2011年5月10日のブログ記事一覧-ミューズの日記
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<あれも聴きたい、これも聴きたい>イエペスの弾くヴィラ=ロボスの練習曲と前奏曲

 先回はイエペスの弾くソルの練習曲集を紹介したが、今回はヴィラ=ロボスの12の練習曲と5つの前奏曲を紹介しようと思う。演奏は1971年なので、前回のソルの練習曲集の4年後の録音。1927年生まれのイエペスの46歳のときの演奏になる。イエペスはご存知の通り、それまでにも芸術家として充分な実績を上げており、今回取り上げたLPの初出の時のジャケットの写真(同じ写真が使われていた)にも、すでにベルナベの10弦ギターを構えている写真が出ていることもあって(ソルの時はラミレスの10弦を持った写真が出ていた)、このころ既にかなりの年齢だったのではないかと思っていたのだが、その若さに改めて驚いた。
ところでこのころのイエペスは、何か教育的な目的で強くこれらの録音を残しておく必要性を感じていたのだろうか。4年経っているとはいえ前回紹介したソルの練習曲集に続きさらに大作のヴィラ=ロボスの練習曲全曲。しかも前奏曲も5曲全て(当時)とは。当時のイエペスの心の中を覗いてみたいような思いがする。何か強い使命感のようなものを感じていたのかもしれないが、我々ギター音楽の愛好家としては、よくぞこの演奏を残してくれたものと深く感謝したい。解説を読み返してみると、私たちのそんな受け取り方を証明するかのように、ソルの練習曲のレコードにもイエペスの言葉として「ギターを学ぶ人達に非常に助けになると考えて…」とか、「教育的な配慮から…」といったコメントが紹介されている。いずれにしてもこのレコードを聴いて行くとその意図は十分かなえられているといってよい名演奏となっている。音色、歌い廻し、音楽の運び等には、あまり過度ではないが十分なイエペスの個性が発揮されており、ほとんどの作品が素晴らしい芸術となっている。

しかしながらこれほど高度な練習曲も12曲全てとなると、イエペスの不得意(?)な部分をも垣間見られて面白い。それらは主に練習曲の2番、3番に表れている。イエペスは同じ音形が高速に続くパッセージにはやたらと強く、たとえば練習曲1番に見られるようなアルペジオのスピード感などは見事というほかないし、後半1弦と6弦は開放のままに、同じ押さえ方で1フレットづつ順に下がってくる部分の強調された2弦の響きなど「あっぱれ!」というしか言いようの無い個性的な表現になっている。さらに7番冒頭のスケールなども機関銃のように気持ちいいほど決まっている。しかし2番に採用されている左手によるアルペジオとでもいえる音の連続や、3番に出てくる同じような多弦に渡る音階にスラーが入り混じったような動きになると、途端に音の連続性が不安定になる。このような一種の癖とでもいえるような特徴は、実はイエペスの演奏には若いころから見ることができた。普通であればなんでもないと思えるようなパッセージで、時としてリズムが前のめりになったり、突っかかったように不規則にリズムが乱れる。その部分だけ取り出して聴いてみると、とても正確さに欠ける素人っぽい弾き方に聞える。これをイエペスの個性とみるか欠点と見るかは人それぞれとは思うが、私としてはやはりイエペスが生涯不得意とした指の動きのような気がしてならない。なぜならその突っかかったような、または時として前のめりになったような音の繋がりが、私にはどうしても必然的な音楽表現とは思えないからである。このあたりはイエペスのことをよくご存知のはずの荘村清志さんにいつか訊ねてみたいと思っている。

しかしその他の曲に関してはまったく見事としか言いようの無いテクニックと表現で演奏されており、練習曲としての目的にプラスアルファ、イエペスの個性が随所に、しかもいやみなくちりばめられており、何度聴いてもまったく飽きることが無い。ただ一つだけ最後に演奏される5つの前奏曲の最後、第5番だけは今のところ私としても正直言ってよく理解できないでいる。中間の短調の部分がその前後の長調の部分とまったくといってよいほど速度が異なり、聴いているとまるで楽章が変わったかのように完全に遊離し、異常なほどにゆっくりと演奏されていることだ。私にはそこだけはどうしても理解できない。何度聴いても「なるほどなぁ、そういう表現もあるかぁ」と納得できないのだ。もちろんこれも人によって感じ取り方の違いはあろうかとは思うのだが。

まったくの私の個人的な感想なんだが、イエペスは若い頃は当然のことながら自分の弾きたいように弾きまくっていたように思う。それが私たちの耳には斬新で、若々しく、しかもこの上なく芸術性高く聞えたものであった。しかし歳を重ねるごとに自分がどう弾きたいかではなく、その音楽が「どう弾かれるべきか」を追求していったように思えてならない。それは時としてギターという楽器の表現力を超えることを要求するため、私たちの耳には不自然と感じられたり、わざとらしさを感じてしまったり、言い換えれば「やろうとしていることは解るが、なにもそこまでしなくても・・・・」と思わせてしまうような表現を我々につきつけてくることがあった。それはあまりにも自然さを追求するあまり、知らぬうちに不自然な世界に迷い込んでしまっているかのようにも思えた。晩年のイエペスにはそんな姿が時折見られたものであった。しかし、今回取り上げたヴィラ=ロボスの練習曲と前奏曲全曲の演奏は、新しい世界を切り開いていこうとしながらも適度なバランス感覚を維持した芸術家イエペスが、我々に残して言った貴重な遺産という気がしてならない。
内生蔵幹(うちうぞうみき)

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