この2年間半、日本銀行はせっせとお札を増刷していました。
まるで捻挫や骨折した人が痛みを訴えるたびに鎮痛剤を与えるかのように。
だけど、ギブスを巻いて安静にしたりせずに痛み止めだけ飲ませて今までと同じ動きをさせていたら、傷んだ部分はくっつかず、痛みはいつまでも続きます。鎮痛剤の大量投与は、本当に「捻挫」「骨折」に有効なんでしょうか?
私は、大量の薬の“副作用”がそろそろ出る頃ではないか、という嫌な不安を抱いています。
ところで、昭和の時代の高度成長の再来って、本当に現在の日本で可能なのでしょうか。あの時には「異常な円安」「溢れんばかりの若年労働者」「社会全体にみなぎる物欲」という条件が揃っていました。今の日本にその条件が揃っているようには私には見えないのですが。
【ただいま読書中】『阿部一族』森鴎外 著、 岩波文庫(緑5-6)、1938年(2007年改版)、400円(税別)
徳川家光の時代、肥後藩主の細川忠利が亡くなりました。殉死を許されたのは18名。忠利は殉死を望む忠臣たちを厳選したのです。当然殉死を許されるべき立場にもかかわらず殿の気まぐれからその選に漏れた阿部弥一右衛門は「腹も切れない臆病者め」という周囲の陰口に耐えかねて、追い腹を斬ります。ところが主君の許し無しの死ですから、法制上は新しい君主に対する不忠の行為(跡継ぎには忠を尽くさない、という主張)となり、阿部一族は、新藩主からは陰に日向に冷遇されることに。とうとう耐えかねた阿部一族は、武士の一分を見せるために屋敷に立てこもることに。これは藩に対する反逆行為ですから、討伐部隊が立てられ、殺し合い(一族皆殺し)が始まります。
最初はほんのちょっとの感情の行き違いだったのが、坂道を転がる雪玉のように話はどんどん凸凹に肥大化し、最後には大きな悲劇が生まれることになりました。
この話のキモは「家光の時代」ということでしょう。戦国時代だったら、個人の命よりは忠義が重視されます。それも主君に対する個人的な忠義が最重要。したがって、主君の許しがあるかどうかよりも「殉死するべき立場」かどうかを自分と周囲が勝手に判断すればよいのです。あくまで「個人的な忠義」なのですから。しかし徳川家光の時代は「すでに戦国の世は終わった」と宣言したくなる時代です。天下泰平の時代では「個人への忠義の印としての殉死」よりも「家の存続に対する組織的な忠義」の方が、明らかに重要です。しかしこの時代にはまだ戦国の気風は濃厚に残っています。そのミスマッチが阿部一族の悲劇を生んだ、ということなのでしょう。論理で「組織への忠義」を納得していても、感情で「個人的忠義」を重視する人は、「殉死するべき人が殉死しない」ことが感情的には許せず、しかし論理的にはそれを表だって言うことはできず、結局陰口をきいて回ることになります。そしてそれを聞かされる方もまた論理と感情の間で引き裂かれることになったのです。
もう一つ私が見つめるのは、森鴎外が生きた時代です。森鴎外が活躍したのは、「戦国→天下泰平」ではなくてその逆の「天下泰平→(国際的な)戦乱」の時代でした。ここでは、家光の時代とは逆の価値観のパラダイムシフトが必要となっています。
明治政府は、職業軍人としての武士を廃止し、徴兵制を敷きました。かつての武士の時代には「個人の命<忠義」で簡単に「イエのために死ね」と言えました。その“見返り”が領地(あるいはその武士のイエ)の安泰です。ところで徴兵制だと、簡単に「死ね」と言うためには「個人の命<天皇への忠誠」という価値観の確立が必要です。しかしその“見返り”は? 森鴎外がそのような問題意識を持ってこの作品を書いたかどうかはわかりませんが、この作品を明治の末(~大正の初め)に書いた意味に私は興味を持っています。時代が変わることは、社会の価値観が変わることを意味しています。そのことは意識していただろう、と。
蛇足ですが、「個人の命<天皇への忠誠」の場合、個々の兵士の処遇は悪ければ悪いほど、扱いが軽ければ軽いほど“良い”ことになります。だって個々の兵士の待遇をよくしたら「個人の命」が重くなってしまって「天皇への忠誠」が相対的に軽くなって「<(不等号)」が成立しにくくなりますから。これが志願兵の軍隊だったら、「軍人」は「選択可能な職業の一つ」となり市場原理が機能しますから、待遇は良くなる、というのは、先日読書した『安全保障学入門』に書いてありました。「個人の命の軽視」という点は共通していますが、自分の子孫のためにイエと領地が安堵されていた昔の武士の方が“扱い”は良かった、ということなんですかねえ。