【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

覚醒剤

2019-06-11 07:31:51 | Weblog

 今は覚せい剤取締法で取り締まられる対象ですが、この法律ができる前はそのへんの薬局で買うことを誰でもできた、ってことを多くの日本人は知らないでしょうね。「古き良き日本の不都合な真実」ってところかな?

【ただいま読書中】『ヒトラーとドラッグ ──第三帝国における薬物依存』ノーマン・オーラー 著、 須藤正美 訳、 白水社、2018年、3800円(税別)

 ヒトラーが薬物中毒だった、はけっこう有名な話です。ところがナチス党は「薬物撲滅運動」を展開していました。しかし1930年代、ドイツでは「ペルビチン」という「国民ドラッグ」が大流行していました。その主成分は「メタンフェタミン」、つまり覚醒剤です。1939年に購入には処方箋が必要となり、41年には帝国阿片法の適用対象薬物となりましたが、それまでは野放し状態だったわけ。いやあ、恐いなあ。もっとも日本でも覚醒剤(たとえば「ヒロポン」)をそのへんの薬局でも売っている時代がありましたけれど。
 第一次世界大戦後、ドイツでは化学産業が花開きましたが、その産物の中にヘロインとコカインがありました。ワイマール共和国の時代からドイツは「ヤク」漬けだったのです(20年代にはどちらも処方箋があれば街の薬局で購入可能でした)。
 ベルリンで開業していた皮膚科・性病科の専門医テオドール・モレルは、愛想と最新の医療機器(特に「注射」を愛用すること)で、医院を繁盛させていました。口さがない連中からは、ありもしない病気をでっち上げて治療してみせるいかさま師、とも言われていましたが。愛用する“武器"は(当時最先端の)「ビタミン剤」、それが効かなければ男性ホルモンやベラドンナ・エキス。その名声を聞いたヒトラーの副官に呼びつけられて淋病を治療したことで、モレルはナチス高官と密接な関係を持つことになります。そして、ヒトラーの主治医に。ヒトラーは、自分のことを詳しく医者に知られることを嫌っていました。モレルは注射針を刺すことができればそれで満足でした。即効的にとりあえず体調を回復させることを求める統治者と、それに応えることができる医者。ふたりの関係は、1936年に幸福に始まります。
 ポーランド侵攻では、ドイツ軍で「メタンフェタミンの軍事的な使用」も試みられました。兵士は疲れを知らずに働き続け、ヒトラーはそれを「ドイツ軍人の勇敢さによる奇跡」と讃えました。そして、フランス侵攻に備える軍団にメタンフェタミンが「装備」としてつけ加えられます。アルデンヌの森を突破する数日間、兵士たちはほとんど不眠不休で活動を継続しました。フランス軍は、電撃戦の戦車とメタンフェタミンに混乱させられ、敗北します。
 政権から大した報酬はもらえなかったモレルは、「総統御用達のビタミン剤ビタムルチン」を製造、その一般向けの商品で大儲けを画策します。メタンフェタミンの副作用や依存性の怖さが知られるようになり、帝国保健指導者コンティは41年に帝国阿片法の対象薬物に指定しますが、それは孤独な戦いでした。帝国臣民は誰もがメタンフェタミンを渇望していたのです。
 「ヒトラーの薬物中毒」については、モレル詳細な記録を残しています。ただしそれは世界の3箇所に分散していてしかも手書きのドイツ語。暗号と省略が散りばめられていて、その読解は困難を極めました。それでも著者は読み続けます。ここでヒトラーは「患者A」でした。主治医に期待されるのは「患者Aの要求を即座に満たすこと」だけです。だから速効性のある強い薬が注射で投与されました。効かなければ別の強い薬。
 戦況の悪化と連動しているかのように、ヒトラーの健康状態も悪化し続けました。そして、43年、モレルのメモに「オイコダール」という薬品が登場します。メルク社の麻酔薬ですが、阿片から合成された半合成麻薬で、モルヒネの2倍の鎮痛効果と、ヘロインを上回る多幸感をもたらす「夢の新薬」でした。ただし強い依存性があります。ムッソリーニとの重大な会合に出発しようとするヒトラーは、深刻な腹痛に苦しめられていました。この薬を使うか、それとも……モレルは使うことを決断します。この会談でのヒトラーの異様な高揚ぶりは“歴史に残る"ものでした。その後「オイコダール」の文字列はモレルのメモには24回しか登場しません。そのかわりのように「x」とか「いつもの注射」がやたらと登場するようになります。薬物で高揚している総統の前に出てそのプレッシャーに耐えるためには、ふつうの精神状態では無理です。そこで副官や高官たちもまたモレルの薬物に頼るようになりました。
 ヒトラーの鼓膜が損傷を受けたとき診察した耳鼻科医が処方したのはコカインでした。これは「ユダヤの退嬰的な毒物」としてナチスに忌み嫌われていましたが、当時局所麻酔薬として使える薬はそれほどなかったのです。ところが粘膜に大量に塗布されたコカインは、毛細血管から全身に回ります。そして“幸福"になったヒトラーは、西部戦線で乾坤一擲の反撃大作戦を思いつきました。コカインとヘロインの混合物は「スピードボール」と呼ばれますが、ヒトラーは古典的なスピードボール「コカインとオイコダール」の相乗効果の下で生きるようになったのです。
 1944年帝国海軍参謀長ヘルムート・ハイエは、決戦兵器として開発された様々な小型兵器がどれも兵士に「数日間眠らずに待機をし、敵が現れたら即座に臨戦態勢にはいること」を要求していることを見て、それが可能になる薬物を求めました。そこで開発されたのが「オイコダール、コカイン、ペルピジン、ヒドロコドン(半合成モルヒネ誘導体)」の混合物でした。覚醒剤と麻薬をいろいろ混ぜて、兵士を「野獣」にしようというのです。状況がいかに絶望的か、がよくわかります。ただ、一人乗り人間魚雷「ネガー」は、二段構造になっていて魚雷を発射したら乗員は(運がよければ)生還可能な設計、というところが、日本より「絶望」に対してまだ理性的に取り組もうとしているようにも見えますけれど。
 ここでザクセンハウゼン強制収容所が登場します。兵士のために開発した薬物の効果を確かめるために、収容者に飲ませて実際にどのくらい活動ができるか確認しよう、というのです。さらに、新しく開発された靴の靴底の減り具合もチェックしようと目論まれていました。コカインを75mgも投与されたギュンター・レーマンはなんと96kmもぶっ続けで歩きつづけました。しかし海軍医療部隊のスタッフがニュルンベルク医療訴訟の被告席に立たされることはありませんでした。
 過剰な薬物の副作用でしょう、ヒトラーの体はぼろぼろになっていました。総統ブンカーでは薬物の在庫が切れ、モレルは突然解雇されます。彼もまた、戦後にきちんと裁かれることなく、死んでしまいました。
 薬物中毒になるのは「個人」です。しかし、著者は「時代」や「国」もまた薬物中毒になることがある、と考えているかのようです。実際に、多くの人々がヤクが欲しくてたまらない、そんな時代や国もあるのかもしれません。




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