えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

紅を挿す

2014年07月12日 | コラム
 高さ十センチほどの磁器の三段重を、表参道と六本木の間の紅屋伊勢半のショールームで見つけた。それはかつて白粉を溶かすための器だった。一段目と二段目にそれぞれ水と白粉を入れ、三段目で適度に時併せて顔へ塗るための小さな重箱である。掌に乗りそうなほど小さなそれを、江戸時代の女たちは傍らに置いていた。そして白地に点景を彩るのは唇の赤である。

 伊勢半は現在の日本で最後の、ベニバナから搾り取った紅で作る口紅を扱う店だ。意匠の凝った平たい磁器の小皿や空気に触れさせないための蓋付きのまりのような磁器の細工へ、緑がかった金色の紅が塗られている。この金色を称して玉虫色と呼ぶそうだ。玉虫色に輝くのは質の良い紅の証だ、と、紅色の唇の店員が語るのを小耳に小さなギャラリーを一巡りした。紅の作り方、玉虫色に唇を染めた芸者の浮世絵、塗るための刷毛、紅皿と、唇の化粧にまつわる品々の傍らにひっそりと白粉のための器物があった。流れている映像ではファンデーションの肌色の女性が唇へ紅を挿されているが、白塗りに載せられる紅はさぞや明るい肌に見えたではないか、と蝋燭の火を思い浮かべながら赤絵の小箱を観た。

 時代が下るにつれた化粧の変転を一通り学び入口へ戻る。見本に置かれた玉虫色の紅皿を改めて眺めいっていると、店員が「よろしければお試ししてみては」と声をかけた。否やもなく美容院のような鏡の前に座った。
紅は肌を染めない。その人自身の肌へ紅の方で色を調整するので、似合う色をいちいち考えなくて済む。「本当はピンクにしたい」という店員の、その赤い唇は彼女の白い肌へ良く似合っていた。自分一人は自分の色にしか染まらないが、つける人によって紅は様々に色を変える。

 店員のことばを聴きながら、紅を筆で挿してもらう。水を含ませた筆を店員が紅皿へ置くと、急に華やかな赤が筆先に付いた。紅筆が唇を往復するたびに唇がほんのりと赤みを増してゆく。肌を色づけるというよりは、肌の色を地に水彩絵具のように少しずつ赤が重ねられた。塗り重ねられた赤に、唇が明るいサーモンピンクへと染まった。水と紅だけで染められた口紅はそのまま肌へ沁みとおりそうな付け心地である。唇が明るくなるだけで、鏡の中の日焼けした他の肌まで明るくなったようだった。
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