2008年3月27日のブログ記事一覧-ミューズの日記
ミューズ音楽館からの発信情報  ミューズのHP  http://www.muse-ongakukan.com/

 



<あれも聴きたい、これも聴きたい> 個性?

 あくまでも私の個人的な考えなので、皆が皆同意してくれるとは考えてはいないが、今世の中では、何かにつけて「個性、個性」と言われ、ちょっと「個性」ばかりを求めすぎていないだろうか。ファッションにしても、流行ばかり追って一人ひとりの個性がないとか言われる。芸術にしても昔の演奏家に比べて今の若い演奏家は個性がなく皆同じに聞えるだのと、とにかく個性ばかり求められているように感じられる。しかし若い人なら堂々と流行のファッションを取り入れ、しかもそれを着こなしている方が、流行に無頓着でくすんだ格好をしているより私は好きだし、演奏にしても、個性的ではあるかもしれないが、作曲家よりも変に演奏家が前に出過ぎたような演奏はあまり好みではない。

私から見ると世の中には個性的なものは腐るほどあって、むしろ氾濫しているように見える。但しその個性的なものは「不細工」という個性であり、また「調和のとれていない」という個性である。つまり「格好悪い」「中身がない」「好き勝手な」という個性で溢れているように感じられてならない。
 私は個性的なものというのは求めて得られるものではなく、より優れたものを求めた結果、それが見る者に「個性的」と映るのではないかと思っている。だから、今の「もっと個性を」という風潮は、個性的なものを求めるあまり、結果、良いものではなく、つい「他人と違ったもの」を求める方向に向かわせてしまっているような気がして仕方がない。以前にも書いたことがあるような気がするが、演奏家にしても、デビューしたての若い頃は、若さと共に芸術に対する強烈なあこがれを感じさせ、聴くものをして感動へと導く何かがあるものだ。しかし年を経るにつれ中堅、そして大家と呼ばれるようになってくると、今度は世界中に自分を目指して続々と若い人たちが生まれてくる。そうなってきてからのその大家の変化に注目してみると、殆んどの大家はどうも「若いやつらと同じことはできない」という強迫観念にとらわれてしまうのではないかとさえ思えるほど、演奏スタイルがどんどん崩れてくるようだ。そうなってくると先ほど言った「良いもの」というものよりも「他人と違ったもの」を求めるようになってきてしまうものだ。従ってつい余計な表現が付け加わってくる。やたらとまわりくどい表現をするようになってくる。そしてどんどんと音楽が自然ではなくなってくる。私の感ずるところ殆んどの大家と言われる演奏家がそういった道を歩んでしまっているように思われてならない。若いときにはあんなに溌剌とし、才気に溢れ、音楽が前へ前へと前進していたのに、大家となってからは音楽が濁り、淀み、不自然さが極まってくる。しかもその演奏に対する世の批評は「偉大な芸術」、「表現の幅が広い」「音楽が深い」「重厚で年輪を感じさせる」といったように言われることが多い。過激なことを言って申し訳ないが、私にはただ「モウロク」してしまったに過ぎないように聞えることが多いのにである。

敢えて他人と違ったものを求める必要があるのだろうか。演奏家は本当に自分のやりたいことをやれば良いのであって、一生懸命人のやらないことばかり探し回って音楽を不自然にしてしまう必要など毛頭ないのではないか。私は年を取るに従ってどんどん良くなる演奏家というものに殆んどお目にかかったことがない。勿論人によって差異はあって、あるところまでは確かにどんどん良くなるのだが、大家と呼ばれるようになってからがどうもいけない。セゴビアはどうか。イエペスはどうか。ブリームはどうか。カラヤンはどうか。バーンスタインはどうか。ベームはどうか。それらの大家と言われた人たちは晩年、確かに個性的ではあるが、音楽が純粋ではないように感じられる。考えてみれば特別な場合を除いて、一人の芸術家が死に向かって限りなく上昇し続けるということの方が土台無理なのかも知れない。しかしそんな範疇に入らない人たちもいたことは確かなのである。ハイフェッツ、ミケランジェリ、ルビンシュタインなど。それらの人たちは最晩年まで音楽が瑞々しく自然であったように思う。

レコード芸術という音楽雑誌に、名師匠列伝というインタビュー記事があり、その3月号に指揮者の秋山和慶さんが取り上げられている。最後にとても良いお話が出ていたので、ここにご紹介したい。秋山さんはもう一人の有名な指揮者「小澤征爾」さんと同じ齋藤秀雄門下であるが、その齋藤さんのことについての話の仲で「指揮者には個性が必要だなんていいますが、齋藤先生は指導の段階では・・・・」という質問があった。それについて秋山さんの答え。「そんなことは何もいいませんでした。個性なんてあとからついてくるものということだったんでしょう。小澤さんとボクと飯森君はだいたい同じ年代でしょう。まったく同じ指導で、同じ教材使って、同じ時間をかけて齋藤先生は教えてくださっていますが、3人はまったく異なった表現をやってますよね。でも先生は個性なんてことは何もおっしゃらなかった。共通点はあるでしょう、棒が分かりやすいとかね。でも、個性を出せなんて一言もなかったですよ。基本をおさえておけば、あとからついてくるということではないでしょうか。」
内生蔵 幹(うちうぞう みき)


コメント ( 7 ) | Trackback ( 0 )