私は短気なので、昼ご飯を人気店で食べようと長い長い行列に参加する気はありません。ただ、きちんと行列を作る人たちは大したものだとは思ってます。だって、我慢強いだけではなくて、行列を作らずに無秩序に店に群がらない、という良識を持っているわけですから。
【ただいま読書中】『道路の日本史』武部健一 著、 中公新書、2015年、860円(税別)
今から約2000年くらい前、古代ローマと秦で大がかりな道路システムの整備が行われました。ローマは有名なローマ街道で、秦は馳道と呼ばれます。その“先例”は、アケメネス朝ペルシア帝国の「王の道」で、首都スーサから地中海に近いサルディス(現トルコ)まで約2500kmの道が整備されていたそうです。ただ、アレクサンドロス大王の侵攻に利用されてしまいましたが。しかしローマ街道も馳道もその後長い衰退期に陥り、その“復活”はナポレオンまで待たなければなりませんでした(ナポレオンは、要塞建設の倍の予算を道路につぎ込んでいます)。
日本の道は獣道に毛が生えたようなものでした(魏書東夷伝にそう書いてあります)。その整備が始まったのが律令時代。特に外国の使者がやって来るときには道の整備が熱心におこなわれました。本書では東京オリンピック直前に高速道路や新幹線が整備されたことが古代との類似で紹介されますが、私はむしろ、明治時代や終戦直後の天皇の行幸で各地の道路整備がされたことの方を思い出していました。
中世~近世の道路は「集落と集落をつなぐ」発想で作られました。しかし古代道路は「都と遠くのどこかをつなぐ」発想です。そのため、高速道路を計画すると、その経路は恐ろしいくらい古代道路と重なるそうです。
道路の目的は、軍事(軍隊の移動路)・政治(情報と税の通路)でした。それに対して全く違った発想を持っていたのが織田信長です。彼は「平和国家」の発想で道路に取り組んでいました。関所を廃止・架橋・街路樹の植樹など、民衆の利便も考えた政策で、それは秀吉にも受け継がれました。江戸幕府も五街道の整備はきちんと行い、幕末期にやってきたオールコックは東海道を絶賛しています。ただしそれは「徒歩旅行には良い道路」であって、西洋で当時主流の輸送手段だった馬車には向いていませんでした。明治政府は道路と鉄道の二兎は追えず、鉄道の方に注力します。その結果が、昭和31年のワトキンス報告書「日本の道路は信じ難いほど悪い」になってしまいます。そのあとは、国道整備・高速道路建設となって「先進国の道路」を目指すことになります。
だけど、現在の「日本の道路」は誰のためのものでしょう? 律令時代のような「中央」のためのもの? それとも信長が目指したような「道路を使う人たち」のためのもの? 今の日本のお役所の発想は、信長よりもむしろ律令時代に近いのではないか、と思えるのですが、これは私の勘違いかな? そうだったら良いのですが。