【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

今川氏は滅亡したか?

2020-11-23 08:38:53 | Weblog

 桶狭間の戦いの後、今川氏はさっさと滅びた、なんてことを私は思っていましたが、NHKの大河ドラマ「おんな城主直虎」では今川氏真がしぶとく生き延びていて、織田信長の前で蹴鞠をしてみせる、なんてシーンがあって「あら、今川は滅亡していなかったんだ」と驚きましたっけ。そういえば「本能寺」のあと、織田信長の弟の一人は織田有楽斎として生き延びていましたっけ(武将としてより茶人として有名で、「有楽町」の地名の由来だそうです)。「歴史」に無視されても、有名人の一門の人たちは生き続けていくもののようです。

【ただいま読書中】『今川氏滅亡』大石泰史 著、 KADOKAWA(角川選書)、2018年、1800円(税別)

 著者はまず「国衆」に注目します。戦国大名は「中央集権」ではなくて地方豪族である国衆の連合体をまとめる立場だった、と。それを改革したのが織田信長でしょう。彼は国衆を根こそぎ「領地」から引きはがしてしまいましたから。すると、戦国大名を研究するにあたって、国衆の研究は避けて通れないことになります。
 今川氏は足利氏の一門です。系図を遡ると鎌倉時代前期の御家人足利義氏に到達するそうです。室町幕府によって駿河や遠江の守護職を与えられたり奪われたり、なかなかややこしい権力闘争が行われています。その過程で、井伊氏や松平氏といったおなじみの名前も登場します。
 今川家当主の氏輝とその後継者と目されていた彦五郎が同日に急死する、という不思議なことの直後、出家していた栴岳承芳(氏輝の弟、後の義元)と義元の庶兄玄広恵探の間で「花倉の乱」が発生、家督を継いだ義元は自身を後援してくれていた北条家と手切れをして武田信虎の娘と婚姻します。怒った北条氏綱は出兵、「河東一乱」が起きました。武田信玄による父信虎の追放にも今川家が関わっていて、武田家の仲介で今川と北条は和解することになります。
 北と東がふさがっている今川が目指すは当然、西。三河侵略を始めますが、大義名分は「援助を求む」の三河の国衆。ところが尾張の織田信秀も三河に手を伸ばします。なかなか厄介な相手です。三河衆としては、ナチスドイツとソ連に東西から同時に侵攻されたポーランドと同じような気分だったでしょう。さらにそれぞれの“背後”の安全を固めるために、今川・武田・北条の三国同盟が結ばれます。
 本書では「発給された文書」が重視されています。一次史料です。ただ、戦国時代に文書がどこまで保存されたか、偽書の可能性は、とか考えると、なかなか確定的なことは言いにくい。それでも視野を広く保って文書を見ていけば、「歴史の一断面」は見えてくるようです。私は一般的な戦国もので育ったので、ついつい「今川」は「桶狭間」でだけ(つまりは織田信長の敵役として)見てしまいますが、今川には今川の苦労があって、そう気楽に出兵したわけではないようです。そもそも出兵の目的も「西三河の安定」「尾張への領土拡張」「伊勢・志摩まで進出」「上洛」と各種の説が唱えられています。
 本書後半部の主人公は今川氏真です。桶狭間で義元を失った今川家ですが、それでも駿遠両国は落ちついていました。しかし永禄四年(桶狭間の翌年)松平元康が離反、武田・北条との三国同盟維持のために今川は東方に兵を派遣しなければならなくなり、三河国内は「三州錯乱」と呼ばれる渾沌状況になってしまいます。永禄六年には遠江で今川に対する挙兵が相次ぎます(遠州忩劇(えんしゅうそうげき))。その先鋒となったのは井伊氏でした。3年かけて遠州忩劇を鎮めた氏真は、何を思ったのか上杉謙信と交流を始めます。信玄はそれに対して駿河への侵攻で応えます。信玄から逃げて掛川城に入った氏真を攻めたのは徳川家康。家康は氏真が北条に亡命するのなら命を保証することを約し、かくして「今川氏滅亡」が始まります。氏真の正室は北条氏康の娘だから、実家を頼った、ということでしょう。しかし氏康が死んで後を継いだ氏政が武田と和睦したため居場所がなくなった氏真は、こんどは徳川家康を頼ります。こう書くと、まるで「どんどん落ちぶれていくバカ殿」のようですが、実は氏真は「徳政令」「楽市」「用水開発」などの“善政”も行っていました。三河を失っても駿遠をきちんとまとめようとしていたのです。しかし、「自分の一族のサバイバル」を優先する国衆の中から今川から離れるものが続出。弱ったところに、武田と徳川が侵攻してこんどは今川が「ポーランド」になってしまいました。
 今川氏真を「ダメ大名」と評する向きは多いのだそうです。その根拠が「今川家を滅亡させた」「信長の前で蹴鞠をして見せた」だそうですが、「家」を滅ぼしたのが「ダメ」の根拠だとすると豊臣秀頼も「ダメ大名」ということになりますよねえ。彼をそこまでくさす向きは少ないようですが。また、著者は「当時の大名にとって、蹴鞠は“大名のたしなみ”の一つだった」と文献を挙げて“反論”しています。まあ、だからこそ信長が蹴鞠に興味を持ったわけでしょう。
 ちなみに今川氏真の子孫は江戸・明治までは追跡可能だそうです。今川氏は滅亡はしていないようです。