「申し訳ない」という言葉があります。これを「申し訳」「ない」と文節に分けることができるとすると、「ない」は「無い」ですからその対義語は「申し訳有る」になります。だけど「申し訳有る」は日本語としては変です。「申し訳」が「名詞」だったら「申し訳がない」「申し訳がある」と言いません? ということで、「申し訳・ない」「申し訳・ある」は日本語として不自然に私は感じます。「申し訳」と似た「名詞」で「言い訳」がありますが「言い訳ない」「言い訳ある」とは言わないでしょう?
もちろん「申し訳」「ない」と分けることが大間違い。「申し訳ない」は形容詞で、どうしても分けるとしたら「申し訳な・い」です。つまり、「申し訳ない」と謝るときに最初から「申し訳」は存在しないのです。
あれれ、すると最近巷でよく聞く「申し訳ありません」「申し訳ございません」は「申し訳」が存在することが前提の語調は丁寧な謝罪ということに? だけどこの場合だったら「申し訳」は「名詞」ですから「申し訳はありません」「申し訳はございません」と言う方が正確では?
【ただいま読書中】『人魚の嘆き』谷崎潤一郎 著、 中公文庫、1978年(97年14刷)369円(税別)
むかしむかし「まだ愛親覚羅氏の王朝が、六月の牡丹のように栄え耀いていた時分」……つまり清の時代に南京に、若く裕福で名門の出で、美貌と才智にも恵まれた貴公子がいました。この世の楽しみをすべて知ってしまった彼は、鬱々と日を過ごすことになります。彼の心にあるのは渇望でした。自分をもっと楽しませてくれるものがないものか、と。
そこに異人(おそらく阿蘭陀人)が、人魚を持ち込みます。人魚を見た瞬間、貴公子は「長らく望んでいた昂奮」に襲われます。ガラス製の水瓶の中にいたのは「美の絶頂」だったのです。しかし、地上の貴公子と水中の人魚はの間には常にガラスの壁がありました。それを乗り越えて二人が会話ができたとき……
アンデルセンの『人魚姫』やローレライの伝説を元に、耽美的な情景が描かれています。ただ、貴公子は「美」を求めていますが、実は美からは拒絶されてしまいました。なんとも残酷な結末ですが、この「残酷さ」もまた「美」の一つの形なのかもしれません。そういえば貴公子自身が“所有”している美貌や若さは財産も、時の流れという“残酷さ”の餌食になるものなのですが。