【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

空から

2020-11-17 07:29:34 | Weblog

 高校時代「登頂の価値」で友人と議論になったことがあります(というか、高校時代は何でも議論のネタでしたが)。そのときには「ヘリコプターでエヴェレストの山頂に降り立ったら、それは『エヴェレストの頂上に立った』と言えるか」がお題。物理的にはたしかに足は頂上を踏んでいますが、逆に、「頂上以外」は踏んでいないわけで、それで「登頂した」と言えるか、という“問題”です。
 そうそう、もう一つ問題がありました。エヴェレストの山頂まで飛べるヘリコプターが存在するのか、という現実的な問題が。なにしろあそこはジェット旅客機が飛ぶ高度なのですから。

【ただいま読書中】『空へ ──エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか』ジョン・クラカワー 著、 海津正彦 訳、 文藝春秋、1997年、1762円(税別)

 「エヴェレスト」は、かつては神の領域、ついで最高級の英雄のためのもの、やがて優れた登山家のもの、となっていきましたが、1985年にテキサスの富豪でクライミング経験などろくに無いディック・バスが優れた若手登山家をガイドとしてエヴェレスト登頂に成功してからは「営利事業の場」になりました。多くの私企業が「ガイド登山」を売り物にするようになったのです。私は子供のころに「そこに山があるからだ」の言葉に出会って心が震えましたが、今は札束で山の横っ面をはたく時代のようです。
 1995年著者は雑誌社からガイド付きエヴェレスト遠征隊に同行取材するよう勧められます。そこで著者はトレーニングを始めます。エヴェレストの頂上に立つために。
 ネパールは登山料に経済を依存するようになっています。そしてシェルバ族も登山隊に経済的に依存しています。著者はガイド付き登山隊に参加することで、その姿をまざまざと見ることになります。
 ヘリコプターでひとっ飛び、長い長いトレッキングの最初の3週間分を省略して、そこから高度順化をしながらのトレッキングが始まります。道々見える峻厳なヒマラヤの姿は、冒険であろうと商業的な登山であろうと、変わりは無いはずです。
 高度5000mを越えた場所にあるベースキャンプには、人が溢れていました。著者が参加した登山隊は、シェルパも含めて25人の大所帯でした。しかも、他の国(あるいは多国籍)の登山隊も複数存在していたのです。この状況を、「商売」によってエヴェレストが汚されると嫌う人もいますが、「持続可能な商売」を目指す人びとは「シェルパ族を大切にする」「ゴミや排泄物は持ち帰る」などの活動もしていました。だからベースキャンプの「環境」は20世紀後半よりも改善されているはずです。
 斜面の固定ロープや氷河の割れ目に設置されたアルミ梯子といった“有料道路”(実際に使用するのは有料です)を使って、登山隊は高度順化を繰り返します。ただ“有料道路”を使って楽をしても、実際に身体を動かすのは自分の脚、そこに酸素を供給するのは自分の肺と心臓です。きついです(ベースキャンプの高度でも酸素分圧は海面高度の半分です)。そして、非営業登山隊(ガイド付きではない、自力で登ろうとする古いタイプのもの)の中には明らかに経験不足力不足のものがいくつも混じっていました。真剣に山に取り組む(そのための方便としてガイドを使う)人も多くいましたが、山を危険なくらい甘く見ている人間も多数終結していたのです。特にこの時の未熟な台湾隊と傲慢な南アフリカ隊について、著者は不安を隠しません。さらに、一本のルートに50人くらいが取りついて“交通渋滞”を起こします。最終的に著者と同じ日に「サウス・コル」から頂上にアタックを始めたのは、33人。追い抜きもすれ違いも難しいのに。そして、あちこちで小さな“齟齬”が生まれます。それ自体は大したことがないもののように見えますが、それが集結すると「悲劇」になることがあるのです。
 著者は頂上に立ちますが、酸素が切れてしまいました。そのため著者の判断力や記憶力はひどく鈍ってしまいます(その記憶の混乱があるため、「悲劇」について正しい判断ができていない可能性があることを著者自身が認めています)。空は快晴でしたが、天気は一気に下り坂に。人びとはあわてて下山を始めます。著者はもうろうとした頭で単独で下り続け、ブリザードの中、何とか第4キャンプにたどり着きます。しかし、無事たどり着けない人もいました。あるいは、たどり着けてもそのまま死んでしまった人も。結局この日登った人から、12人の死者が出たのです。その中には日本人も含まれています。
 著者はなるべく多くの人にインタビューを行い、それぞれの記憶を付き合わせます。その中には、自分の記憶と合わないものも多く含まれていました。それは、相手の記憶が違っているのか、あるいは、自分の記憶が? さもなければ両方とも間違っている? 実際にエヴェレスト頂上で何が起きたのか? それを追究する試みは、著者にとっては「自分の不注意が、誰かを殺したのかもしれない」という恐ろしい疑いを持たせることにもなっていきました。
 かつてヒラリーが向けられた質問「なぜあなたは山に登るのですか?」を、商業登山が行われるようになった今、別の文脈で登る人は向けられなければならないのでしょう。

 



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