【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

水防

2011-04-08 18:44:08 | Weblog

 これからの堤防は、山からの洪水と海からの津波と陸からの汚染水とを防ぐものでないと、だめなのかな?

【ただいま読書中】『奥尻 その夜』朝日新聞「奥尻 その夜」取材班、朝日新聞社、1994年、1165円(税別)

 “その夜”午後10時17分11秒、奥尻島から北西約60km、深さ34kmでマグニチュード7.8の地震が発生しました。地震波は14秒で奥尻島に到達、島に設置された地震計の針を振り切ります。停電、崖崩れ、そして「津波が来る」の声。
 札幌管区気象台は、北海道日本海側に大津波警報を出します。大津波警報は1983年の日本海中部地震以来のことでした。奥尻町役場は独自の判断で10時20分に、気象庁より2分・NHKより4分早く、行政防災無線で全島の住民への避難勧告を始めました。しかし、津波は猛スピードでやって来ました。第1波は10時20分、そして大津波はそれから2分後に。
 そこにあったのは「津波てんでんこ」の世界です。「着替えてから」「靴はどこだ」と探していた人は波に呑まれます。「ちょっと待って」と言った人、それを待った人も津波に呑み込まれます。「ちょっとお祖母ちゃんが心配だから」と寄り道をした人も。津波の前に「ちょっと」はないのです。奥尻島は日本海中部地震でも津波に襲われていました。しかしその時の波の高さは4m。時間的にも余裕がありました。それでも死者が二人出たのですが、その時の体験がかえってアダになったのでしょうか。津波を甘く見たのか、ぐずぐずして逃げ遅れた人が多かったようなのです。実際に、助かった人の調査では、生死を分けたのは海岸からの距離ではなくて、地震直後すぐに高台に逃げたかどうかだったのです。なにしろこの時の津波が到達した最高の高さは30.5mだったのです。
 津波に襲われた町は、火にも襲われました。瓦礫の山のあちこちで灯油タンク(家庭用の屋外タンク)が爆発します。島全体に消防車は10台ありましたが、道路は寸断され消防自動車は動かせず応援は来ません。消防団員も集まれません。青苗地区で起きた火災は11時間燃え続け、189棟、約1万9千平方メートルを焼き尽くしました。
 奥尻には航空自衛隊の分屯基地がありました。丘珠や倶知安からそこを目指して自衛隊のヘリが飛びます。札幌の日赤は地震発生から30分以内に動き始めました。受け入れ体制の整備をし、緊急派遣チームを待機させます。市立函館病院の救護班も準備しますが、北海道側が霧のためヘリがなかなか飛べません。結局朝になってやっと救護班を乗せたヘリが離陸できました。
 翌朝、町役場の保健師は、孤立した松江地区に漁船でアプローチします。精神的ショックだけではなくて、ふだん飲んでいる薬がないため不安を訴える人も多くいました。
 空港で自衛隊のヘリ(と医者や看護師)の到着を待ちわびている人たちの前に、一番に現われたのはNHKのヘリでした。たまたま島内にいたNHKの取材班のビデオテープをピックアップするためです。その後も多数の報道機関のヘリがやって来ましたが、医者や看護師を同行させたヘリは一機もなかったそうです。
 島には5つの「孤立防止用無線」(電話回線が切れた時でも北海道と連絡ができる回線)が設置されていました。ところが全島が孤立することが想定されていなかったため、回線は一つだけ。どこか一つが話をしていたら、他の無線は使えないのです。ただ、防災行政無線は威力を発揮しました。町役場と桧山支庁の連絡ができたのです。
 島では、燃料も水も失われました。タンクも簡易水道も破壊されたのです。港は瓦礫や沈んだ車のために船が接岸できません。
 町役場・北海道警察・自衛隊の反応の早さには瞠目します。情報が限られているどころか、ほとんど情報がない状態でも、最悪の場合を想定して準備と行動を始めるのですから。それでも現実はその「想定」を越えてしまったのですが。それに対して、「情報がない」ために何もできない東京の人間や、「それでもこれをするしかない」と選挙運動を続ける候補者も登場します(ちょうど衆議院選挙中でした)。ずいぶん対照的です。
 東日本大震災では、この「奥尻島」が、津波が押し寄せたすべての集落で繰り返されたわけです。私は一瞬呆然とします。本書を見る限り、東日本大震災で何が起きるかの“予告”が、奥尻でほとんどすべてされているではないですか。一体我々は「過去」から何を学んで、そしてなぜそれを生かすことができなかったのでしょう。



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