えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・ビルの真下より

2020年07月11日 | コラム
 半年が過ぎて、真夏でもマスクをつけなければ白眼視されるこれまでから見れば奇妙な生活は定着しつつある。風の噂では鼻から下が隠れるおかげで判断材料が減り、半ばばくちじみた考え方にもよるのか、ナンパも増えたらしい。紺色のスカートと白いブラウスの少女が空色地に花柄のマスクで呼吸しながら早足で帰宅する。ウレタンの灰色のマスクに黄色いTシャツを合わせた男が胡散臭く肩をすくめて改札を通り抜けた。私はようやく出回るようになった白い不織布のサージカルマスクをつけて呼気の熱にむせ返りながら用事を済ませに行く。都心部に向かう電車のホームには人が並び快速の電車を待っている。時々マスクをしない人が通ると視線が多く絡みつく気配がした。

 高層ビルのひとつに用があった。幸いビジネス街なので休日の人出は少ない。ビルに囲まれた公園の周りには住宅もなく、ガラス窓が互いのビルの色を跳ね返して青灰色にくすんでいる。雨混じりに曇っているので街は圧し掛かるように重く、振り払うように坂道を登って人で賑わう中心街へと向かう人達とすれ違う。外国の強盗のように口の辺りを布で覆い、体の線にぴったりの上下を着た男が息を犬のように吐き出しながらペースを保ち、腹の肉を弾ませて走る。タイヤの絵を大きく描いたトラックがスピードを上げて国道を曲がっていった。目的のビルは表玄関を閉じており、私は裏口から入る。ディスカウントショップとスーパーマーケットが混ざったような店がカップラーメンを山積みにしていた。

五月六月と人は街からいなくなり、路地裏の店は閉店し、先行きはどこにも見えず、行きつく先もわからず、今日が黙って過ぎてゆく。用事があるとほっとする。用事がなくなると用事のないことにぞっとする。周りを歩いている人たちは用事のためにどこかへ流れてゆく。汗を拭こうと立ち止まったビルの奥から、今年初めての油蝉の声がビルの壁を伝いながらジワジワと雨と共に降ってきた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする