【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

インバウンド依存

2020-11-18 07:11:31 | Weblog

 日本の観光地はインバウンドが激減したために壊滅的な被害を受けているそうです。ただ、経済が外国人観光客に依存する、ということは、経済的に外国に支配されているわけで、「独立国」としてはあまり健全な姿ではない、とも言えそうです。

【ただいま読書中】『奴隷船の世界史』布留川正博 著、 岩波書店(岩波新書赤1789)、2019年、860円(税別)

 エリック・ウィリアムズは『資本主義と奴隷制』(1944年)で「奴隷制と奴隷貿易を基礎とする資本蓄積で、イギリスでは産業資本主義(産業革命)が成立した」「産業資本主義が発展してゆく過程で奴隷制が廃止された」とまとめることができる「ウィリアムズ・テーゼ」を提唱しました。
 中世の「地中海」には「奴隷制」が存在していました(そのことは『ローマ亡き後の地中海世界』(塩野七生)に詳しく書いてありましたっけ)。イタリア商人はせっせと奴隷貿易を行い(主にイスラム教徒の奴隷)、イスラム海賊はキリスト教徒を盛んに奴隷にしていました。イベリア半島ではレコンキスタで捕虜になったムスリムが奴隷にされ、黒死病で人口が激減した地域では非キリスト教の奴隷を無制限に導入することが当局に許可されていました。大西洋での奴隷貿易を最初に始めたのはポルトガル。インドへの航路を開拓しようとアフリカ西岸を南下する途中に貿易の拠点を設けましたが、その“取り扱い商品”の一つが奴隷でした(その最初の記録は1441年のもの)。はじめは武力で奴隷を獲得していましたが、これは自分の損害も多いため、やがてアフリカ社会内部の奴隷を“平和的”に獲得する方向に変わっていきました。入手された奴隷は、アフリカで他の商品(たとえば金)と交換されたり、リスボンに輸送されてそこからヨーロッパ各地に売られたりしました(16世紀半ば、リスボンの人口は10万人でしたが、その1割が奴隷だったそうです)。15世紀後半から16世紀にかけては、新世界ではなくて旧世界の方が「奴隷社会」だったのです。これを明らかにしたのが「各国の公文書館に残された奴隷船の記録をすべて調査する」という国境を越えたプロジェクトです。もちろん「記録に残っていない(あるいは記録が失われた)奴隷船」もあるから、これは「完全な数字」にはなりません。しかし、「実際にはどうだったのか」の議論のたたき台にはなるでしょう。というか、こういった調査をせずに議論をしてもそれはそれこそ「机上の空論(信念の押し付け合い)」になるだけです。そこで早速わかったのが、これまでの通説「奴隷貿易はイギリスが主にやっていた」がひっくり返って「スペインやポルトガルの方がたくさんおこなっていた」。スペインは、「スペイン人」がやるのではなくて他国民にやらせていた、なんてこともわかっています。
 新大陸では、ヨーロッパからもたらされた様々な疫病によって人口が激減しました。それはすなわち「現地での労働力の減少」で、それが「アフリカからの黒人奴隷」への需要を増すことになりました。そのため、民間の独立業者もこの“美味しい商売”に参入してきました。
 奴隷船はつまりは「移動監獄」です。297トンとやや大型の奴隷船ブルックス号は600人くらいの奴隷をぎっしりと詰め込んで航海していましたが、2箇月の航海中での奴隷の死亡率は3〜14%と記録されています、ブルックス号の4回の航海が終わった1788年ニドルベン法が制定され「1トンあたり奴隷は一人以下」と規定されました。それを守った状態でも奴隷は船内にぎっしり詰め込まれていました(図解があります)。実際には法律違反の過積載は当たり前だったわけで、奴隷が「人」ではなかったことがよくわかります。男性奴隷は手首と足首を鎖につながれた状態で中腰にしかなれないせまい空間に、女性と子供の奴隷は鎖につながれてはいませんでしたが、乗組員の性欲の対象になる危険性が常にありました。船員は通常の貿易船の倍くらい。奴隷の監視や他の奴隷船や武装船からの襲撃に備えていました。奴隷船内部の状況については、映画『アミスタッド』(1997年、スティーブン・スピルバーグ監督)で映像化されています。
 自由を奪われた人間は、抵抗します。統計的には、10航海で1回の蜂起があり、蜂起1回の平均死者数は25人だったそうです。しかし、異なる地域・部族・言語がごちゃ混ぜにされた集団ですから、「叛乱を起こそう」と相談をするのも大変だったでしょう。それでもこれだけの蜂起が起きていたのは、驚きです。
 1771〜72年にかけて、北米で購入され英国に連れてこられたサマーセットという奴隷の身分に関わる「サマーセット事件」の裁判が行われました。サマーセットの弁護士は「英国には法的な奴隷制度は存在しない。英国に『サーヴァント』は雇用労働者しか存在しない。従って、入国した『奴隷』はただちに自由人となる」と主張しました。対して所有者側の弁護士は「英国内でサマーセットは自由だが、『サーヴァント』である以上『マスター』の支配権は残る」と主張。首席裁判官マンスフィールド卿は「サマーセットは釈放されるべき」と判決を下します。マンスフィールドは「英国に奴隷制度は存在しない」とは言わなかったのですが、世間は「裁判所は奴隷制度を否定した」と受け止め、それが定着します。さらに「ゾング号事件(船内で疫病が流行し、生きた奴隷を集団で海に放り出して殺した)」が「奴隷船の残酷さ」を世界に知らしめます。かくして奴隷反対運動が始まります。ただ「私有財産」である奴隷禁止は、民法に抵触するので、まずは「奴隷貿易廃止」が目標とされました。18世紀に運動の中核となったのはクウェイカー教徒で、奴隷はキリスト教の精神に反すると「人道主義」を掲げました。イギリス国教会でも別の考え方から奴隷制に反対の人が増えます。しかし「昔から行われてきた」「イギリスだけ奴隷をやめたら砂糖などの生産コストが上がり、奴隷を使っている他国を利することになる」などの意見も強く主張されます。
 このへんの複雑な議論を読んでいると、「奴隷制に賛成の人間は一度奴隷になってみること」と規定したら簡単なのに、なんて私は過激なことを思ってしまいます。
 フランスでは革命が進行中、それを受けてハイチでも革命が進行中、というけっこう危うい国際情勢の中、イギリス下院でついに「奴隷貿易の漸進的禁止」が可決されます。ただこれは上院で否決されました。しかし奴隷制廃止派はあきらめません。「正義」と「経済」の両面の理論武装を少しずつ強化していきます。そして1806年、奴隷貿易廃止の法案がイギリス国会を通過します。各国は少しずつその流れに加わっていきました。貿易禁止で新規流入がなくなれば、奴隷の処遇が改善され最終的には奴隷はいなくなる、と奴隷制廃止派は期待しましたが、現実はなかなかそうはなりませんでした。「奴隷の子は奴隷」である限り、死亡率を抑えれば奴隷人口は維持できるのです。「奴隷制廃止派」は「貿易廃止」から「制度廃止」に方針を変更、「生まれながら奴隷であること」に疑問を持つようになった人たちによる叛乱、イギリスではカトリック教徒にも市民権を与えるように法が改正、などが複雑に絡み合い、プランテーションの所有者に政府が補償金を支払うことを条件に「奴隷制廃止法」が1833年に成立しました。
 アメリカ南北戦争当時、奴隷制に執着していたのは民主党で、それを廃止しようとしていたのが共和党、というのは、なんだか不思議な気がします。ただリンカン大統領は奴隷制廃止に熱心だったわけではなくて、連邦維持が最優先でそのための手段として奴隷制廃止を持ち出したのだそうです。政治というのは、何ともわかりにくいものだと思います。
 さて、奴隷制は「過去の話」でしょうか? ケビン・ベイルズは『グローバル経済と現代奴隷制』(1999年)で、債務奴隷などの形で全世界に「奴隷」は少なくとも2700万人存在し、先進国もその例外ではない、と述べているそうです。もちろん日本にも昔とは形を変えた「奴隷」(かつての「人間所有」ではなくて、使い捨てにされる「人間支配」)が多数存在しているそうです。

 


空から

2020-11-17 07:29:34 | Weblog

 高校時代「登頂の価値」で友人と議論になったことがあります(というか、高校時代は何でも議論のネタでしたが)。そのときには「ヘリコプターでエヴェレストの山頂に降り立ったら、それは『エヴェレストの頂上に立った』と言えるか」がお題。物理的にはたしかに足は頂上を踏んでいますが、逆に、「頂上以外」は踏んでいないわけで、それで「登頂した」と言えるか、という“問題”です。
 そうそう、もう一つ問題がありました。エヴェレストの山頂まで飛べるヘリコプターが存在するのか、という現実的な問題が。なにしろあそこはジェット旅客機が飛ぶ高度なのですから。

【ただいま読書中】『空へ ──エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか』ジョン・クラカワー 著、 海津正彦 訳、 文藝春秋、1997年、1762円(税別)

 「エヴェレスト」は、かつては神の領域、ついで最高級の英雄のためのもの、やがて優れた登山家のもの、となっていきましたが、1985年にテキサスの富豪でクライミング経験などろくに無いディック・バスが優れた若手登山家をガイドとしてエヴェレスト登頂に成功してからは「営利事業の場」になりました。多くの私企業が「ガイド登山」を売り物にするようになったのです。私は子供のころに「そこに山があるからだ」の言葉に出会って心が震えましたが、今は札束で山の横っ面をはたく時代のようです。
 1995年著者は雑誌社からガイド付きエヴェレスト遠征隊に同行取材するよう勧められます。そこで著者はトレーニングを始めます。エヴェレストの頂上に立つために。
 ネパールは登山料に経済を依存するようになっています。そしてシェルバ族も登山隊に経済的に依存しています。著者はガイド付き登山隊に参加することで、その姿をまざまざと見ることになります。
 ヘリコプターでひとっ飛び、長い長いトレッキングの最初の3週間分を省略して、そこから高度順化をしながらのトレッキングが始まります。道々見える峻厳なヒマラヤの姿は、冒険であろうと商業的な登山であろうと、変わりは無いはずです。
 高度5000mを越えた場所にあるベースキャンプには、人が溢れていました。著者が参加した登山隊は、シェルパも含めて25人の大所帯でした。しかも、他の国(あるいは多国籍)の登山隊も複数存在していたのです。この状況を、「商売」によってエヴェレストが汚されると嫌う人もいますが、「持続可能な商売」を目指す人びとは「シェルパ族を大切にする」「ゴミや排泄物は持ち帰る」などの活動もしていました。だからベースキャンプの「環境」は20世紀後半よりも改善されているはずです。
 斜面の固定ロープや氷河の割れ目に設置されたアルミ梯子といった“有料道路”(実際に使用するのは有料です)を使って、登山隊は高度順化を繰り返します。ただ“有料道路”を使って楽をしても、実際に身体を動かすのは自分の脚、そこに酸素を供給するのは自分の肺と心臓です。きついです(ベースキャンプの高度でも酸素分圧は海面高度の半分です)。そして、非営業登山隊(ガイド付きではない、自力で登ろうとする古いタイプのもの)の中には明らかに経験不足力不足のものがいくつも混じっていました。真剣に山に取り組む(そのための方便としてガイドを使う)人も多くいましたが、山を危険なくらい甘く見ている人間も多数終結していたのです。特にこの時の未熟な台湾隊と傲慢な南アフリカ隊について、著者は不安を隠しません。さらに、一本のルートに50人くらいが取りついて“交通渋滞”を起こします。最終的に著者と同じ日に「サウス・コル」から頂上にアタックを始めたのは、33人。追い抜きもすれ違いも難しいのに。そして、あちこちで小さな“齟齬”が生まれます。それ自体は大したことがないもののように見えますが、それが集結すると「悲劇」になることがあるのです。
 著者は頂上に立ちますが、酸素が切れてしまいました。そのため著者の判断力や記憶力はひどく鈍ってしまいます(その記憶の混乱があるため、「悲劇」について正しい判断ができていない可能性があることを著者自身が認めています)。空は快晴でしたが、天気は一気に下り坂に。人びとはあわてて下山を始めます。著者はもうろうとした頭で単独で下り続け、ブリザードの中、何とか第4キャンプにたどり着きます。しかし、無事たどり着けない人もいました。あるいは、たどり着けてもそのまま死んでしまった人も。結局この日登った人から、12人の死者が出たのです。その中には日本人も含まれています。
 著者はなるべく多くの人にインタビューを行い、それぞれの記憶を付き合わせます。その中には、自分の記憶と合わないものも多く含まれていました。それは、相手の記憶が違っているのか、あるいは、自分の記憶が? さもなければ両方とも間違っている? 実際にエヴェレスト頂上で何が起きたのか? それを追究する試みは、著者にとっては「自分の不注意が、誰かを殺したのかもしれない」という恐ろしい疑いを持たせることにもなっていきました。
 かつてヒラリーが向けられた質問「なぜあなたは山に登るのですか?」を、商業登山が行われるようになった今、別の文脈で登る人は向けられなければならないのでしょう。

 


最強の格闘技

2020-11-15 10:29:56 | Weblog

 極真空手は、他流派の空手が型重視で試合では寸止めであるのに対し、「自分たちの試合では直接打撃を加えている」ことで「最強の格闘技」を謳っていましたが、試合で「顔面へのパンチは禁止」となっています。すると他流派の相手が顔面を殴ってきたら対応できずにダウンしてしまう(最強ではなくなってしまう)、なんて事態に陥ってしまうのではないでしょうか。

【ただいま読書中】『刀の日本史』加来耕三 著、 講談社(現代新書2380)、2016年、800円(税別)

 真剣を用いた稽古によって「真剣の日本刀の間合い」に入ってしまった著者による日本刀についての本です。
 神話の時代から皇室と刀剣には「三種の神器」「節刀」「壺切御剣」など、密接な関係があります。ただ、天皇が自ら刀を振るった例は、少なくとも最近(少なくともこの10世紀くらい)は無いようですが。
 平安時代末期頃から鎧や兜が進歩し、それに対応するために刀も蛤刃にするなどの変身をしました。ところが元寇では、異国の兵士の皮鎧に刃が通用しませんでした。そこで刀工たちは、日本の大鎧にも蒙古の鎧にも対応できるように、「軽く、折れず、曲がらず、よく切れる」の相反する条件を高いレベルで満足させるように、様々な工夫をすることになります。武士にとって刀は「自分の命がかかった実用品」だったのです。
 著者は最近の「美」に偏った日本刀の評価に批判的です。批判的、というか、拒否しています。「真剣で素振りをしたこともないくせに」と。ただこれを言っちゃうと「日本刀で戦ったことがない人」は日本刀について発言してはいけないことにもなりそうですが。
 足利義輝は当代一流の剣聖と称された、塚原卜伝と上泉伊勢守信綱に剣を学び、一流の腕となりました。これは幕府が既に無力となっていたことが関係をしているのでしょうが、当時は「剣術」がまだ「歩卒(足軽)の技術」と見なされていたことを思うと、異例のことでした。しかし時代はすでに「鉄砲」へと移行しようとしていました。ただその鉄砲を日本に普及させる原動力となったのは、刀鍛冶の高い技術でした。
 剣豪小説にはよく「名刀」が登場します。「美」の点からの名刀は、その姿で決めればよいでしょうが、実用性で決めるとなると「その刀で何人斬られたか」で決めなくちゃいけないのかな? もっともそれは小説では「妖刀」にされてしまうのでしょうが。

 


科学者と芸術家

2020-11-15 10:29:56 | Weblog

 英語だとサイエンティストとアーティストで語尾が「スト」で揃うのに、日本語だと「者」と「家」。これを無理にそろえて科学家とか芸術者というと変な気がするのはなぜでしょう?

【ただいま読書中】『科学でアートを見てみたら』ロイク・マンジャン 著、 木村高子 訳、 原書房、2019年、2500円(税別)

 レオナルド・ダ・ヴィンチは「観察」を重視して、だから動物を描く場合に解剖まで行いました。植物もじっと観察をし「樹木では、主枝が側枝に枝分かれする場合、側枝の断面積の合計は主枝の断面積に等しい」という「ダ・ヴィンチ則」を導き出しました。これを検証したのが数学者ブノワ・マンデルブロで、「ダ・ヴィンチ則はほとんど正しい」という結論を得ています。現在この法則は、情報処理プログラムでできるだけ本物に近い樹木を表現する場合に利用されているそうです。ただ、なぜこのような法則が成り立つのでしょう? さて、皆さんはどんな仮説を思いつきます? 「自然の中ではすべてのことに理由がある」(レオナルド・ダ・ヴィンチのことば)のです。
 フェルメールの「士官と笑う娘」の絵から話は「ビーバーの帽子」に。私はビーバーの毛皮が人気があって乱獲された、と思っていましたが、実はビーバーの「下毛(かもう:刺し毛の下に短く密集して生えている綿毛)」だけで作られたフェルト生地が実に優秀だったのだそうです。ところがこのフェルト、生産の時に水銀処理をするので『不思議の国のアリス』のような帽子屋が登場することになります(「帽子屋のように狂っている」という言い回しがあります)。ヨーロッパのビーバーが激減した後用いられたのは羊毛のフェルトでしたが、これは型崩れしやすく水に弱い、下層民のためのフェルトでした。アメリカからの輸入物によってビーバーフェルトの人気にまた火がつきましたが、病気の輸入を恐れた当局によって規制されたそうです。
 ゴッホの「星月夜」に描かれているのは太陽か月か、描かれたのはいつか、ムンクの「橋の上の少女たち」に描かれているのは太陽か月か、それが池の水面に映っていないのはなぜか、などもきちんと科学的に説明がされます。
 最初に天の川を「星々の集まり」としてきちんと描いたのは、1609年アダム・エルスハイマーの「エジプトへの逃避」。1609年にパドヴァ大学教授だったガリレオは、自作した望遠鏡で夜空を観察することで「天の川は無数の星から成る」ことを知り、それを『星界の報告』で発表しました。その「最新の科学」が絵画に早速取り入れられていたわけです。ちなみに、この絵では星座も正しく表記されているそうです。
 レンブラントの自画像からは、彼が外斜視であることがわかります。本書では「ではその外斜視は、彼の絵にどのような影響を与えたか」の考察が始まります。いやあ、よくそういう疑問を思いつく、とそちらの方にも私は感心します。
 ブリューゲルの「バベルの塔」では、建設工事に使われている「重機」が注目されています。「そんなものがあったっけ?」とつくづく眺めたら、あらあら、けっこう使っていますねえ。ということは、16世紀にはすでにクレーンなどが使われていたんだ。
 「科学」と「アート」は、対極の存在のようではありますが、本書を見る限り実はけっこう馴染みが良いものだったようです。重要なのはその両者をつなぐものを見つける「着眼点」でしょうが。

 


日ソ戦争

2020-11-14 07:28:52 | Weblog

 第二次世界大戦末期、ソ連は満州・朝鮮・樺太・千島に一大攻勢をかけました。そして戦後、樺太と千島は占領を続けましたが、満州と朝鮮はあっさり手放しています。せっかく日本からもぎ取ったのですから、占領を続けたかったでしょうに、どんな計算があったのでしょう?

【ただいま読書中】『神々は真っ先に逃げ帰った ──棄民棄兵とシベリア抑留』アンドリュー・バーシェイ 著、 富田武 訳、 人文書院、2020年、3800円(税別)

 1945年8月15日、「帝国領」には630万の日本人が取り残されていました。最優先で東京に帰還したのは、10日後に空輸された朝鮮神宮のご神体。その他の格下の神社は、襲われるに任されました。人間も同様です。「神」に近い“格上”の人間(官僚や高級将校)は慎重に準備された退去手順に従って帰国し、“格下”の人間は放置されました。
 630万人の半数は兵士または軍関連の文民でした。残りは「一般邦人」です。満州には、関東軍が約60万人、一般邦人は110〜130万人いました。帝国陸軍が素直に降伏するのか不安を覚えた昭和天皇は、8月16日に皇族3名を各戦域に派遣しました。戦域司令官に天皇の「聖旨」(武装解除し平和裡に降伏せよ)を伝える任務です。満州に向かったのは竹田宮。現役の陸軍将校でもある宮は、ソ連参戦翌日に家族とともに命からがら満州から帰国したばかりでしたが、急遽満州に飛びます。日本軍兵士にとって、死ぬことが前提で、生き残る、まして捕虜になることは“想定外”で心の準備は何もできていませんでした。だから「聖旨」が必要だったのです。ソ連軍が新京を占領する前日に司令官と高級幕僚に「聖旨」を伝え、彼らは「恭順」しました。さらに「ラストエンペラー」溥儀に会おうとしましたが失敗。しかしこの失敗のおかげで宮はソ連軍の捕虜になることを免れています。
 第二次世界大戦最終盤に勃発した「日ソ戦争」では、ソ連軍の圧倒的なスピードに対応できず、日本軍は満州・朝鮮・樺太・千島で8万が戦死、60万が捕虜(ソ連の言い方、日本の言い方では「抑留者」)という一方的な負け戦になりました。ちなみに、トルーマンの拒絶によってスターリンが北海道侵攻計画をあきらめたのは、8月22日のことだったそうです。そしてスターリンは「北海道をあきらめる代償」「かつて日本がシベリア出兵をしたことへの報復」を「シベリア抑留」を正当化する政治的理由として十分だと考えていたようです。また、対ドイツ戦で2300万人(全人口の1/7)が死亡してソ連が深刻な労働力不足に陥っていたことが、喫緊の現実的な理由となりました。
 日本人が収容されたラーゲリ(収容所)はソ連全土に約2000箇所。規模は数百人から数万人まで様々です。偶然でしょうが、出版された抑留者の記録(日記など)も日本に2000編あるそうです。これは、ソ連当局が記録を敵視していた(ラーゲリ内では書くことを禁止、帰国時には厳しい身体検査をしてもし記録が発見されたら重罰(奥地のラーゲリに再配置された))ことを思うと、すごい数です。著者はその日本語の文献を読み込んでいますが、「記録を書き、それを日本に持ち帰ることができた」ことは「抑留者一般」に言えることではないと冷静です。将校は優遇されていましたが多くの兵卒は生き残ることに懸命だったのです。さらに著者は、抑留者が解放後に描いた絵画にも注目しています。
 そういった日記・回顧録・絵画などは、すべて「個人の体験の記録」ではありますが、同時に「社会」や「政治」を反映しており、それらを俯瞰的に眺めることから「歴史」が浮かび上がってくるのです。
 本書に登場する石原さんは、1953年にスターリンが死に、恩赦の噂が流れ、ラーゲリから解放されてナホトカに移送され、それから6箇月経ってやっと帰国の船に乗れました。昭和28年のことです。「岸壁の母」が流行したのは昭和29年、「もはや戦後ではない」は昭和31年。私の感覚ではまだそこまで古い話ではないのですが、世間では既に「歴史」の領域になっているのかもしれませんね。
 もちろん「歴史」にしてしまい込んでも良いでしょうが、簡単に忘れてはいけません。

 


もう第三波?

2020-11-13 07:06:36 | Weblog

 世間では新型コロナの第三波が来た、と言われています。これ、グラフの「期間」を短く見ているから細かい変動があるように見えますが、たとえば「1年のスパン」で眺めたら「まだ第一波の中にいる」と言えるんじゃないです?
 ちなみに日本政府は「国民がきちんと対策をしろ」と言っていますが、「政府の責務」ってのもあるはずです。それが「PCR検査数の抑制」「対策は自治体と個人に丸投げ」「『重症者の定義』が全国で不統一であることを容認」「GoToを積極的に行う」「非常事態宣言を出し渋る」であるのは、ちょっと不思議です。

【ただいま読書中】『太陽と月と地球と(ガモフコレクション2)』G・ガモフ 著、 白井俊明・市井三郎 訳、 白楊社、1991年、3600円(税別)

 この「コレクション」の元となった「ガモフ全集」を初めて読んだのは、たしか高校生の時。宇宙の話で始まったはずが、なぜか原子の話に即座に移行していて、「科学の視点」の自由自在さに強い印象を受けましたっけ。さらに科学史も巧妙に織り込まれていて、科学が「人間の営み」であることも自然に理解できるようになっていました。今回再読して、「ガモフの科学」は「20世紀の科学」であるにしても(たとえば「土星の写真」はピンぼけの光学写真ではなくて今だったら「カッシーニが撮影した写真」が採用されるでしょう)、「科学の本質」についてはきっちりツボを押さえてあることに私はやはり感銘を受けました。
 時代によって「知識量」は変化しますが、鋭い「ものを見る目」を持った人はその“奥”まで見抜くもののようです。

 


動物の知能

2020-11-12 06:19:21 | Weblog

 「鯨は頭がよいから、食べてはいけない」と主張する人がいましたが、もしも牛や豚や羊に知能があることがわかったら、そういった人はどうするのでしょう。「頭が悪い動物は食べても良い」と言うとか?

【ただいま読書中】『鳥頭なんて誰が言った? ──動物の「知能」にかんする大いなる誤解』エマニュエル・プイドバ 著、 松永りえ 訳、 早川書房、2019年、1900円(税別)

 著者は子供時代には「イヴ・コパン(「ルーシーの膝」の人)」に、学生の時には「ジェーン・グドール(チンパンジーに個性があり道具を使うことをフィールドワークで発見した人)」になりたいと思っていました。そして著者は「ルーシー(オウストラロピテクス)はどのようなフィールドでどのような生き方をしていたのだろう」という疑問を解明したくなります。そのことについて博士論文を書きながら(指導教授は、イヴ・コパン!)著者は「霊長類以外の動物はどんな“知的能力”を持っているのだろう」と疑問を拡張していきます。
 木の実を割るのに石を“道具”として用いるサルは複数知られています(例:ブラジルのノドジロオマキザル、コートジボワールやギニアのチンパンジー)。ボノボは「石器」を製作します。すると、地球の歴史で「最初に石器を作った」のは、ヒトではなくてオウストラロピテクスや大型サルの祖先、あるいは小型サル類の可能性があります。
 道具を使う動物は、サルだけではありません。ヒグマは石を使って首を掻いているのを目撃されているし、アジア象は棒を使って様々なことをしています。鳥類も多彩な道具使用をしています。笑っちゃうのは、身体を乾かすのにタオルを使っていたカナダヅル。カレドニアガラスは穴の中のミミズを引っかけるための道具を自作します。手も大脳皮質もないのに、どうしてこんなことができるのでしょう。
 ルイジアナのワニはシラサギの繁殖期にそのコロニーのそばで、小枝を口にくわえてじっとしていて、シラサギが巣作りのためにその小枝を取ろうとした瞬間襲いかかっていたそうです。その他の水中生物もいろいろな道具を使っていることが具体例で示されます。
 かつて「ヒトは道具を使うところが他の動物と違う」と言っていたのが、やがて「道具を作る」さらに「道具を作る道具を作る」と「ヒトの優位性」は少しずつ“後退”しています。というか「ヒトは他の動物より優位にある」とわざわざ言わなければならない理由って、何でしたっけ?

 


墓を掘る

2020-11-11 07:18:05 | Weblog

 「墓を暴く」と「墓の発掘」とは、どこが違うのでしょう? どちらも「死者が存在するところを掘る」行為は同じです。もしかして「もうその墓に参る人がいなくなったかどうか(墓を掘ることに「家族の墓だぞ」と文句を言う人が存在するかどうか)」がその境界線かな?

【ただいま読書中】『応天の門(12)』灰原薬 作、新潮社、2020年、600円(税別)

 貴族の家から家宝の硯を盗んだ、と濡れ衣を着せられた菅原道真はやっとのことで真犯人を突き止めますが、そのために、よりによって藤原基経に「恩」を着せられてしまいます。
 「女しか生まれず、しかもその半分が若くして死ぬ」という山里を調査に行った在原業平は、転落事故で「死者が住む隠れ里」に迷い込んでしまいます。そこからやっと「現世」に戻れたのですが、その「謎」を菅原道真は解くことになってしまいます。いつもの「巻き込まれ型」の探偵役ですが。京しか知らなかった道真は、実際に見る地方の実状に、深く考え込んでしまいます。国司や郡司による税取り立ての不正が横行し、民はそれに対してやはり不正で対抗しています。不正を嫌う道真ですが、単に断罪するだけでは結局何も解決しない、と気づいてしまったのです。さて、「現世」と関わることを嫌って、知的な面で「隠れ里」に籠もろうとしていた道真は、どうしてもこれからはその関りの中で生きなければいけないようです。

 


失敗の効用

2020-11-10 14:30:30 | Weblog

失敗の効用
 「知識」は単体では人を幸福にはできません。しかし、知識を活かす「知恵」とそれを上手く使うための「技術」があれば、人は無知なときよりは幸福になりやすくなります。さらに「経験」それも「失敗した経験」を積んでいてそれを活かせれば、人はさらに幸福になりやすくなるでしょう。

【ただいま読書中】『「江戸大地震之図」を読む』杉森玲子 著、 角川書店(角川選書)、2020年、1800円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/404703648X/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=404703648X&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=fa3d8bc6d536591b80377453be58b010
 「江戸大地震之図」と題簽に素っ気なく書かれているだけであとは説明が全然ない絵巻が、薩摩藩の島津家文書に存在しています。それとほぼ同様の絵巻がかつては近衛家に所蔵されていました(現在はアイルランドのチェスター・ビーティー図書館に「安政大地震災禍図巻」として保存されています)。
 安政江戸地震は、安政二年十月二日(1855年11月11日)に発生したマグニチュード7程度、最大震度6の直下型地震です。被害は、倒壊家屋1万以上、死者7000人以上と推定されています。
 本書の冒頭に、絵巻の全体図が分割して載せられています。最初は静謐な茶室、表通りには人通りが多く商店は繁盛している様子です。それが夜になるとしんと静まりかえり、そして大地震、人びとはうろたえ騒ぎ、火災が襲い、そして再建。私のような素人にはこれくらいしか読み取れませんが、“プロ”は、当時の地図や町触れなどの史料を駆使して、“ここ”がどこで登場人物たちが誰か、まで次々特定していきます。その過程は知的にスリリングで、実に面白い。
 たとえば絵巻に描かれている半壊した屋敷は島津家の芝屋敷で、庭先に置かれた畳の上に立つのは島津斉彬夫妻と篤姫である、と特定されます。つまりこの絵巻の主題は、島津家の視点から見た安政大地震。だからこそ、篤姫が嫁入り前に養女となった近衛家にも写しの絵巻が送られたのでしょう。
 何の説明もないため、絵巻が作られた真意は私にはわかりませんが、「記憶」を「記録」に変換したいという感情がその原動力ではないか、とは思えます。
 しかし、安政地震の記憶も記録も、関東大震災の時には役に立ちませんでした。では「次の首都直下型大地震」ではどんなものが役立つのでしょう?
 しかし、絵巻って「見る」ものではなくて「読む」ものだったんですね。

 


不正選挙

2020-11-09 07:14:22 | Weblog

 「不正選挙」とは「実際の投票結果を無視して、最初から定められている特定の結果を捏造すること」と定義できそうです。
 ところで「不正選挙」を訴えているトランプの主張の根拠は「トランプが勝つはずだったのに負けたのは不正が行われたからに違いない」ですが「トランプが勝つはずだった」こと自体がすでに「自分は不正選挙を画策していた」と言っていることになりません?

【ただいま読書中】『1493 ──世界を変えた大陸間の「交換」』チャールズ・C・マン 著、 布施由紀子 訳、 紀伊國屋書店、2016年、3600円(税別)

 「大航海時代」は、「アジアで繁栄している商業ネットワークにヨーロッパが参加しようとしてイスラムにはじき返された」ことによって始まった、と言ってもよいでしょう。歴史家のアルフレッド・W・クロスビーは「かつて固有の生態域に分けられていた世界が、人為的な交換によって混じり合ったこと」を「コロンブス交換」と名付けました。「イタリアのトマト、フロリダのオレンジ、スイスのチョコレート、トルコやタイのトウガラシ」などがその“成果”です。冒険家や商人の帆船には、人びとの野望や欲望や商品だけではなくて、偶然“乗り込んで”いた植物の種や鼠や昆虫などがたっぷり搭載されていて、それらは寄港地で「外来種」としてその土地の生態系に混じり込んでいきました。そして疫病も。アメリカでは知られていなかった、天然痘・インフルエンザ・肝炎・はしか・結核・コレラ・チフス・猩紅熱……それらの病原体も大喜びで“新大陸”に上陸しました。
 生物学者の中には「コロンブス交換によって『均質新世』(世界が均質化される)という新時代がやってきた」と言う人もいるそうです。とりあえず気象変動がやって来ました。大陸規模でのアメリカ先住民の激減は野焼きの減少となり、草原は森林に戻り、二酸化炭素が地球規模で減少、その結果は寒冷化だったのです。
 大西洋の三角貿易は有名ですが、太平洋でも盛んに貿易が行われていました。メキシコを出発したスペイン船は貿易風に乗ってフィリピンに到達し、黒潮に乗ってメキシコに帰還しました。メキシコ銀は中国や日本にももたらされています。大西洋・太平洋貿易の結節点となったメキシコ・シティは、多民族・多言語・多文化のメトロポリタンシティーに急成長しました。
 ミミズやマラリアという、私にとっては意外なものも「コロンブス交換」によってアメリカに持ち込まれたものだそうです。ミミズは世界中に普遍的、マラリアは中南米が“原産地”だと私は思っていました。
 太平洋でも銀や織物がまっとうな貿易で運ばれましたが、真っ当ではないものもありました。奴隷です。中国人労働者は「カリフォルニアで働く」という嘘の契約書にサインし(サインを拒んだものは誘拐され)焼き印を押され、ペルーに強制的に運ばれてグアノ(島の珊瑚礁に堆積した海鳥の糞を主体とするもの。肥料として重用されました)採掘に従事させられました。大量に輸出された肥料投入による単一作物大量生産は世界の農業を変革し、その流れは現在に至ります。
 「人間以外の病気」もコロンブス交換で移動しました。たとえば、アイルランドで深刻な飢餓を引き起こしたジャガイモ疫病菌。保存されていたDNAはアンデスの疫病菌と一致しました。著者は「グアノ船でアメリカからヨーロッパに運ばれたに違いない」と考えています。そして、この疫病菌が“大活躍”できた要因が「均質化」でした。国全体の農業がたった一つの作物(ジャガイモ)それもたった一つの品種(ランパー)に依存していたのです。この「均質な生態系」は、病原菌にとっては“天国”でした。人間にとっては地獄でしたが。 
 昆虫なども世界中で「均質化」されていきます。そして、人間の遺伝子も各地で混ざり合っていきます。そういえばUSAで「移民排斥」を謳う白人は、自分自身がかつてはヨーロッパの「○○国人」だったのが混ざり合って「アメリカ人」になった過去から目を逸らしているように私には見えます。そういえば「日本人」もどんな過去がありましたっけ?


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