夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

政治家の「人」見極めよう

2009年07月24日 | 政治問題
 本ブログのタイトルは借り物である。
 18日のブログで、臓器移植法改正案の賛否を通じて民主党への不信感を述べた。拙速な論議で衆院も参院も通過させてしまった事に大いなる不満を述べた。
 この事に関して高村薫氏が東京新聞に書いている。上記タイトルはこの高村氏からの借用である。

 「人の生と死を操る臓器移植法改正案について、たった二日間、衆院厚生労働委員会で審議しただけでさっさと採決に付してしまうような政治家たちを、人として信任できるのか否か。」
 「そもそも臓器は個人の存在とは関係ない部品なのか。ほんとうに脳の活動だけが人間の生死を決めるのか。そんな初歩的な議論も十分には行われていない。」

 同氏は的確に問題点を突いている。上記に引用した文章と相まって、次のような論点が展開されている。
1 技術的に救える命を救うために、技術的に救えない脳死者からの臓器提供を認める法律である。
2 移植で救える命と、心臓死を待つだけの命が秤にかけられ、前者が優先される。
3 移植医療は、先端医療にとって可能な技術ではあっても、死にゆく個人とそれを看取る家族にとって、そんなに合理的に受け止められるものでもない。
4 いったん与えられた生存の可能性を患者から奪うことはできないゆえに、脳死者から臓器の提供を受ける道を法的に作っておくというのが、現行法の目的である。

 こうした前提の下に様々な論議が尽くされなければならないはずなのに、それをしようとはしない政治家達を同氏は断罪する。
 「脳死者本人の意思に関係なく、一般拡大しようという以上、政治家はもっと真剣に議論してしかるべきだろう。救える命だの、死生観だのと口にしながら、本会議場では私語に余念のなかった国会議員たちの姿を、私たちはよくよく記憶しておかなければならない。」

 口幅ったい言い方になるが、私が常々考えている事と全く同じような事である。政治家達の言った事、やった事をしっかりと覚えておかなくてはいけないのはもちろんである。どんなにきれい事を言っても、人一人の死を安易に考えるような人間に大切な一票を投じてはならないのである。
 自分が約束した事が実行出来ないような人間は二度と選んではならないのだ。実行出来なかったのは、政界に理解者が居なかったからだ、などとの言い訳は通用しない。そもそも、そのような情況の判断が出来ない事が政治家としての資格が無い事を証明している。理想を述べるのは結構。しかし口先だけなら誰だって言える。実際に確実に出来る事を約束しろよ、と言いたい。多分、そうなると、小さな事しか言えないから、それでは訴える力が無くて駄目なのだろう。
 そうだよ、あんたにはそれだけの力しか無いんだよ。でもそれで良いではないか。小さな事が積み重なって大きな働きとなる。小さな事を無視しての大きな事など絵に描いた餅なのだ。悲しいが、政治家達が寄ってたかって大言壮語しているから、我々のためになる事が実現しないのである。誰もが理想を掲げるのはもっともだが、実現しない理想ならまさに、羊頭狗肉である。
 我々庶民の生活は何よりも現実に足場を置いている。理想じゃ生きて行けない。だから、どんなに小さな事でもいい、確実に我々の生活が向上するような事を約束し、実行して欲しい。最初っから多くは望まない。望んでも得られないなら、何の意味も無い。でも、そうかと言って、定額給付金みたいのは駄目だ。支給するのに非常に無駄なカネが掛かっている。
 でも政治家は理想で生きて行く事が出来ている。多くの政治家が自分の生活はしっかりと保障されているから、生活とは掛け離れた理想を追求出来るのである。いやいや、理想を追求するようなポーズが取れるのである。

 繰り返しになるが、政治家の「人」を見極めよう。出来る事と出来ない事の区別をしっかりと付けよう。本当にやる気があるのかどうかを見定めよう。
 そうした事は、政治家達の過去をきちんと振り返れば出来る。そうなると、新人の出番が無い。いや、そうではない。多くの政治家達が振るいに掛けられ、落とされるから、その分が新人に回るはずである。誰もが駄目な候補者に入れなければ、少ない得票数でも新人が勝てる。それほど既存の政治家は信用がならない。新人は未知数だが、なに、民主党政権だって未知数なのだ。やらしてみなければ分からない。