えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

<遊び心のプログラム>攻略情報と説明書

2015年01月24日 | コラム
インターネットでゲームの名前を検索して商品の次に現れる、攻略情報や動画は説明書のひとつのあり方ではないだろうか。

説明書はそのゲームで規定されたルールを説明することが役割だ。ただしコンピュータゲームのそれとボードゲームのそれが大きく異なるのは、コンピュータゲームの場合はインタフェースによってゲームを起動させた時点でゲームを開始できる段階まで支度されていることである。ボードを広げたりカードを配ったり、ルールを説明しなおす必要はない。たとえばカードゲーム『UNO』 を初めて買った時、説明書が無くカードのみが入っていたらどうだろう。数字のカード、矢印のカード、四色の色がカードに書かれている。書かれたものに何らかの意味があることまではわかるだろう。しかしカードを前にして考えても、カードを作った人物が想定していた『UNO』 のゲームに辿り着くことは難しいのではないだろうか。 一方でコンピュータゲームの『UNO』では説明書を読まずにゲームを起動させても、カードはルールに沿った枚数が配布され、余りのカードを積んだ山からは一枚札が場に置かれる状況が自動的に用意される。用意するものはゲームをプレイするための機械とモニタだけだ。自分の手番で出すことのできないカードを出そうとしても何らかのメッセージが表示され、間違いは自動的に注意される。説明書に書かれている大方はプレイしながらでも学ぶことができるのだ。説明書を読まないプレイヤーに対してチュートリアルという形で、ゲーム本編に影響のない範囲で操作を教える段を設けるゲームも多々ある。

一方でインターネットにWikiなどの形式でプレイヤーの有志にまとめられている攻略情報に目を向けると、そこには一つ暗黙知がある。アクションゲーム等、細かいボタン操作が求められるゲームではない限り、ほとんどの場合は操作方法――メニュー画面の開き方、キャラクターの動かし方、コマンドの意味などなど――の説明は検索者があらかじめ知っているものとして省かれている。動画も同様にゲーム内の要素こそ詳細に説明されるものの、コントローラを動かす手もとを同時に映すことはしない。それは動画閲覧者がプレイヤーとなった時に機械のインタフェースから教わるものなのだ。

説明書はインタフェースが教える事を文字で教えてくれる。しかし情報量はゲームを遊ばせるため敢えて制限されている。攻略情報や動画の情報量は説明書よりもはるかに多い。けれども実際にプレイする時、プレイヤーは攻略情報や動画通りにゲームが進まないことを知る。それは暗黙知が経験として表出するためだ。どんなに動画や攻略を見ても、そこに書かれたり映されたりしていないことを閲覧者が知ることは容易ではなく、全てを知るにはゲームを読書のようにプレイして確かめるしかない。
情報量の多寡や役割の差を割り引いても、ゲームへの手引きと言った点で攻略情報は今や紙1枚に圧縮されつつある説明書になりうるものなのかもしれない。
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