『字通』で「奠」まで調べるような事は出来ないから、中途半端に終わっている。「殿と奠」のような説明は易しい漢和辞典にも絶対に必要だろう。私は白川静氏を御尊敬申し上げているが、その白川氏の『常用字解』にもそのような説明は無いのだ。同書は中高生にも分かるようにと作られている。
 いつも思うのだが、辞書は専門家が作っている。だから我々素人が何が分からないのかが分からないのである。


都議会議員選挙と都知事の信任は違う

2009年07月15日 | 社会問題
 今度の都議会選挙で自民党は惨敗した。その結果を以て石原都知事を否定する意見があるが、何でそんなでらためな事を言うのだろうか。確かに形としては自民党と公明党は与党である。従って、都知事を否定するなら自民党だけではなく、公明党も惨敗して当然である。だが公明党は1議席増えたのだ。石原都知事が信頼出来ないのであれは、公明党の議席が増えるのはおかしい。
 この選挙の結果は浮動票が動いたからだ。投票率も上がっている。現在の日本の選挙は無党派層が鍵を握っている。無党派層が付いた方が勝つ。その点で、公明党と共産党に無党派層が票を投じる事はほとんど無いから、自民党に嫌気がさした選挙民が民主党に乗り換えただけの事に過ぎない。石原知事の否定などではない。
 石原知事が言っている。元々はオール野党だったんだから、と。そう、私も石原氏に投票したが、自民党と公明党が推薦していた記憶は無い。ではどのような人々が推薦していたか、については残念ながら本当に記憶が無い。政党など頭から気にしていなかった。石原氏なら何かやってくれると思っていた。
 石原知事=自民・公明、ではないはずだ。かと言って、石原知事=民主、でもない。石原知事は党利党略とは無縁だと私は信じている。だから大胆な事が言える。その大胆さを嫌う人々がいる事は確かである。言い過ぎだと批判をする。だが、政策の主張は大胆過ぎて当然だと私は思っている。初めから中庸な案を出したって、すらっと通るはずが無い。なんとかかんとかいちゃもんを付ける輩が絶対に居る。

 外国に対しても石原氏ははっきりと物を言う。どこかの首相とは天地雲泥の差だ。相手国の番犬みたいな態度を取って自分の保身を図る事など毛頭考えていないから、言い方も厳しくなるのである。
 小泉氏が庶民からも拍手を以て迎えられたのは、あの大胆さだったはずだ。何しろ自民党をぶっ潰すと公言したのだ。自民党の総裁でありながら、自民党をぶっ潰すとのその勢いに庶民は乗せられた。だから郵政民営化にも賛成した。
 だが、幕を開けてみれば、それは真っ赤な大嘘だった事が判明した。あのぺてんから、安倍、福田、麻生といい加減内閣が続いて、人々の自民党離れが進んだだけの話である。
 石原氏は嘘つきの小泉氏とは違う。自民党の凋落と石原氏の信頼度とは関係が無い。石原氏の挙げている築地市場の移転やオリンピック招致、新銀行東京などの問題は、自民党の凋落傾向と絡めて考えるのは間違いだ。石原知事のやりかたを快く思わない連中はこの時とばかりに責め立てるだろうが、我々はそうした私利私欲に走る連中に乗せられてはならない。
 この事は日本の政治の縮図でもある。他の道府県の人々は、他人事のように思って見ていると自分の足をすくわれる事になると思いますよ。東京には限らない。大阪の橋下知事や宮崎県の東国原知事のやっている事を全国の国民はしっかりと見つめているはずである。

とても面白い統計と言葉がある

2009年07月14日 | 言葉
 面白いと言ってはいけないかも知れない。はっきり言えば、分からない、誤解を招きそうな記事である。東京新聞の7月12日の日曜版の記事である
 タイトルは「原油可採年数」。世界に埋蔵されている原油はあと何年持つか、と言う統計である。「可採」とは「採掘可能」の意味だが、初めて見る言葉だ。
 順位が10位まで挙がっている。
1 カナダ         189年
2 イラク        133年
3 ベネズエラ      116年
4 クウェート      109年
5 アラブ首長国連邦   102年
6 イラン         95年
7 サウジアラビア     79年
8 リビア         69年
9 ナイジェリア      51年
10 その他OPEC諸国    32年

 カナダが第一位とは思いもしなかった。アメリカがイラクのフセイン政権を倒したのはなるほどと、納得した。ベネズエラとも最近仲直りしたようだ。
 そして説明を読んで分からなくなった。
 世界の原油確認埋蔵量は約1兆3422億バレルで、今後50年は採掘が可能とされる、とある。あれっ、カナダは189年もあるし、サウジアラビアだって79年もあるぞ。どこから50年の数字が出て来たのか。
 確認埋蔵量とは、既に発見されている油田に埋蔵する(「されている」の間違いだろう)原油のうち、現在の技術と経済性で回収出来る量だと言う。今後、石油の探査や掘削技術の進歩、新たな油田が発見されることも考えられ、きっかり50年で掘り尽くされてしまう訳ではなさそう、だと言う。
 つまり、先の50年と言う数字は、現在分かっている埋蔵量を現在の技術で採掘したら、との話である。それも埋蔵量の非常に少ない所も入れた平均なのだろう。9位が51年なのに平均すると50年と言うからには、埋蔵量の非常に少ない所が非常に多いのだろう。そうでなければ平均50年にはなりそうも無い。それに、新たな発見があれば50年はもっと延びるし、反対に掘削技術が進歩すれば50年はもっと短くなる。単純に生産量を増やそうと思えば50年はもっと短くなる。結局は50年はほんの目安に過ぎない。
 で、上の表の採掘可能年数なのだが、トッブのカナダが埋蔵量が世界一ではないのだ。埋蔵量の世界一位は表では7位のサウジアラビアで、約2667億バレル。それで79年の採掘が可能だと言うのだから、多分、年間採掘量がカナダよりはずっと多いのだろう。カナダの採掘年数が世界一なのは、だから、年間採掘量がぐっと少ないからと言う事になる。
 同じ埋蔵量なら、どんどん掘れば早く無くなるし、ちびちびと掘ればいつまでも持つ。それだけの事である。大体、埋蔵量も年間の採掘量も分からないで、189年採掘が可能だとか、51年は大丈夫だと言う事にどれほどの意味があるのか。

 だから私は分からないし誤解を招く、と言うのだ。非常にいい加減な表を見せて何が分かるのだろうか。「知り得」などと題してランキングを発表しているが、ちっとも得にはならない。
 サウジアラビアで考えて2667億バレル÷79年=約33・8億バレル(年間採掘量)。この33・8にカナダの189年を掛ければ、カナダの埋蔵量は6380億バレルにもなってしまう。もちろん、そんな事は無い。世界一はサウジの2667億バレルなのだ。
 一体何が言いたいのかさっばり分からないし、何のためにランキングを見せているのかも分からない。
 この記事はフリーライターが書いているが、この新聞の編集部や校閲はカナダの第一位、189年の数字を見て、驚かなかったのだろう。いとも平然と見た。普通は産油国と言えば中近東である。アメリカも産油国ではあるが、隣国のカナダがここに出て来るとは思いもしなかった。もしも「えっ」と思えば、そんなにも埋蔵量が多いのか、と思うし、そうでなければ、この統計自体に疑問が湧くはずである。

 非常に不信感を持って、すぐ隣の記事を見た。そこには静岡県袋井市のメロン栽培の話が載っている。静岡県は温室メロンの栽培日本一だそうな。そこに、次のような文章がある。
 「昨年はピーク時と比べ出荷量、平均単価とも三割減、売り上げは半減した」
 出荷量と平均単価が3割減なら、売上も3割減かな、と思うのだが、そうではない。7割の7割だから0・7×0・7=0・49になるから、売上半減なのだ。
 ここではきちんと計算が成り立つのに、先の原油の話ではまるで計算が出来ないし、話もいい加減である。どちらにしても今すぐに我々の暮らしに影響する話ではない。しかし原油の話では見出しが「孫子の代は大丈夫?」なのだから、きちんと考えられる話にしなければ駄目だろう。それとも、単に面白い話ならそれで良いのか。
 それに平均50年なら、読者が仮に60歳なら、50年後は孫は50歳以上になる。30歳なら、やっと子供が一人居るくらいだ。50年後に孫は多分20歳くらいだろう。つまり、孫の代までは持たない。そうそう、「孫子」とは「子と孫」でもあり、「子孫」でもある。特に「孫子の代」の言い方はそうだ。子孫の代まではとても無理だろう。
 この統計を使った記事は以上のようにひどく杜撰である。サンデー版だから娯楽だからと手を抜く事は許されない。 

都議会議員選挙は国政選挙を占う

2009年07月13日 | 政治問題
 きのうの都議会議員選挙で民主党が圧勝し、自民党は惨敗した。自公は過半数にわずかに達しなかった。わずかでも、その結果は重い。
 地方選挙は国政選挙とは違うと言うが、そんな事は無いだろう。確かに東京都と日本とではその重みが違う。人口だって東京は日本の一割にしか過ぎない。それにしている事が違う。しかしながら、している事の根は同じである。地方自治体でやれば良い事と国がやらなければならない事の違いがあるだけだ。
 それに各地方が集まって日本になっているのは誰にでも分かる。国は細かい事までは出来ないから地方に任せているに過ぎない。その地方で既に民主党は勝ち続けている。それでもまだ国政と地方政治は違うと言い張るのか。
 前にも書いたが、市区町村議会の議員が出世をして都道府県議会の議員になる。都道府県議会の議員が出世をして国会議員になる。みなさんそうして階段を上って来た。その途中で所属政党を変える事などしない。当たり前である。それぞれの所属議員としての働きを選挙民が認めて、あいつはしっかりとやって来たから、今度は一つ上に上げてやろうじゃないか、と言う事になるのである。

 今、国政での自民党の人気は非常に低い。それを、いやいや、地方自治体なら、国政における政党とは全く違った働きや動きをしているんだから、関係が無い、などと考える人が果たしているのだろうか。関係が無いのなら、地方の選挙に党首やその他のお偉方が出て来るはずが無い。
 このままずるずると国政選挙に入ってしまって、一連の惨敗ぶりを繰り返したくはないと、自民党は思っているが、悪あがきは絶対に裏目に出る。世の中の流れを見る目が無いから駄目な政治をやっているんじゃないか。
 民主党だって、私はそんなに楽観はしていない。と言うよりも、出来ない。庶民は、一度やらせてみたら良いではないか、と考えている。そして、もしもそこで失敗をしたら二度と民主党に日は当たらないだろう、とも思っている。
 だから民主党は流れに乗って喜んでばかりはいられないのだ。一念発起して、それこそ清水の舞台から跳び降りる覚悟で臨む必要がある。献金問題で不信を買っているようでは駄目なのだ。汚い膿は全部出し切って、それこそ精進潔斎をして臨まなければ、とうてい成功は覚束ない。
 我々は自分が出来ないからこそ、汚い事には敏感なのだ。半分はやっかみの思いもある。汚い事は裏の裏まで見通してしまうのだ。庶民を舐めてもらっては困る。
 清い流れも年数が経つと次第に底に汚れも溜まる。時々は底をさらう必要がある。京都では長い事革新首長がその座を保っていた。だが京都人は、そろそろ代わってもろてもええ頃どすやろ、とあっさりと首長を変えてしまった。
 都政もそうだが、国政ではなおの事、すべてを一新する必要がある。それは並大抵の事ではないはずだ。なにしろ、国政の陰には常に役人が存在している。その役人が思いのままに振る舞っていては何の改革も出来ない。そしてその役人は大きな抵抗勢力になっている。
 勝って兜の緒を締めよ、と言う。民主党は汚い尻尾をそのまま残していては自民党政治に取って代わる事は出来ない。そうした尻尾をどこまで切り落とす事が出来るかを庶民は見守っているのだ。

JR西日本の山崎社長を起訴。幹部には事故の責任がある 

2009年07月11日 | 社会問題
 JR西日本の山崎社長が起訴された。
 でもたった一人だけだ。当時の幹部らは不起訴である。遺族も被害者も納得出来る訳が無い。検察は山崎社長なら1996年、常務取締役鉄道本部長で安全対策の最高責任者だったから(でも何で1996年なんだ)、事故を予測出来たと立証出来ると踏んでいるが、そんな事は無い。遺族が告訴していた事故当時の相談役も会長も社長も、みんな事故を予測出来たはずだ。予測出来ないと言うのであれば、鉄道事業の責任者にはなれない。
 そうだろう。高速で走り、大勢の乗客を乗せている列車は二本のレールの上を走っている。列車に方向を操るハンドルが無い事は誰もが知っている。列車はレールに従って走るしか出来ない。あの細いレールの上に乗った車輪はレールの内側に車輪の出っ張った部分が引っ掛かって外側へは出ない仕組みになっている。ただそれだけでレールの上に乗っている。だからレールが外側に膨らんでいたら、車輪は簡単に外れてしまう。レールは列車の命なのだ。どのような場合にそのレールが危険になるかを知っているのは鉄道マンとしては常識だろう。
 どこの鉄道会社だって安全と見込んで列車を走らせている。しかしそれでも安心出来ないからこそATSを設置している。それは規則で決められているからではない。万が一の事故を防ぐ手段としてである。法律に違反していないから責任は無い、とは言えない。そんな事を言うなら、鉄道経営の世界からは身を引くべきだ。

 同社長は「運転士が制限速度をはるかに越えてカーブに進入すると思わず、事故は予測出来なかった」と以前から主張しているが、運転士が制限速度を越える可能性は十分にあった。現場は70キロの速度制限だ。列車が正常に運行していれば、制限速度を越える必要は無い。だが、あの列車は前の駅でオーバーランをして1分半遅れていた。そしてそれくらいの遅れなら正常の範囲内だと会社が認めるなら、誰も無謀な運転はしない。
 そうではなく、遅れを出せば運転業務から外され、草むしりなどをさせられる事が分かっているからこそ、必死に正常通りのダイヤに戻そうと頑張ったのである。運転士の多くは子供の頃からの夢だっただろう。その仕事を外されて我慢が出来るか。ダイヤを守るのは日本の鉄道のお家芸でもあるが、JR西日本は特にうるさいらしい。それは関西圏では私鉄と競合して乗客を奪う事を考えているからだ。それが高速化や増便、通勤定期券の値下げなどになって現れている。遅れなどを出していてせっかく奪った乗客を私鉄に取り戻されてはならないのである。
 私鉄の乗客を狙っている証拠はそれだけではない。多くの人々が問題にしていないようだが、JR西日本は競合する私鉄と同じ路線名を愛称と称して付けたのだ。それがどんなに無理な命名かは関西圏の鉄道事情を知っていれば容易に分かる。分からないのなら、鈍感なだけだ。おんなじなんだから、是非ともJRにお乗り下さいと誘っているのである。

 1分半遅れのまま尼崎駅に到着した場合、どうなるか。同列車はそのままJR東西線と学園都市線経由で同志社前まで行くが、その運行にさしたる支障は無い。ところが、尼崎駅では同列車の正常時刻到着のわずか3分後に、大阪、京都、米原を経て北陸本線の長浜まで行く列車が接続していたのだ。1分半では乗り換えが出来ない乗客が出る。列車の遅れどころじゃない。その列車の次は9分も待たなければならない。
 尼崎駅で、事故列車の遅れを知ってこの列車の出発を待たせてくれれば乗り換えの失敗は無くなるが、今度は別の列車を遅らせたとの責任が発生する。それがどんなにひどい事になるのかを運転士は知っている。だから何とか遅れを取り戻そうとした。
 列車は伊丹駅を出る時に既に1分半遅れている。だから伊丹―尼崎の間でその遅れを取り戻す必要がある。伊丹―尼崎は5・8キロ。普通なら6分掛かるがそれを4分半で走らなければならない。そうなると時速は77・3キロになる。その間に事故の原因になった70キロ制限のカーブがある。7キロもオーバーして走らないと駄目なのだ。だからそのカーブに差し掛かる前に何とか元に戻したい。それが乗客が恐怖を覚えるような猛スピードとなった。事故後のスピード計は115キロを示していた。そしてそのままカーブに突っ込んでしまった。

 これでもまだJR西日本は事故の起きる危険性を予測出来なかったと言い張るのか。そうした言い訳を認めている事が私は不思議でたまらない。列車の遅れで接続列車に乗り損なう恐れがある事を同社は十分に知っている。だから、事故後に福知山線のダイヤの全面的な見直しをして、問題の列車の尼崎駅到着は2分早くなった。接続に5分のゆとりを持たせたのである。この事故が予測出来ない不可抗力だったのなら、接続時間は今までと同じで何も問題は無いだろうに。

国政の民営化を取り戻そう。選挙制度も考え直そう

2009年07月10日 | 政治問題
 近所の行き付けのスーパーが三日間休んで店内の大改装をした。大改装と言う割には変わっていないし、ほとんどの商品が元通りの所に置いてある。けれども確実に通路は広くなり、品物も見易くなった。外側は全く変わらないのに、中をちょっといじるだけで、それだけの事が出来る。
 我が家も絶対に同じ事が出来るはずだ。だが、私の場合はそれが出来ない。なぜならカネを掛けられないからだ。テレビは大型だがいまだにアナログのブラウン管だから、これを液晶にすれば、ぐっと広くなる。
 仕事場は既存の本棚や組み立て家具を使って、空いている部分を色々と工夫を凝らして物を収容しているが、だからちぐはぐで収納の効率は悪いし使いにくい。これを一度、全部取り払って、最初から天井までの高さで棚を設計すれば、格段に効率が良くなる。既にその設計は出来ている。しかしそれにはかなりの費用が掛かる。だから出来ない。
 仕事の内容はすっかり定まってしまっていて、もうこれ以上発展はしない。衰退するばかりである。だからパソコンなども増える可能性は低い。むしろ、今ある5台のパソコンを最終的にはマック1台とウインドウズ1台に収めるのが得策だろう。待ったなしの仕事が入って来る可能性などさらさら無いのだから。仕事の分野も決まって来たから、資料なども大幅に整理出来る。

 我々の家でも近所の店でも頭とカネさえあれば出来る事が、政治ではなぜか出来ない。政治の場合は、屋台骨を縮小する事も、内容を縮小する事もカネを使わずに出来る。だがやらない。やれない。世間はリストラの嵐が吹き荒れていると言うのに、政治の世界だけは安泰なのだ。リストラは経営が危なくなったとの理由でやられているが本当はそうではなく、一部の大企業の場合は、利益が少なくなるから、である。
 政治の世界も、自分達の取り分が減るのは嫌だから絶対にリストラなどはしない。国民の利益になると分かっていてしない。自分だけが可愛くて大切なのだ。
 政治は経営がいくら危うくなっても知らん顔を決め込む事が出来ている。なぜなら、資金は我々の税金だからだ。他人のふんどしで相撲をとっているんだもの、危機感なんかありゃしない。カネだけはふんだんにあって、ただ、頭が無い。それは悲しいくらいに、徹底的に無い。いや、そうではない。金儲けの頭だけは非常によろしい。

 私がプールの利用で通っていた東京のYMCAの本部は、数年前、経営が行き詰まってとうとう、歴史ある建物を売り払い、どこかに行ってしまった。その後にはかっこいいオフィスビルが建った。行き詰まりは、聞いた所では、経営陣が自分達の利益だけを確保して、経営の安定化を図らなかったからだそうだ。
 この話、何かに似ていないだろうか。そう、簡保の宿だ。国鉄だってそうだったんじゃないのか。ほとんど同じ組織と路線なのに、国鉄時代は一日52億円もの赤字を垂れ流していたと言う。それがJRになってからは一日26億円の黒字体質に生まれ変わった。これはJR東日本のトップの書いた本に書かれている事だから信用出来る。
 つまり国鉄時代は税金だからと、収入に見合わない高給を取っていた事になる。他人のカネだからそうなる。

 まさか国政を民営化は出来ないだろうが、いやいや、国政は元々民営なんじゃないのか。国鉄や郵政とは違って、国政は我々が一人一人の議員を選んでいる。これは立派に民営だ。だが、その途中で民営を骨抜きにしている者が居る。肝心の選ばれた議員達である。議員になった途端に民営だった事を忘れてしまう。国政だから国営だと勘違いしてしまう。その国営は監督責任者が居ない。責任者自身が民営である事をまるで無視している人間だから、どうしたってやりたい放題になる。
 国政の民営化を取り戻そうではないか。方法は簡単だ。国営だと勘違いをしてしまうようなおそまつで愚かな議員を選ばない事である。それに尽きる。ただし選ぶ選挙民もまたおそまつで愚かであってはならないが。それが意外と簡単ではないのかも知れない。私自身、選ばない事は可能だが、では誰を選んだら良いのかと言う事になると、とても自信が無い。それだけの情報を持っていないのだ。国営になってしまうような候補者の情報ばかりが多くて、民営の期待が出来るような候補者の情報が無い。これは選挙制度その物が完全には出来ていないからではないのか。