【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

光の形と闇の形

2015-08-21 07:19:32 | Weblog

 光にも闇にも「形」はありません。そこに存在するだけです。ただ、闇の中に一筋の光、は存在できますが、光の中に一筋の闇、は存在しないようです。一体何が違うのでしょう?

【ただいま読書中】『陰陽師 付喪神ノ巻』夢枕獏 著、 1997年、文藝春秋、1238円(税別)

 シリーズ第3巻です。前2巻とは違って、本巻の作品はほとんどが「オール読み物」に発表されています。文藝春秋が本気になった、ということでしょうか。
 相変わらず
》「ゆこう」「ゆこう」そういうことになった。
であちこちに出かけては平安の妖異と出会い続ける安倍晴明と源博雅の名コンビですが、本巻ではついに、当時の文化的ビッグイベント「村上天皇の歌合わせ」がまともに取り上げられます。ただしその後日談ですが。しかもこの話ではお決まりのフレーズである
》「ゆこう」「ゆこう」そういうことになった。
が物語の発端ではなくて、物語の締めとして効果的に使われていることが印象的です。私はこの歌合わせには興味があるので、楽しく読めました。コミックの方の歌合わせのシーンも、豪華で壮大なイメージが重ね合わされていてとても魅力的なんですけどね。
 後書きを読むと、著者は本シリーズを“原作”としてコミック化した岡野玲子さんを非常に意識しているようです。なにしろ「原作」からみごとに別の世界を築き上げていますからねえ。あれはあれでまたとんでもなく魅力的な本なのです。「陰陽師」の小説とコミック、どちらが好きか、ともし自問したら、私は答えに窮してしまいそうです。この問いに、源博雅だったら真面目に悩んで絶句しそうですが、安倍晴明だったら「どちらでも良いではないか」とか「どちらも呪だ」とかさらりと言ってしまいそうです。
 そうそう、「池」が「汝」になっていたりの誤字や文章の通りが悪いところがありました。文庫本では直っているかな?


ベールは禁止

2015-08-20 07:01:01 | Weblog

 イスラムの印であるベール着用は、フランスでは「宗教的行為の顕示は私的行為だから公共の場では禁止」というルールで禁止されているそうです。すると、十字架のアクセサリーを身につけることも、フランスの公共の場では禁止されるのでしょうか?

【ただいま読書中】『言葉と爆弾』ハニフ・クレイシ 著、 武田将明 訳、 法政大学出版局、2015年、2800円(税別)

 著者は、父がインドからやって来たパキスタン人の移民・母がイングランド人です。そのため、混血児であり移民の子でありさらにイングランド人である、という社会的には複雑な扱いを受けながら育ったことが想像できます。それを逆に言えば、著者が複合的で複雑な視点を持っている可能性が大きいということになります。
 イギリスでイスラム移民の子供がイスラム原理主義に傾倒する傾向があることは、けっこう前から指摘されていたそうです。それはなぜでしょう? 著者は、「テロ」「テロリスト」そのものにだけ注目するのではなくて、それを“育む”近代西洋文明そのもの(あるいはその崩壊)にも注目するべきだ、と本書のエッセイと小説で言っているようです。ただし、紋切り型の「これが正論だ」ではありません。1986年の『虹のしるし』から2005年ロンドン同時爆破テロに関して「ガーディアン」紙に寄稿した記事まで、著者の思考がどう変化(あるいは進化)したかの記録でもあります。
 1950~60年代に「怒れる若者たち」という言葉がありました。ところが彼ら(白人)と同じ行動をパキスタン移民の子が取った場合には「パキのテロリスト」と呼ばれます(「パキ」とは、日本人に対する「ジャップ」と同様のパキスタン人に対する人種的蔑称です)。ロンドンで生まれ、父の母国であるパキスタンよりはイギリスに愛着を覚え、ピンク・フロイドやビートルズを聴いて育った著者は、「社会の劣等民族」扱いを受けネオナチ的な政治家の言葉とそれに賛同する社会に脅威を感じます。そこで著者は、単に暴れるだけのテロリストにはなりません。じっと観察し、差別する者が、自分が差別し排除しようとしている人たちに自分自身の自己認識を依拠していることに気づきます。差別される側も、「西洋」には失望しています。しかし「帰るべき場所」はありません。だったら、今のイスラム世界を支配している腐敗した権力体制を一掃して「理想的なイスラム」を作ったら? これは、“裏返し”のシオニズムなのでしょうか。
 著者が“現場”で見ながら感じながら育ったのが、こういった「ISのテロリストを育てる素地」でした。しかし著者はテロリストにはなりませんでした。では、テロリストになる人とならない人がいるのは、なぜ? そもそもテロリストが育ちやすい社会は、どのようなもの?
 イスラム原理主義は徹底的に間違っている、と著者は考えます。しかし、それが育つ理由も理解できる、と述べています。理解はできるが賛同はしないわけです。
 私に言わせれば、いわば「敵」と「味方」が寄ってたかってテロリストが上手く育つように“協力”しているのです。これは実に皮肉な現象です。だって、良識のある人は誰もそんな結果を望んではいないのですから。望んでいるのは「自分の存在価値を示すために、社会にテロリストが存在していることが必要な人」だけでしょう。そういった人は「敵」にも「味方」にも存在しています。


あべノミクス

2015-08-19 07:11:42 | Weblog

 この2年間半、日本銀行はせっせとお札を増刷していました。
 まるで捻挫や骨折した人が痛みを訴えるたびに鎮痛剤を与えるかのように。
 だけど、ギブスを巻いて安静にしたりせずに痛み止めだけ飲ませて今までと同じ動きをさせていたら、傷んだ部分はくっつかず、痛みはいつまでも続きます。鎮痛剤の大量投与は、本当に「捻挫」「骨折」に有効なんでしょうか?
 私は、大量の薬の“副作用”がそろそろ出る頃ではないか、という嫌な不安を抱いています。
 ところで、昭和の時代の高度成長の再来って、本当に現在の日本で可能なのでしょうか。あの時には「異常な円安」「溢れんばかりの若年労働者」「社会全体にみなぎる物欲」という条件が揃っていました。今の日本にその条件が揃っているようには私には見えないのですが。

【ただいま読書中】『阿部一族』森鴎外 著、 岩波文庫(緑5-6)、1938年(2007年改版)、400円(税別)

 徳川家光の時代、肥後藩主の細川忠利が亡くなりました。殉死を許されたのは18名。忠利は殉死を望む忠臣たちを厳選したのです。当然殉死を許されるべき立場にもかかわらず殿の気まぐれからその選に漏れた阿部弥一右衛門は「腹も切れない臆病者め」という周囲の陰口に耐えかねて、追い腹を斬ります。ところが主君の許し無しの死ですから、法制上は新しい君主に対する不忠の行為(跡継ぎには忠を尽くさない、という主張)となり、阿部一族は、新藩主からは陰に日向に冷遇されることに。とうとう耐えかねた阿部一族は、武士の一分を見せるために屋敷に立てこもることに。これは藩に対する反逆行為ですから、討伐部隊が立てられ、殺し合い(一族皆殺し)が始まります。
 最初はほんのちょっとの感情の行き違いだったのが、坂道を転がる雪玉のように話はどんどん凸凹に肥大化し、最後には大きな悲劇が生まれることになりました。
 この話のキモは「家光の時代」ということでしょう。戦国時代だったら、個人の命よりは忠義が重視されます。それも主君に対する個人的な忠義が最重要。したがって、主君の許しがあるかどうかよりも「殉死するべき立場」かどうかを自分と周囲が勝手に判断すればよいのです。あくまで「個人的な忠義」なのですから。しかし徳川家光の時代は「すでに戦国の世は終わった」と宣言したくなる時代です。天下泰平の時代では「個人への忠義の印としての殉死」よりも「家の存続に対する組織的な忠義」の方が、明らかに重要です。しかしこの時代にはまだ戦国の気風は濃厚に残っています。そのミスマッチが阿部一族の悲劇を生んだ、ということなのでしょう。論理で「組織への忠義」を納得していても、感情で「個人的忠義」を重視する人は、「殉死するべき人が殉死しない」ことが感情的には許せず、しかし論理的にはそれを表だって言うことはできず、結局陰口をきいて回ることになります。そしてそれを聞かされる方もまた論理と感情の間で引き裂かれることになったのです。
 もう一つ私が見つめるのは、森鴎外が生きた時代です。森鴎外が活躍したのは、「戦国→天下泰平」ではなくてその逆の「天下泰平→(国際的な)戦乱」の時代でした。ここでは、家光の時代とは逆の価値観のパラダイムシフトが必要となっています。
 明治政府は、職業軍人としての武士を廃止し、徴兵制を敷きました。かつての武士の時代には「個人の命<忠義」で簡単に「イエのために死ね」と言えました。その“見返り”が領地(あるいはその武士のイエ)の安泰です。ところで徴兵制だと、簡単に「死ね」と言うためには「個人の命<天皇への忠誠」という価値観の確立が必要です。しかしその“見返り”は? 森鴎外がそのような問題意識を持ってこの作品を書いたかどうかはわかりませんが、この作品を明治の末(~大正の初め)に書いた意味に私は興味を持っています。時代が変わることは、社会の価値観が変わることを意味しています。そのことは意識していただろう、と。
 蛇足ですが、「個人の命<天皇への忠誠」の場合、個々の兵士の処遇は悪ければ悪いほど、扱いが軽ければ軽いほど“良い”ことになります。だって個々の兵士の待遇をよくしたら「個人の命」が重くなってしまって「天皇への忠誠」が相対的に軽くなって「<(不等号)」が成立しにくくなりますから。これが志願兵の軍隊だったら、「軍人」は「選択可能な職業の一つ」となり市場原理が機能しますから、待遇は良くなる、というのは、先日読書した『安全保障学入門』に書いてありました。「個人の命の軽視」という点は共通していますが、自分の子孫のためにイエと領地が安堵されていた昔の武士の方が“扱い”は良かった、ということなんですかねえ。


鯨愛好家

2015-08-18 07:32:18 | Weblog

 「鯨が好きっ!」と言う人は、みごとに二種類に分かれます。
1)鯨の肉が大好きだから、食べたい。他人が食べるかどうかはどうでもいい。
2)生きている鯨が好きだから食べるなんてとんでもない。他人にも食べさせたくない。

【ただいま読書中】『陰陽師 飛天ノ巻』夢枕獏 著、 文藝春秋、1995年、1165円(税別)

 シリーズ第二巻です。第一巻と同様、初出の雑誌はバラバラです。百鬼夜行などの怪異そのものや、そういったあやかしをめぐる人間模様の謎解きが気持ちよく描かれています。
 後書きを読んで驚いたのですが、岡野玲子さんのコミック版は、第一巻だけを材料として書き始められていたのですね。で、コミック版が3巻めになろうとしているので、それに追いつかれないように、と夢枕さんも頑張って書いているのだそうです。

 ところであちこちに登場する
》「ゆこう」
 「ゆこう」
 そういうことになった。

 というお決まりの文章がなんとも良いリズムです。安倍晴明と源博雅の名コンビは、なんとも絶好調で平安の闇の中をしずしずと歩んでいます。どこに「ゆこう」としているのか、それは誰にもわかりませんが。


ルポの価値

2015-08-17 07:04:58 | Weblog

 あるルポルタージュが優れているかどうかは、いかに刺激的な題材をいかに名文で綴るか、ということで決まるのではありません。ルポの対象である「現実」を読者の「現実」にいかに強く結びつけることができるか、で決まります。そして、その時使われるのは、著者の「言葉」だけではなくて「人としての思い」でしょう。

【ただいま読書中】『ローマ法王に米を食べさせた男』高野誠鮮 著、 講談社+α新書、2015年、890円(税別)

 石川県のコスモアイル羽咋の責任者として仕事をしていた著者は、NASAとの繋がりを評価されて経済産業省から愛・地球博の手伝いを依頼されます。ところがそれが上司の逆鱗に触れて、訓告処分となり、農林課に“飛ばされ”ました。それまで「UFOでまちづくり」をやっていたのが、こんどは農林課です。赴いた神子原地区は、限界集落でした。高齢化率は57%、平均年収は87万円。著者に新しい市長から与えられたのは「過疎高齢化集落の活性化」「農作物を1年以内にブランド化」というテーマでした。そこで著者は「集落」を「人体」に見立てます。すると「活性化」は「リハビリ」に、「血液」は「貨幣」となりました。さらに「一部の痛み」が「全体(特に役所)」に伝わらないことが大きな問題だ、と。人体だったら一部の痛みは全体で共有されるのですから。すると「地域おこし」だけではなくて「役所おこし」も必要になります。会議をするだけで満足する役所ではなくて、行動をする役所です。著者が請求した予算は60万円。自分自身も追い込んでいます。さらに、稟議書を回したり根回しをしたりは一切無し。即決で著者が決断して、事後承認をもらいます。これは役所に多くの敵を作るやり方です。「俺は聞いていない」とか、根掘り葉掘り質問だけするが理解も決断もしない人が役所の中にはてんこ盛りですから。しかし著者は、市長と農林課の直属上司という力強い味方を得て、ほぼ自由に動きます。
 まずは「対症療法」。若い家族を、空き家・空き農地に受け入れるプロジェクトです。ただし、「お客さん」ではなくて、本気で集落の一員として農業に取り組む人が欲しいのですから、選抜試験を行いました。地区の人が面接をするのです。予算60万円ですから行政はお膳立てだけ。
 次に「希望小売価格」の導入。これで著者は四面楚歌になります。JAはもちろん、農家も「そんなことができるわけない」の大攻撃。それでも3家の賛同があり、著者は自分で米を売り歩くことにします。棚田のオーナー制度(3万円の料金で、田植えと稲刈りを都会の“オーナー”が行い、あとは地元の農家が他の世話をする。収穫後40kgの玄米をオーナーは得ることができる)では、外国の通信社に著者は情報を流し、それで興味を持ってわざわざやって来たイギリスの領事館員をうまく「オーナー第1号」としてゲット。これが大ニュースとなってオーナー希望者が殺到します。さらに学生の農業体験も。最初の条件は「酒が飲める女子大学生」。いやもう深慮遠謀というか抱腹絶倒というか、著者の発想はみごとに飛んでいます。これでは「常識にしがみつくしか取り柄がない人間」には理解されない、あるいは敵視されるのは当然かもしれません。
 神子原のコシヒカリは「全国の美味しいお米ベスト10」で3位に選ばれたことがあるくらいの“実力”を持っていました。しかしまったく宣伝をしないので無名の存在です。そこで著者は「効果的な宣伝」を考えます。著名人に食べてもらおう、と。まず売り込んだのは宮内庁。しかし天皇が食べる米は献穀田からと決まっていて、ダメ。そこでプランB。「神子原」を英語に訳すと「神の子(キリスト)のおわす高原」ですから、著者はローマ法王に手紙を出します。プランCは「米の国」は米国でアメリカだからアメリカ大統領に。なにしろ期限は1年ですから、手段を選んではいられません。そこへローマ法王庁から連絡が。著者は市長に言います。「明日東京のローマ法王庁大使館に一緒に行ってください」。市長の明日の予定はすべてキャンセル。副市長は激怒。しかし正式に法王への献上物として受け入れられ(法王はライスコロッケで食べたそうです)、神子原米がすごい勢いで売れ始めます。(なお、日本人から法王への献上品の一覧があって、その最初は織田信長の屏風だそうです)
 市役所の電話は、「ローマ法王御用達米」の問い合わせと注文で鳴り続けます。JAだと1俵1万3000円こちらだと4万2000円。それまで著者に「馬鹿なことを言うな」と強硬に反対し続けていた農家も、一等米を出してきます。
 著者は、米の食味測定として、JAの米穀検査や食味測定装置を「非科学的」と評して排します。そのかわりに採用したのが、人工衛星による測定。アメリカではワイン農家が土壌測定にふつうに使っているのだそうです。高度450kmから近赤外線を当ててその反射波を分析することで米のタンパク含有量などを非破壊的に測定します。農薬飛散や河川情報もわかります。それも、とってもお安く。この「お安く」の部分でまた私は笑ってしまいます。著者は本当に商売が上手だな、と。それと、コスモアイル羽咋で築いた宇宙との繋がりが生きてくることに私は驚きを感じます。
 この「商売上手」は、まだ市役所の臨時職員時代に青年団と組んでおこなった「UFOで町おこし」の時に鍛えられたようです。「1%でも可能性があるのなら、やってみよう」という態度で無駄撃ち覚悟でいろいろやってみる。黙って座って他人の批判か「失敗したら誰が責任をとるんだ」とだけ言う“批評家”なんか「実行あるのみの町おこし」には要らないのです。さらに、業者に頼らずに素人集団で仕切る。これにももちろん理由があります。失敗の可能性は高まりますが、金をかけずにノウハウの蓄積ができます。いやあ、著者の人生は、一見行き当たりばったりのようですが、実は首尾一貫しています。
 著者の視野は地球レベル、というか下手すると宇宙レベル。そして、感動よりも行動、と平気で言い切ります。公務員としてはもう定年だそうですが、公務員という枠を外したら、また何かとんでもないことをやらかしてくれるのではないか、と期待してしまいます。


知の巨人

2015-08-16 07:49:18 | Weblog

 ということは「知の小人」も存在するということに?

【ただいま読書中】『陰陽師』夢枕獏 著、 文芸春秋、1988年、1000円(税別)

 著者によると「平安時代とは、雅な闇の時代」なのだそうです。本書は、そのたおやかで雅で陰惨は闇の中を飄々と流れていった男の物語です。

目次:「玄象といふ琵琶鬼のために盗らるること」「梔子の女」「黒川主」「蟇」「鬼のみちゆき」「白比丘尼」

 まずここで笑っちゃうのは、初出雑誌が「オール讀物」が2編、あとは「SFマガジン」「週刊小説」「小説新潮」「小説奇想天外」と見事にバラバラであることです。
 それと、冒頭の「玄象といふ琵琶鬼のために盗らるること」。前に読んだときには読み飛ばしてしまいましたが、時代が村上天皇の天徳内裏歌合よりもあとになっています。岡野玲子のコミックでは第7巻でこの歌合が登場することを思うと、時系列が見事に編集されています。
 安倍晴明と源博雅のコンビは、「怜悧で非常識なイケメン」と「常識的で無骨な良い漢(おとこ)」という絶妙の組み合わせです。この二人が都を徘徊するあやかしと“対決”というか“対面”というか、まあ次々出会っていくわけですが、面白いのは二人ともあやかしを“差別”していないことです。博雅は人に害を為すものなら退治しようとしますが、晴明は生かそうとします。しかし二人ともあやかしの存在自体は当然のものとしている様子です。私だったら「あやかしが存在すること」自体に興奮してしまいそうですけどね。


「各国」の反応

2015-08-15 07:09:28 | Weblog

 目的がよくわからないアベ談話でしたが、ニュースで「各国の反応」として取り上げられていたのは、中国・韓国・アメリカでした。もちろん「反応が強い国」の代表ということなのでしょうが、「戦場となった地域」はこれだけではありません。たとえば、フィリピン・ベトナム・ビルマ・タイ・シンガポール・マレーシア・インドネシア……挙げていったら切りがありませんが、こういった国々のことを無視するのは、なぜ? 人でも国でも、静かにしているからといって、何も感じていなかったり何も考えていなかったり何も記憶していないわけではありません。きちんと「各国」を注視した方が良いのではないか、と私は感じています。

【ただいま読書中】『安全保障学入門』防衛大学校安全保障学研究会 編著、 亜紀書房、2003年、2500円(税別)

 「『安全保障』に明確な定義は存在しない」と断言するところから本書は始まります。これは困りました。人によって同じ言葉を言っても意味が違う可能性が大なのですから。
 国際政治学にはいくつも学派がありますが、それぞれが「安全保障」に違うことを言います。「リアリズム学派」は「国際システムはアナーキーで、軍事的な競争状態にある」から外敵から軍事力で安全を保証しようとします。「リベラリズム学派」は「軍事だけではなくて政治や経済など非軍事的側面も重視し国際協調で安全保障を」と主張します。「グローバリズム学派」は「地球全体を一つのシステムとして、国家を超越した立場でグローバルなシステムの確立を」と唱えます。
 冷戦時代のアメリカは、旧ソ連を「敵」としてリアリズム学派が主流でした。しかし冷戦終結によってアメリカの関心は非軍事的側面にも向くようになっています。あ、だから最近のアメリカは軍事面での下請けを日本にさせたいのかな。もちろん経済的・人的な問題もあるのでしょうが。
 自国だけを見ていたのでは安全保障にはなりません。国際政治の観点が必須です。国際安全保障体制は「覇権モデル」「勢力均衡モデル」「集団安全保障モデル」の3つ(とその亜型の「大国間協調モデル」「多国間協調モデル」)に分類されます。そういえば古代中国には「合従連衡」という「秦という超大国」を軸とした“国際”安全保障策がありましたっけ。「覇権モデル」は「帝国(または超大国)」を軸としたモデルです。「勢力均衡モデル」は複数の超大国あるいは列強のバランス重視。最後の「集団安全保障モデル」は、不当に武力を行使した国に対し他のすべての国が制裁を加えるシステムです。
 日本は超大国ではありません。すると日本の安全保障政策は、どこかの超大国にコバンザメのようにしがみつくか、あるいは集団安全保障モデルの一員として生きるか、のどちらかになりそうです。私としては集団安全保障が良いのではないか、と思えますが、もし本気でこのシステムで生きるのなら、たとえばアメリカがとち狂って理不尽な武力行使をどこかの国にしたら、他の国々と一致団結してアメリカに対して制裁を加えることになります。日本にその覚悟はあるのかな?


反知性主義とは

2015-08-14 07:10:04 | Weblog

 シャーロック・ホームズの前で「容疑者の自白さえあれば、証拠も捜査も推理も不必要だ。こいつが真犯人だと強い確信が自分に持てたら、自白さえ要らない」と主張すること。

【ただいま読書中】『火花』又吉直樹 著、 文藝春秋、2015年、1200円(税別)

 テレビで著者を見たことがあるのは一度だけ、「爆笑レッドカーペット」でジョン・レノンの「イマジン」をネタに無理な「イマジン」を客に強いるおかしさは静かな破壊力を持つものでしたっけ。ただ、私は本書で「作者」を読みたいわけではなくて「作品」を読むつもりなので、上記のことは頭から振り払ってページを開きます。
 売れない若手芸人徳永が、たまたま出会った「師匠」神谷。普段の生活から「漫才師」で、普通の顔をして普通のことを言うのは「ボケ」のとき、という、お笑い業界の外の人間にはとってもわかりにくい人です。いや、業界の人間にもわかりにくい(あるいは拒絶反応を惹起する)人でした。
 強烈な個性を誇る「師匠」ですが、その強烈さよりも私はその強烈さに破壊されない徳永の強靱さの方に驚きを感じます。本人はその“強さ”にまったく無自覚ですが。同時に連想するのが映画の「アマデウス」です。モーツァルトの才能を見抜き自分がそれに及ばないことを自覚するサリエリの立場を徳永が演じているのか、と。ただ映画と違うのは、『火花』では“モーツァルト”も“サリエリ”もまったく売れていないことですが。
 圧倒的な疾走感で行き当たりばったりのように走っていた物語ですが、最後はちょいと尻すぼみ。最初はきちんとかみ合っていた二人の会話が、それぞれの変容(あるいは変化の無さ)によって少しずつ不協和音が生じるようになっていくのを見るのは悲しいことです。そしてそれが破綻へと向かっているのですが、ただ、漫才師についての巨大な漫才の物語だったら、きちんと破壊的なオチをつけて欲しかったな、と私は無い物ねだりをしてしまいます。
 私はここで語られる若き漫才師たちの会話から、ずっと昔の文学青年たちの熱い議論のことを連想していました。過敏なくらいの感覚の鋭敏さ、無神経と紙一重の無邪気、思いと直結する行動、自分でもコンロトールできない破壊衝動、永遠に満たされぬ欲望など、共通点がやたらと多いと感じたのです。というか、むかし文学青年をやっていた層の人たちが現代では音楽や映像やお笑いの世界にたむろしているのかも知れません。ただ、文学の場合には「読者との関係」は「本が売れるかどうか」というけっこうな遅延反応ですが、お笑いの場合には「その場で客の笑いが取れるかどうか」という残酷なまでの直裁的な反応であることが違います。これはおそらく“ネタ”を仕上げる過程に大きな影響があるはず。では、お笑いの世界の人が文学を書いたらどのような仕上がりに? その答えの一つが、本書でしょう。だけど、もっと別の形の“回答”もあるはず。私はそれらも読みたい気分です。文学にはまだまだ可能性があるはずですから。


将来の帰省ラッシュ

2015-08-13 07:17:14 | Weblog

 世間ではお盆だそうで、帰省ラッシュが始まったそうです。
 ところで今の高齢化と過疎化が進んで限界集落がどんどん潰れていったら、この帰省ラッシュもなくなるのでしょうか。

【ただいま読書中】『戦時下のベルリン』ロジャー・ムーアハウス 著、 高儀進 訳、 白水社、2012年、4000円(税別)

 激しい「戦争」を体験した首都ベルリンで生きていた「人々」が、実際にはどのような人でどのような生活をしていたのかを、広範なインタビューと文献資料から構成した本です。
 1939年4月20日「総統の誕生日」の大々的な祝典の光景は映像に残されています。しかし祝典に参加しなかった人たちも多くいました。ただし、自身の内心を公言はしません。したら逮捕されますから。
 同年9月1日、ポーランド侵攻が発表された日。ベルリンを支配していたのは、重苦しい静寂でした。突然の「戦争勃発」にぽかんとする人もいましたし、第一次世界大戦の記憶を持っている人たちは「一生に二回の戦争は多すぎる」と呆然とします。もちろん声高に熱狂を示す人もいましたが、映画館のニュース映画で総統の姿が登場して嵐のような喝采を引き起こさなかった最初の日でもありました。それでも人々は楽観的になろうとします。戦争はすぐに終わるだろう、と。
 戦争が進んでも配給制度はなんとか維持されました。それだけでは生きていけない量ではありましたが。人々は、家庭菜園・闇市場・田舎への買い出しなどでなんとか生き延びようとします。動物園が爆撃されたことは、胃袋にとっては朗報でした。出所が明らかにされない「肉」がベルリンに大量に出回ったのです。
 爆撃と言えば、夜間爆撃は慢性的な睡眠不足を市民に強いました。空襲警報のサイレンが鳴り高射砲の射撃音があたりに響き渡ります。たとえ自分の地区が爆撃の対象ではなくても、防空壕に行かなければ地区防空責任者が「どうして避難しないのだ」と自宅まで押しかけてきます。それでも、防空壕に行けるだけマシだったのですが。ユダヤ人は共同防空壕には入れないのですから。「気晴らし」として防空責任者の目を盗んで空を眺める人もいました。探照灯・砲弾の閃光・曳光弾・落下傘照明弾の「光のショー」は非常に印象的だったそうです。自分の頭上に爆弾が落ちてくるか、防空責任者に見つかるまでの“楽しみ”でしたが。戦争最後の1年でベルリンは150回の爆撃を受けたそうです。
 41年10月からベルリンのユダヤ人は「再定住」のために国外追放されることになりました。目指すは「一時滞在所」。財産は容赦なく没収され、次に“没収”されるのは生命ですが、ベルリンを出発するときにはそのことは誰もわかりませんでした。42年末までにベルリンからは82回の移送が行われました。しかしやがてホロコーストの噂が。現場を目撃した兵士の話、実行者の自慢話、ゲットーに出した郵便物が「宛先人死亡」で戻ってくる、などで噂が国内に着実に広がります。最近の調査では、ドイツ国民の1/3(ベルリンでは28%)がユダヤ人虐殺について何らかの形で知っていた、と結論づけています。ただ、「噂を知っている」と「噂を信じる」は別の問題です。なにしろ「ある人種が工業的に殺される」というのは、多くの人間の想像力を越えていますから。
 強制移送通知を受けたユダヤ人の10%は自殺をしたそうです。「地下」に潜る者もいました。友人(当然非ユダヤ人)に匿ってもらうのです。「アーリア人」には、反ユダヤ主義の人も、そうではない人もいたのです。ただし、ユダヤ人の運命については無関心なベルリン市民が最大多数でした。
 児童疎開も悲しい物語です。当時都会からの児童疎開を行ったイギリスや日本でも、似たような物語があったことでしょう。
 プロパガンダでナチスが特に重要視したのがラジオでした。ところが外国の電波もドイツには届きます。そこで「外国の放送を聞くと投獄。聞いた内容を周囲に広げて士気を下げたら最高で死刑」と法律で定めます。ただしその摘発は難しいので、密告が奨励されました。「ロンドンを聞く」(BBCをこっそり聞く)人たちは、晩に女中は映画にやりラジオに毛布を掛けて最低音量にしたスピーカーに直接耳を当てて聞いていました。そういった人たちは、単に反ナチの人もいましたが、「BBCの音楽番組が好き」という人もいました。“悲劇”も起きます。たとえば「戦地で行方不明の兵士が、外国の放送(たとえばソ連の「自由ドイツ」)で生きていることがわかって、それを聴いた人が家族の人に「息子さんが生きていましたよ」と“良いニュース”を届けたら、家族は喜ぶが同時にゲシュタポに密告した」なんて事例。そのため「良いニュース」を伝えるために、様々な工夫がされました。匿名の郵便(44年のものが公文書館に保存されているそうです)や近所の人たちが何人も「息子さんが生きていてイギリスの捕虜収容所にいる、という『夢』を見た」とやって来て言う、とか。
 ナチスはラジオで流す音楽も統制しようとしました。たとえば「リリー・マルレーン」をゲッペルスは「病的」「非英雄的」と排除しようとしましたが、前線の兵士からのリクエストが殺到したためその決定を引っ込めた、なんてこともありました。
 「レジスタンス」として活動的だったのは、共産主義者のグループ、キリスト教特に「告白協会」などでした。しかし市民のほとんどは沈黙を守り、レジスタンスグループのほとんどにはスパイが潜入し、グループは次々摘発されます。ただ、消極的な“レジスタンス”を実行する人もいました。たとえば朝の挨拶として「ハイル・ヒットラー」ではなくて「グーテン・モルゲン」を言う、とか。特筆すべきは43年にベルリンに最後に残ったユダヤ人グループの一斉検挙で、逮捕された人たち(異人種間結婚をしたユダヤ人)の家族の女性たち(非ユダヤ人)が1000人も集まって集団で抗議した“事件”です。1週間以上毎日その行動は続き、とうとう1800人のユダヤ人は釈放されます(その前にアウシュビッツに送られた25人はベルリンに呼び戻されました。ドイツ流の几帳面さです)。この事件は「成功したレジスタンス」として特異ですが、ベルリンに残ったユダヤ人たちに自分たちが死と直面している事実を突きつけました。多くのユダヤ人は「地下」に潜ります。戦時中のドイツで1万~1万2千のユダヤ人が潜ったと推定され、そのうちの半数はベルリンででした。もう一つ推定値が示されています。一人の逃亡ユダヤ人を助けるためには平均7人のドイツ人の協力が必要だった、と。戦時下のベルリンで? 逃亡中のユダヤ人には食糧配給がありません。だったらその食い扶持をどうやって確保します? とても難しい選択を強いられる生活です。逃亡ユダヤ人を助けたドイツ人が捕まったら、最高は死刑、最低は微罪ですんだようです。ただの避難民や戸籍を失った爆撃の被害者を助けていただけ、という言い訳が通用した場合もあったのでしょう。
 逆に、ゲシュタポに捕えられ、その後逃亡ユダヤ人を密告することで生計を立てていたユダヤ人もいました。悲しい話です。
 「最後の日」、150万のソ連軍に対するベルリン防衛隊は9万人でした。そこでベルリン市民が受けた扱いは、(別の本からの引用になりますが)「略奪と強姦の夜」でした。強姦された女性の1割が自殺し、翌年生まれた子供の5%が「ロシア人の子」だったと推定されているそうです。満州~朝鮮のソ連軍支配下で何があったかも私は思い出します。
 本書の冒頭で著者は宣言しています。「戦時下のベルリン市民が、破局に向かって夢遊病者さながらに進んで行く、ナチ化されたロボット人間の洗脳された大衆だったと想像するなら、大事な点を基本的に見逃していることを本書が立証するのを願っている」と。「ベルリンは、少数の活動的なナチと、活動的な反ナチが、どっちつかずの大衆の両端に存在していた都市だった」とも。つまり「彼ら」は「われわれ」とはそう違わない、と。たしかに、「彼ら」は「われわれ」とはそう違わないようです。ただ、ユダヤ人を匿ったりレジスタンスを「われわれ」ができるかどうか、それは大きな疑問ですが。


玉に瑕

2015-08-12 07:06:59 | Weblog

 傷のない玉は数秒間視線をとどめてもらえます。小さな傷のある玉は長い間注目されさらにあれこれ論評してもらえます。

【ただいま読書中】『やさしい行列とベクトル』川久保勝夫 著、 日本実業出版社、1987年、1100円

 私は高校でベクトルは習いましたが行列は習っていません。そのため大学の教養での数学で大苦戦をすることになってしまいました。とりあえず計算方法だけは暗記して試験はなんとか「可」をもらって落第は免れ、専門に進んでからは行列とはまったく無縁の生活になったからそれはそれでよいのですが、行列が私の人生にとってどんな意味があるのかがずっと疑問でした。というか、すでに行列の掛け算さえ忘れているものですから、もう一回基礎に戻ってみようと本書を借りてきました。
 まずは「ベクトル」と「行列」が同じものとして扱えることが示されます。ああ、こんな基礎の基礎さえ私はもう忘れていました。
 図形を回転させるのに行列が使えます。sin90度は「1」、cos90度は「0」だからこれで行列の掛け算を行えば90度の回転ができるわけ。連立一次方程式は行列の掛け算ではなくて割り算で求めることができます。さらに……というところで私の基礎学力は尽きました。もう「やさしい行列とベクトル」ではなくて「難しい行列とベクトル」の領域に入ったように感じるものですから、いったん撤退します。「あいしゃるりたーん」とか「あいるびーばっく」とか一応つぶやいてはおきますが。