【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

良い天気

2020-11-25 07:17:31 | Weblog

 雨が降ったら私はついつい「天気が悪い」とがっかりしてしまいますが、過度の晴れは干ばつになるけれど、適度なお湿りは農業のためには良いことです。すると「天気の良し悪し」って、何?

【ただいま読書中】『きょうも上天気』浅倉久志  訳、 大森望 編、角川書店(角川文庫)、2010年、629円(税別)

目次:「オメラスから歩み去る人々」アーシュラ・K・ル・グィン、「コーラルDの雲の彫刻師」J・G・バラード、「ひる」ロバート・シェクリイ、「きょうも上天気」ジェローム・ビクスビイ、「ロト」ウォード・ムーア、「時は金」マック・レナルズ、「空飛ぶヴォルブラ」ワイマン・グイン、「明日も明日もその明日も」カート・ヴォネガット・ジュニア、「時間飛行士へのささやかな贈物」フィリップ・K・ディック

 「翻訳者」に注目して編集された短編集です。私は青春時代からこの訳者にずいぶんお世話になったと思っていましたが、たしかにこの本のラインナップを見ていると「やあ、お久しぶり」と言いたくなる作品ばかり。
 私は「SF作家の作品」を読んでいた、と思っていたのですが、実は「翻訳者の日本語」を読んでいたわけです。カート・ヴォネガット・ジュニアは大学教養課程の課題で原文でペーパーバックを何冊か読みましたが、やはり日本語で読む方が楽ちんです(ちなみに当時はまだ翻訳が少なくて、ズルができませんでした)。
 各短編はそれぞれ有名なものですから内容については触れません。ただ、若い頃に読んだときと大きく印象が変わったものもあります。その代表は『オメラスから歩み去る人々』でしょう。初めて読んだのは大学生の時だったと思いますが、その時には「ふーん」程度だったのが、今では「なんじゃ、こりゃ!」の衝撃を感じます。ル・グィンはやっぱりすごいや。

 


どこに行く?

2020-11-25 07:17:31 | Weblog

 「GoTo」キャンペーンが日本経済へのカンフル剤、と政府は言わんばかりでしたが、「人を動かさずに経済を回す」方策を示すのが「ニュー・ノーマル」の対応策でしょう。もちろん、コロナ禍が落ちついたときにホテルが全滅、というのは困りますから、たとえば各地の観光協会に一時交付金とか有利な貸付金(もしかしたら返済不要になるかも、というお金)をざらっと配って「これでなんとか1年耐えていてくれ」と延命策を手当てして、経済を回すのは人を動かさずに、の政策を別に具体的に示した方が、結局「トータルで日本が蒙る損害」は少なくなる、と私は考えています。今の「GoTo」は「JTBを潰さないためには、日本国民が少々死んでも良い」と言っているように私には見えます。「GoTo」の“目的地”は「JTBを潰さない」ではなくて「日本を潰さない」ではないんですか?
 ちなみに「カンフル剤」は、病気は治しません。弱った心臓を一時的に無理やり元気にするだけで、それは結局「死に馬に鞭打つ」になる危険性が大です。

【ただいま読書中】『東京オリンピックへの遙かな道 ──招致活動の軌跡1930-1964』波多野勝 著、 草思社、2004年、1600円(税別)

 NHKの大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺」を思い出しながら読むと、“立体的”に楽しめる本です。
 1929年の年末、ロサンゼルスオリンピックに参加するにあたって日本水連では「予選を複数回行う」「合宿を行う」などのスケジュールをあらかじめ決定しました。世界ではロンドン軍縮条約が締結される直前で、「平和な時代」の一つの象徴として日本では空前の「スポーツ・ブーム」が到来していました。そして1932年ロス大会で日本水泳界はアメリカに圧勝します。それを受けてアメリカでは、「日本水連と同様の組織を作る」「オリンピックのための50mの練習プールを建造する」「若手選手を強化する」といった「日本に学べ」の方針が決定されます。
 しかし、1931年には満州事変、33年にヒトラーが首相に就任。
 オリンピックの視点ではヒトラーは面白い存在です。彼は首相就任当時はオリンピック開催に反対していました。しかしゲッペルス宣伝相の進言を受け入れてオリンピックに積極的になったのです。もしベルリン大会がなければローマ大会となりその次の第12回大会が東京になるかもしれない、と期待していた日本人はがっかりします。
 ベルリン大会は「ナチスの大会」で、聖火リレーがはじめて行われ、記録映画「民族の祭典」「美の祭典」が注目されました。そして「前畑がんばれ」。
 「東京オリンピック招致」はその数年前から始まっていました。しかし日本国内でも積極派と消極派が延々と議論をしていて話がまとまりません。難点は「スポーツの中心地ヨーロッパから日本は遠い」こと。さらにローマがすでに立候補を表明していました。しかし交渉するとムッソリーニは立候補を辞退してヒトラーと共に東京を支持。「三国同盟」です。なぜか英米も日本を支持して、ヘルシンキに競り勝って「東京!」となります。そう決まれば日本中はお祭り騒ぎ。しかし、体協が東京市を無視して準備委員会の人選を進め、東京市長が激怒。こういった内部のドタバタは、戦後の「東京オリンピック」の時にも繰り返されたそうです。「お山の大将」が集まるとどうしてもこういったことが起きるようです。さらに軍部は「欧米スタイルのスポーツ」ではなくて「質実剛健」「建国二千六百年に行う特殊の意義に鑑み国民精神の発揚と古今諸文化の示現に留意」を求めます。さらに1937年に盧溝橋事件から日中戦争。戦時体制となり競技場などの建築資材は入手困難になり、国内では「このような時局に若者が運動に熱中しているとはいかがなものか」、国外では日中戦争に対する反発が広がり不参加を考える国が増えます。結局東京は辞退。代替とされたヘルシンキ大会も戦火に飲まれて中止となりました。
 敗戦国にも希望の星がいました。古橋広之進です。1942年浜松二中の時に県大会で新記録をマーク、勤労動員で左手中指を第二関節から切断するという選手生命に関わる怪我をしましたが、45年に日本大学に入学、全日本選手権の400メートル自由形で優勝していました。
 戦後最初のオリンピックは、1948年のロンドン大会。IOCの理念は「政治とスポーツは別物」ですが、戦勝国イギリスでは独日に対する拒絶感が強く(イタリアは友好国扱いでした)、日本水連はロンドン大会の期間中に同じ日程で全日本選手権大会を開催します。そこで古橋と橋爪が世界記録を出したことは、日本国内では有名ですね。
 日本水連は1949年に国際競技連盟に復帰、他の競技もそれに続いて国際競技連盟に復帰しました。日本水連はすぐに全米屋外水泳選手権に選手を派遣することにします。障害は様々ありますが、国内国外の多くの人の協力で選手派遣が実現。その出発前にスポーツ好き(1928年のアムステルダム大会でアメリカ選手団長)のマッカーサーは「みじめな負け方をするな。アメリカ選手をやっつけてこい」と日本選手を激励しました。サツマイモで食いつないでいた日本選手達は、ロサンゼルスでは飯におかずがつくことに大喜び、そのおかげか10個の世界記録を出しました。こうして古橋は「フジヤマのトビウオ」になったのです。驚いたのは、アメリカのマスコミの対応です。大会前には日本選手団を「敵」扱いしていたのが、活躍をするとそれを素直に評価して驚嘆の声を上げ、一夜で評価を逆転させたのです。そして、52年のヘルシンキ大会に日本選手団は久しぶりに参加をします。
 平和な世界でないと、オリンピックは開催できません。では逆に「オリンピックを開くために世界に平和を」と言うのはどうでしょう。オリンピックでは“動機”としては弱い? でも、どんな動機でも「平和」のためだったら使えるものは使いたい、と私は思います。