イスラムの印であるベール着用は、フランスでは「宗教的行為の顕示は私的行為だから公共の場では禁止」というルールで禁止されているそうです。すると、十字架のアクセサリーを身につけることも、フランスの公共の場では禁止されるのでしょうか?
【ただいま読書中】『言葉と爆弾』ハニフ・クレイシ 著、 武田将明 訳、 法政大学出版局、2015年、2800円(税別)
著者は、父がインドからやって来たパキスタン人の移民・母がイングランド人です。そのため、混血児であり移民の子でありさらにイングランド人である、という社会的には複雑な扱いを受けながら育ったことが想像できます。それを逆に言えば、著者が複合的で複雑な視点を持っている可能性が大きいということになります。
イギリスでイスラム移民の子供がイスラム原理主義に傾倒する傾向があることは、けっこう前から指摘されていたそうです。それはなぜでしょう? 著者は、「テロ」「テロリスト」そのものにだけ注目するのではなくて、それを“育む”近代西洋文明そのもの(あるいはその崩壊)にも注目するべきだ、と本書のエッセイと小説で言っているようです。ただし、紋切り型の「これが正論だ」ではありません。1986年の『虹のしるし』から2005年ロンドン同時爆破テロに関して「ガーディアン」紙に寄稿した記事まで、著者の思考がどう変化(あるいは進化)したかの記録でもあります。
1950~60年代に「怒れる若者たち」という言葉がありました。ところが彼ら(白人)と同じ行動をパキスタン移民の子が取った場合には「パキのテロリスト」と呼ばれます(「パキ」とは、日本人に対する「ジャップ」と同様のパキスタン人に対する人種的蔑称です)。ロンドンで生まれ、父の母国であるパキスタンよりはイギリスに愛着を覚え、ピンク・フロイドやビートルズを聴いて育った著者は、「社会の劣等民族」扱いを受けネオナチ的な政治家の言葉とそれに賛同する社会に脅威を感じます。そこで著者は、単に暴れるだけのテロリストにはなりません。じっと観察し、差別する者が、自分が差別し排除しようとしている人たちに自分自身の自己認識を依拠していることに気づきます。差別される側も、「西洋」には失望しています。しかし「帰るべき場所」はありません。だったら、今のイスラム世界を支配している腐敗した権力体制を一掃して「理想的なイスラム」を作ったら? これは、“裏返し”のシオニズムなのでしょうか。
著者が“現場”で見ながら感じながら育ったのが、こういった「ISのテロリストを育てる素地」でした。しかし著者はテロリストにはなりませんでした。では、テロリストになる人とならない人がいるのは、なぜ? そもそもテロリストが育ちやすい社会は、どのようなもの?
イスラム原理主義は徹底的に間違っている、と著者は考えます。しかし、それが育つ理由も理解できる、と述べています。理解はできるが賛同はしないわけです。
私に言わせれば、いわば「敵」と「味方」が寄ってたかってテロリストが上手く育つように“協力”しているのです。これは実に皮肉な現象です。だって、良識のある人は誰もそんな結果を望んではいないのですから。望んでいるのは「自分の存在価値を示すために、社会にテロリストが存在していることが必要な人」だけでしょう。そういった人は「敵」にも「味方」にも存在しています。
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