【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

不敬

2011-04-20 18:43:54 | Weblog

 天変地異と人災でしょぼんとしている日本の雰囲気を変えるために改元を進言するのは、やっぱり不敬でしょうか。

【ただいま読書中】『平清盛 福原の夢』高橋昌明 著、 講談社選書メチエ400、2007年、1700円(税別)

 平安時代は摂関家が外戚として天皇家を支配・運営していました。それを変化させようとしたのが、後三条天皇と白河上皇です。その結果「一家の長」と「国家の長」の分離(対立)が生じます。それに伴い母方外戚の地位は低下します。そういった時代を背景として保元・平治の乱が起きます。後白河は政権運営には意欲満々ですが、本人のキャラに「軽薄さ」という傷がありさらに乱によって有力側近を失っていました。二条天皇は年少。摂関家の地位は低下。つまり権力の空白が生じていました。清盛は、後白河の政治的ライバルを片付けると同時に、自分の軍事的ライバルも始末していきます。しかし二条天皇が力をつけてきます。清盛の室の時子は二条天皇の乳母。となると清盛は二条天皇の側に立つ必要があります。このあたりでの後白河勢力の盛衰は、他人から見たら面白いものです。一度は衰えたものの盛り返した後白河は清盛と組み、自らの孫を天皇に、皇太子には自らの子を、というすごい“人事”を断行します。
 清盛は重盛に氏長者を譲り出家、しばらく六波羅にいましたがやがて摂津国福原(今の神戸)にあった山荘に退隠します。清盛は摂津国の要所要所も支配下に置いていました。大阪湾は浅くて大船が入らないため、清盛の山荘近くの大和田泊で小舟に荷物を積み替えてから淀川を上っていました。つまり、瀬戸内海東部の物流の要所だったのです。さらに日宋貿易の存在があります。清盛の目は都より「西」に向いていたようです。
 しかし本書で示される着眼はユニークです。たとえば平家と天皇家の相関図と「源氏物語(明石の巻)」の人物相関図とを比較して「そっくり」と感心したり(ちなみに、笑っちゃいますが、光源氏に相当する位置にいるのが平清盛です)。また「平氏の貴族化」もあっさり否定します。その根拠は、宮中での重要な公家会議に平氏のメンバーが参加していなかったこと。一代や二代では、軍事貴族が有職に精通した“プロの公家”に対抗することなんかできなかった、ということでしょう。
 なぜ清盛が福原に引き籠もったのか、が謎です。ふだんは京にいて必要があれば福原に通えばいいのに、その逆をするのですから。まさか光源氏の須磨配流でもないでしょうに。著者はそれを政治的効果に求めています。都から離れることによるデメリットはありますが、何かトラブルがあったときに「清盛に問い合わせをする」ことで平家系の公家は時間が稼げますし、解決に乗り出すと「わざわざ清盛がやって来た」事実自体が大きなインパクトを人びとに与えるのです。
 鎌倉幕府はこの清盛の“先例”を踏襲・発展させたもの、と著者は考えています。幕府を福原よりもっと遠くに置き、六波羅を京都守護として発展させました。
 延暦寺の「大衆」強訴をめぐって、後白河と清盛の対立が深まり、有名な鹿ヶ谷事件へと到ります。叡山攻めを口実に兵を集め、事件解決にのこのこ上京した清盛を殺そうという陰謀だ、と平家は主張しますが、さて、どこまで“真剣な(実行可能な)”計画だったのでしょうか。ともかく「平家でなければ人でない」は、追従者と共に“敵”も多く生みだしていたのです。
 そして、あまりに急な「福原遷都」。安徳天皇と高倉上皇が(清盛の意向で)急に福原に行幸しました。最終的に安徳は清盛の別荘に入り、そこが「内裏」と呼ばれるようになります。しかし屋敷が足りず、随行する者は「道路に座すが如し」のありさまだったそうです。そしてしばらくは、都は京と福原の二重体制となります。天皇を移してから都造りというのは順序が逆の気がしますが、そこには、後白河を中心とする反平家勢力の台頭、という“事情”があったようです。しかし、公家は「特定の行事は特定の建物で行なわなければならない」などと抵抗し、頼朝や義仲などの挙兵が各地で起きます。ついに清盛は一門の中でさえ孤立してしまい、還都となります。「遷都」から170日のことでした。
 著者は、清盛の行動から「革命の思想」を読み取り、それを受け継ぎ、より厳格に実行したのが頼朝だ、と考えています。建武の新政にしても織田信長にしても明治維新にしても、権力に関して京の公家が“新たな救世主”に望むことは常に裏切られてしまうのですが、その「原型」が平安時代にあった、ということなのでしょうか。



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