【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

日ソ戦争

2020-11-14 07:28:52 | Weblog

 第二次世界大戦末期、ソ連は満州・朝鮮・樺太・千島に一大攻勢をかけました。そして戦後、樺太と千島は占領を続けましたが、満州と朝鮮はあっさり手放しています。せっかく日本からもぎ取ったのですから、占領を続けたかったでしょうに、どんな計算があったのでしょう?

【ただいま読書中】『神々は真っ先に逃げ帰った ──棄民棄兵とシベリア抑留』アンドリュー・バーシェイ 著、 富田武 訳、 人文書院、2020年、3800円(税別)

 1945年8月15日、「帝国領」には630万の日本人が取り残されていました。最優先で東京に帰還したのは、10日後に空輸された朝鮮神宮のご神体。その他の格下の神社は、襲われるに任されました。人間も同様です。「神」に近い“格上”の人間(官僚や高級将校)は慎重に準備された退去手順に従って帰国し、“格下”の人間は放置されました。
 630万人の半数は兵士または軍関連の文民でした。残りは「一般邦人」です。満州には、関東軍が約60万人、一般邦人は110〜130万人いました。帝国陸軍が素直に降伏するのか不安を覚えた昭和天皇は、8月16日に皇族3名を各戦域に派遣しました。戦域司令官に天皇の「聖旨」(武装解除し平和裡に降伏せよ)を伝える任務です。満州に向かったのは竹田宮。現役の陸軍将校でもある宮は、ソ連参戦翌日に家族とともに命からがら満州から帰国したばかりでしたが、急遽満州に飛びます。日本軍兵士にとって、死ぬことが前提で、生き残る、まして捕虜になることは“想定外”で心の準備は何もできていませんでした。だから「聖旨」が必要だったのです。ソ連軍が新京を占領する前日に司令官と高級幕僚に「聖旨」を伝え、彼らは「恭順」しました。さらに「ラストエンペラー」溥儀に会おうとしましたが失敗。しかしこの失敗のおかげで宮はソ連軍の捕虜になることを免れています。
 第二次世界大戦最終盤に勃発した「日ソ戦争」では、ソ連軍の圧倒的なスピードに対応できず、日本軍は満州・朝鮮・樺太・千島で8万が戦死、60万が捕虜(ソ連の言い方、日本の言い方では「抑留者」)という一方的な負け戦になりました。ちなみに、トルーマンの拒絶によってスターリンが北海道侵攻計画をあきらめたのは、8月22日のことだったそうです。そしてスターリンは「北海道をあきらめる代償」「かつて日本がシベリア出兵をしたことへの報復」を「シベリア抑留」を正当化する政治的理由として十分だと考えていたようです。また、対ドイツ戦で2300万人(全人口の1/7)が死亡してソ連が深刻な労働力不足に陥っていたことが、喫緊の現実的な理由となりました。
 日本人が収容されたラーゲリ(収容所)はソ連全土に約2000箇所。規模は数百人から数万人まで様々です。偶然でしょうが、出版された抑留者の記録(日記など)も日本に2000編あるそうです。これは、ソ連当局が記録を敵視していた(ラーゲリ内では書くことを禁止、帰国時には厳しい身体検査をしてもし記録が発見されたら重罰(奥地のラーゲリに再配置された))ことを思うと、すごい数です。著者はその日本語の文献を読み込んでいますが、「記録を書き、それを日本に持ち帰ることができた」ことは「抑留者一般」に言えることではないと冷静です。将校は優遇されていましたが多くの兵卒は生き残ることに懸命だったのです。さらに著者は、抑留者が解放後に描いた絵画にも注目しています。
 そういった日記・回顧録・絵画などは、すべて「個人の体験の記録」ではありますが、同時に「社会」や「政治」を反映しており、それらを俯瞰的に眺めることから「歴史」が浮かび上がってくるのです。
 本書に登場する石原さんは、1953年にスターリンが死に、恩赦の噂が流れ、ラーゲリから解放されてナホトカに移送され、それから6箇月経ってやっと帰国の船に乗れました。昭和28年のことです。「岸壁の母」が流行したのは昭和29年、「もはや戦後ではない」は昭和31年。私の感覚ではまだそこまで古い話ではないのですが、世間では既に「歴史」の領域になっているのかもしれませんね。
 もちろん「歴史」にしてしまい込んでも良いでしょうが、簡単に忘れてはいけません。