ワープロ専用機の復活を望む声を新聞でたびたび見る。文書作成が主な場合、パソコンよりはワープロの方がずっと良い。と言うよりも、パソコンは要らない。
日本でこれほどまでにパソコンが普及しているのは、そもそもはワープロの需要があったからではないのか。欧米ならタイプライターがあるのに、日本ではそれは無理だった。日本語を打てるタイプはそれこそ大きくて、専用のタイピストが必要だった。そしてそれは清書機であって、誰もが簡単に操作出来る物ではなかった。
日本語タイプライターへの夢がワープロとなって実現した。だから普及するのも速かった。ワープロ全盛期のパソコンで文章を作ろうとすると、あまりの勝手の悪さに辟易した。何しろ、字詰めの観念が無い。1行を何字にする、と言う事が出来ない。改行するまで1行はどこまでも続いてしまう。
そのパソコンのワープロ機能がどうにかワープロ専用機に追い付いて、今度はワープロを駆逐してしまった。いや、機械がしたのではなく、機械を製造する立場の人間がしたのである。文章作成専用機よりも何でも出来るパソコンの方が優秀だと思ったのである。
確かに当時のワープロとパソコンとを比べたら、頭の良さや速さには格段の差があった。ワーブロでひとまとまりの文章をコピーしようとすると、私の使っていた上級機である富士通のオアシスでは、コピーする始めから終わりまでをカーソルでなぞる。その速度が非常にのろい。遅い、ではなく、のろい、のだ。終わりまで来ると、今度は逆にカーソルが動いて始まりの所にまで戻る。そうやってコピーする部分を記憶するのである。
それが終わると、今度はコピーする場所にカーソルを移動してコピーのキーを押す。するとカーソルが再びのろのろと動き出して、始めから終わりまでを一字一字複写して行く。
そうした事にすっかり慣れてしまっていたから、パソコンで同じ事をした時、瞬時に終わってしまうので、コピーを失敗したかと思い、何度も何度も同じ物をコピーしてしまった。それくらい、ワープロとパソコンの頭脳の違いがあった。
今ワーブロを作れば、パソコンと同じ速度が出るはずだ。
ワープロは文章作成の専用機だが、データの処理だって出来る。当たり前だが、そうとは知らない人も居るだろう。ワーブロのオアシスではカード型データベースソフトが使えた。オアシスメイトと言う名のそのソフトは非常に使い易く、私はそれで様々なデータ処理をしていた。自分で会計のソフトを作り、会計のデータ処理をしていた。現在あるパソコンの会計ソフトと比べたらお話にならないが、それでも金額の転記ミスなどは防げたし、一つのデータさえ作っておけば、現金出納帳も預貯金出納帳も出来た。今パソコンでファイルメーカーと言う名前のデータベースソフトを使っているが、使い勝手はオアシスメイトとほとんど同じだ。ただ、CPUの能力が格段に優れているからソートや検索のスピードは比べ物にならないが。
今ワープロ専用機を作って、そこで使えるデータ処理ソフトも作れば、それこそパソコンは要らなくなる人が大勢出て来るだろう。何でも出来る万能型は素晴らしい事は確かだか、それだけに価格は高くなるし、使い勝手も簡単とは言えなくなる。使い道を特化すれば、必要な機能は最高を望めるだろうし、余分な事が要らない分だけ安く出来るはずだ。使い勝手だって簡単で易しく出来る。
あれもこれもは要らない。我々は人それぞれに個性が違う。物の使い方だって違う。すべての機能がすべての人に必要な訳は無い。誰だって、持っている電化製品の機能の内、ほんのわずかしか使っていない。つまり、余分な機能に高い金を払っている。単純な機能の機械に魅力を持たせる事は十分可能だ。それが出来ないのはメーカーに能が無いからに過ぎない。あるいは単純な機能なら価格も安くなるから、それが嫌なのか。
私はパソコンでDTPを主に、インターネットとデータ処理、テキスト作成をやっているから、パソコンの方がずっと便利だが、一般的にはインターネットとテキスト作成くらいではないだろうか。メールなどもテキストを作って、それをコピーした方が効率も良いし、安全だ。それをワープロ専用機で出来るようにする事は決して難しくはないはずだ。
ワーブロ専用機を、と言うのには別の理由もある。パソコンの世界ではどうしてもマニアックになる。技術優先になる。それが技術者としての誇りでもあり、やり甲斐だからだ。そこには初心者が分かり易いように、使い易いようにとの配慮は無い。それはパソコンのマニュアルやソフトのマニュアルを読めばよく分かる。マニュアルの説明は技術の説明であって、使い方の説明ではない。ほとんどのマニュアルがそうだ。どんなに詳しく説明がされていても、一向に分かりはしない。技術の説明を詳しくされればされるほど、逆に分かりにくくなるのだ。そんな事が分からない人々がパソコンやそのソフトを作っている。
ちょうど司法関係の専門家が庶民の感覚とはまるで離れた自分達だけの世界にしか通用しないような決まりを作って運用しているのと同じである。パソコンは裁判官で、ワープロは庶民なのだ。我々の日常の暮らしに裁判官は要らない。
日本でこれほどまでにパソコンが普及しているのは、そもそもはワープロの需要があったからではないのか。欧米ならタイプライターがあるのに、日本ではそれは無理だった。日本語を打てるタイプはそれこそ大きくて、専用のタイピストが必要だった。そしてそれは清書機であって、誰もが簡単に操作出来る物ではなかった。
日本語タイプライターへの夢がワープロとなって実現した。だから普及するのも速かった。ワープロ全盛期のパソコンで文章を作ろうとすると、あまりの勝手の悪さに辟易した。何しろ、字詰めの観念が無い。1行を何字にする、と言う事が出来ない。改行するまで1行はどこまでも続いてしまう。
そのパソコンのワープロ機能がどうにかワープロ専用機に追い付いて、今度はワープロを駆逐してしまった。いや、機械がしたのではなく、機械を製造する立場の人間がしたのである。文章作成専用機よりも何でも出来るパソコンの方が優秀だと思ったのである。
確かに当時のワープロとパソコンとを比べたら、頭の良さや速さには格段の差があった。ワーブロでひとまとまりの文章をコピーしようとすると、私の使っていた上級機である富士通のオアシスでは、コピーする始めから終わりまでをカーソルでなぞる。その速度が非常にのろい。遅い、ではなく、のろい、のだ。終わりまで来ると、今度は逆にカーソルが動いて始まりの所にまで戻る。そうやってコピーする部分を記憶するのである。
それが終わると、今度はコピーする場所にカーソルを移動してコピーのキーを押す。するとカーソルが再びのろのろと動き出して、始めから終わりまでを一字一字複写して行く。
そうした事にすっかり慣れてしまっていたから、パソコンで同じ事をした時、瞬時に終わってしまうので、コピーを失敗したかと思い、何度も何度も同じ物をコピーしてしまった。それくらい、ワープロとパソコンの頭脳の違いがあった。
今ワーブロを作れば、パソコンと同じ速度が出るはずだ。
ワープロは文章作成の専用機だが、データの処理だって出来る。当たり前だが、そうとは知らない人も居るだろう。ワーブロのオアシスではカード型データベースソフトが使えた。オアシスメイトと言う名のそのソフトは非常に使い易く、私はそれで様々なデータ処理をしていた。自分で会計のソフトを作り、会計のデータ処理をしていた。現在あるパソコンの会計ソフトと比べたらお話にならないが、それでも金額の転記ミスなどは防げたし、一つのデータさえ作っておけば、現金出納帳も預貯金出納帳も出来た。今パソコンでファイルメーカーと言う名前のデータベースソフトを使っているが、使い勝手はオアシスメイトとほとんど同じだ。ただ、CPUの能力が格段に優れているからソートや検索のスピードは比べ物にならないが。
今ワープロ専用機を作って、そこで使えるデータ処理ソフトも作れば、それこそパソコンは要らなくなる人が大勢出て来るだろう。何でも出来る万能型は素晴らしい事は確かだか、それだけに価格は高くなるし、使い勝手も簡単とは言えなくなる。使い道を特化すれば、必要な機能は最高を望めるだろうし、余分な事が要らない分だけ安く出来るはずだ。使い勝手だって簡単で易しく出来る。
あれもこれもは要らない。我々は人それぞれに個性が違う。物の使い方だって違う。すべての機能がすべての人に必要な訳は無い。誰だって、持っている電化製品の機能の内、ほんのわずかしか使っていない。つまり、余分な機能に高い金を払っている。単純な機能の機械に魅力を持たせる事は十分可能だ。それが出来ないのはメーカーに能が無いからに過ぎない。あるいは単純な機能なら価格も安くなるから、それが嫌なのか。
私はパソコンでDTPを主に、インターネットとデータ処理、テキスト作成をやっているから、パソコンの方がずっと便利だが、一般的にはインターネットとテキスト作成くらいではないだろうか。メールなどもテキストを作って、それをコピーした方が効率も良いし、安全だ。それをワープロ専用機で出来るようにする事は決して難しくはないはずだ。
ワーブロ専用機を、と言うのには別の理由もある。パソコンの世界ではどうしてもマニアックになる。技術優先になる。それが技術者としての誇りでもあり、やり甲斐だからだ。そこには初心者が分かり易いように、使い易いようにとの配慮は無い。それはパソコンのマニュアルやソフトのマニュアルを読めばよく分かる。マニュアルの説明は技術の説明であって、使い方の説明ではない。ほとんどのマニュアルがそうだ。どんなに詳しく説明がされていても、一向に分かりはしない。技術の説明を詳しくされればされるほど、逆に分かりにくくなるのだ。そんな事が分からない人々がパソコンやそのソフトを作っている。
ちょうど司法関係の専門家が庶民の感覚とはまるで離れた自分達だけの世界にしか通用しないような決まりを作って運用しているのと同じである。パソコンは裁判官で、ワープロは庶民なのだ。我々の日常の暮らしに裁判官は要らない。