台湾には親日派が多く、それが「戦前の日本の植民地支配は良いことだった」と主張する人たちの論拠になっているようですが、もしかしたら(日本敗戦後に台湾を支配した)国民党政府に比較して「日本の方がまだ良かった」と言っている人も多いのではないか、と思いつきました。もしこれが正しければ、韓国も、もしかしてソ連に支配されていたら「まだ日本の方が良かった」と言う人が多くなっていたかもしれません。あくまで相対的な話で、「植民地支配は絶対的に良いものだ」と主張する根拠にはならないのですが。
【ただいま読書中】『台湾・少年航空兵 ──大空と白色テロの青春期』黄華昌 著、 社会評論社、2005年、2000円(税別)
1929年(昭和四年)著者は台湾で生まれました。当時、台湾人は「チャンコロ」と日本人から蔑まれていましたが、台湾人の漢族の中でも少数派の広東系「客家(はっか)」は多数派の福建系から蔑まれていました。著者は貧しい客家出身で、この二重の差別構造の中からどうやって這い上がろうとしたかの半生記です。
台湾の小学校は、日本人用の尋常小学校と台湾人用の公学校に分けられていました。ただし台湾人でもごく少数の“エリート”の子弟は尋常小学校に入学を許されます。著者は当然のように公学校ですが、成績優秀で体格も良く、さらにいたずらが大好き、という少年をやっていました。差別する人間を見返し出世するために師範学校を志望しますが、戦争や差別などで断念。そこで少年航空兵を志願、1943年(昭和十八年)厳しい第一次選抜を突破します。とたんに、著者や一家を差別していた人々の態度が豹変します。第二次試験は東京陸軍少年飛行兵学校。しかし東京への航路は、米軍潜水艦によって危険水域になっていました。船団は次々魚雷攻撃を受け、著者が乗る富士丸も沈没。救助されてやっとの思いで日本に上陸し、大津で第二次試験を受けてそのまま大津少年飛行兵学校に入学します。東京だけでは養成が間に合わないので大津に分校ができていたのでした。44年10月熊谷陸軍飛行学校に進学して操縦を習い始めます。しかし、激しい体罰を受けるたびに反逆精神がむらむらとかき立てられる著者の筆致に、私は共感を覚えます。殴ることが優秀な操縦者や愛国者を製造する手段とは思えませんので。
昭和20年、学徒出陣で入隊した特別操縦見習士官(特操)や中学卒業で入隊した特別幹部候補生(特幹)の訓練が少年兵より優先されることとなり、著者らは繰り上げ卒業でそのまま実戦配備されます。結局特操や特幹は特攻でどんどん殺され、著者は生き残ったのですから、運命はわからないものです。著者が配備されたのは立川基地で、任務は整備。それと小型機に対する対空防御と戦車に対する肉弾攻撃の訓練。しかしそこでの選抜で、著者は(航空兵の最高学府)豊岡陸軍航空士官学校に合格します。また「空」に戻れるのです。飛行技能はぐんぐん上達しますが、目的は沖縄特攻。兵10人を乗せた大型木製グライダーで沖縄の敵基地に強行着陸して戦う作戦です。しかし沖縄戦が終了。次の訓練は体当たりの特攻。そして8月15日。雑音だらけの玉音放送を聞かされた後、著者は隊長から短剣を押収され、基地で真っ先に武装解除をされてしまいます。同期生たちはバラバラに故郷に帰っていきます。行き場所のない台湾出身者4名は残務整理として基地に残留しますが、突然の除隊命令。敗戦国「日本」の中の「台湾出身者」として、著者らは途方に暮れます。何をするにしても「戸籍登録のある日本人が優先」なのですから。ともかく48時間すし詰めの列車に乗って長崎へ。被爆の惨状に驚きながら、台湾への船便を探します。
やっとの思いで帰り着いた台湾は“戦勝国”となっていました。さらに、日本に替わって台湾を支配した国民党政府は、台湾人の憎悪の的となります。「まだ日本の方が良かった」と。そして、台湾人と外省人とが殺し合う「二・二八事件」が勃発します。国民党政府にとって台湾は「日本軍国主義に染められた台湾人」と「共産党のシンパ」が暗躍する土地だったようで、台湾をきちんと支配するためと内戦からの避難地を確保するために、逮捕と拷問と虐殺が横行します。そこで著者は「思想犯」として、10年間の徒刑(島流しの刑)を喰らってしまいます。
著者は、選択の余地がある場合には意地を張って反逆の方向に選択をしてしまう傾向がある人のようです。ただ、小利口に立ち回るのではない人の人生は、本人は大変でしょうが、安全地帯にいる読者からはその「時代」と「社会」が見事に読み解けて、とても参考になります。