【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

インバウンド依存

2020-11-18 07:11:31 | Weblog

 日本の観光地はインバウンドが激減したために壊滅的な被害を受けているそうです。ただ、経済が外国人観光客に依存する、ということは、経済的に外国に支配されているわけで、「独立国」としてはあまり健全な姿ではない、とも言えそうです。

【ただいま読書中】『奴隷船の世界史』布留川正博 著、 岩波書店(岩波新書赤1789)、2019年、860円(税別)

 エリック・ウィリアムズは『資本主義と奴隷制』(1944年)で「奴隷制と奴隷貿易を基礎とする資本蓄積で、イギリスでは産業資本主義(産業革命)が成立した」「産業資本主義が発展してゆく過程で奴隷制が廃止された」とまとめることができる「ウィリアムズ・テーゼ」を提唱しました。
 中世の「地中海」には「奴隷制」が存在していました(そのことは『ローマ亡き後の地中海世界』(塩野七生)に詳しく書いてありましたっけ)。イタリア商人はせっせと奴隷貿易を行い(主にイスラム教徒の奴隷)、イスラム海賊はキリスト教徒を盛んに奴隷にしていました。イベリア半島ではレコンキスタで捕虜になったムスリムが奴隷にされ、黒死病で人口が激減した地域では非キリスト教の奴隷を無制限に導入することが当局に許可されていました。大西洋での奴隷貿易を最初に始めたのはポルトガル。インドへの航路を開拓しようとアフリカ西岸を南下する途中に貿易の拠点を設けましたが、その“取り扱い商品”の一つが奴隷でした(その最初の記録は1441年のもの)。はじめは武力で奴隷を獲得していましたが、これは自分の損害も多いため、やがてアフリカ社会内部の奴隷を“平和的”に獲得する方向に変わっていきました。入手された奴隷は、アフリカで他の商品(たとえば金)と交換されたり、リスボンに輸送されてそこからヨーロッパ各地に売られたりしました(16世紀半ば、リスボンの人口は10万人でしたが、その1割が奴隷だったそうです)。15世紀後半から16世紀にかけては、新世界ではなくて旧世界の方が「奴隷社会」だったのです。これを明らかにしたのが「各国の公文書館に残された奴隷船の記録をすべて調査する」という国境を越えたプロジェクトです。もちろん「記録に残っていない(あるいは記録が失われた)奴隷船」もあるから、これは「完全な数字」にはなりません。しかし、「実際にはどうだったのか」の議論のたたき台にはなるでしょう。というか、こういった調査をせずに議論をしてもそれはそれこそ「机上の空論(信念の押し付け合い)」になるだけです。そこで早速わかったのが、これまでの通説「奴隷貿易はイギリスが主にやっていた」がひっくり返って「スペインやポルトガルの方がたくさんおこなっていた」。スペインは、「スペイン人」がやるのではなくて他国民にやらせていた、なんてこともわかっています。
 新大陸では、ヨーロッパからもたらされた様々な疫病によって人口が激減しました。それはすなわち「現地での労働力の減少」で、それが「アフリカからの黒人奴隷」への需要を増すことになりました。そのため、民間の独立業者もこの“美味しい商売”に参入してきました。
 奴隷船はつまりは「移動監獄」です。297トンとやや大型の奴隷船ブルックス号は600人くらいの奴隷をぎっしりと詰め込んで航海していましたが、2箇月の航海中での奴隷の死亡率は3〜14%と記録されています、ブルックス号の4回の航海が終わった1788年ニドルベン法が制定され「1トンあたり奴隷は一人以下」と規定されました。それを守った状態でも奴隷は船内にぎっしり詰め込まれていました(図解があります)。実際には法律違反の過積載は当たり前だったわけで、奴隷が「人」ではなかったことがよくわかります。男性奴隷は手首と足首を鎖につながれた状態で中腰にしかなれないせまい空間に、女性と子供の奴隷は鎖につながれてはいませんでしたが、乗組員の性欲の対象になる危険性が常にありました。船員は通常の貿易船の倍くらい。奴隷の監視や他の奴隷船や武装船からの襲撃に備えていました。奴隷船内部の状況については、映画『アミスタッド』(1997年、スティーブン・スピルバーグ監督)で映像化されています。
 自由を奪われた人間は、抵抗します。統計的には、10航海で1回の蜂起があり、蜂起1回の平均死者数は25人だったそうです。しかし、異なる地域・部族・言語がごちゃ混ぜにされた集団ですから、「叛乱を起こそう」と相談をするのも大変だったでしょう。それでもこれだけの蜂起が起きていたのは、驚きです。
 1771〜72年にかけて、北米で購入され英国に連れてこられたサマーセットという奴隷の身分に関わる「サマーセット事件」の裁判が行われました。サマーセットの弁護士は「英国には法的な奴隷制度は存在しない。英国に『サーヴァント』は雇用労働者しか存在しない。従って、入国した『奴隷』はただちに自由人となる」と主張しました。対して所有者側の弁護士は「英国内でサマーセットは自由だが、『サーヴァント』である以上『マスター』の支配権は残る」と主張。首席裁判官マンスフィールド卿は「サマーセットは釈放されるべき」と判決を下します。マンスフィールドは「英国に奴隷制度は存在しない」とは言わなかったのですが、世間は「裁判所は奴隷制度を否定した」と受け止め、それが定着します。さらに「ゾング号事件(船内で疫病が流行し、生きた奴隷を集団で海に放り出して殺した)」が「奴隷船の残酷さ」を世界に知らしめます。かくして奴隷反対運動が始まります。ただ「私有財産」である奴隷禁止は、民法に抵触するので、まずは「奴隷貿易廃止」が目標とされました。18世紀に運動の中核となったのはクウェイカー教徒で、奴隷はキリスト教の精神に反すると「人道主義」を掲げました。イギリス国教会でも別の考え方から奴隷制に反対の人が増えます。しかし「昔から行われてきた」「イギリスだけ奴隷をやめたら砂糖などの生産コストが上がり、奴隷を使っている他国を利することになる」などの意見も強く主張されます。
 このへんの複雑な議論を読んでいると、「奴隷制に賛成の人間は一度奴隷になってみること」と規定したら簡単なのに、なんて私は過激なことを思ってしまいます。
 フランスでは革命が進行中、それを受けてハイチでも革命が進行中、というけっこう危うい国際情勢の中、イギリス下院でついに「奴隷貿易の漸進的禁止」が可決されます。ただこれは上院で否決されました。しかし奴隷制廃止派はあきらめません。「正義」と「経済」の両面の理論武装を少しずつ強化していきます。そして1806年、奴隷貿易廃止の法案がイギリス国会を通過します。各国は少しずつその流れに加わっていきました。貿易禁止で新規流入がなくなれば、奴隷の処遇が改善され最終的には奴隷はいなくなる、と奴隷制廃止派は期待しましたが、現実はなかなかそうはなりませんでした。「奴隷の子は奴隷」である限り、死亡率を抑えれば奴隷人口は維持できるのです。「奴隷制廃止派」は「貿易廃止」から「制度廃止」に方針を変更、「生まれながら奴隷であること」に疑問を持つようになった人たちによる叛乱、イギリスではカトリック教徒にも市民権を与えるように法が改正、などが複雑に絡み合い、プランテーションの所有者に政府が補償金を支払うことを条件に「奴隷制廃止法」が1833年に成立しました。
 アメリカ南北戦争当時、奴隷制に執着していたのは民主党で、それを廃止しようとしていたのが共和党、というのは、なんだか不思議な気がします。ただリンカン大統領は奴隷制廃止に熱心だったわけではなくて、連邦維持が最優先でそのための手段として奴隷制廃止を持ち出したのだそうです。政治というのは、何ともわかりにくいものだと思います。
 さて、奴隷制は「過去の話」でしょうか? ケビン・ベイルズは『グローバル経済と現代奴隷制』(1999年)で、債務奴隷などの形で全世界に「奴隷」は少なくとも2700万人存在し、先進国もその例外ではない、と述べているそうです。もちろん日本にも昔とは形を変えた「奴隷」(かつての「人間所有」ではなくて、使い捨てにされる「人間支配」)が多数存在しているそうです。