それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

フルハウス

2011-10-03 07:55:29 | コラム的な何か
人間はアンバランスに出来ていると僕は思う。

スポーツが好きなのに、不器用で球技も不得意なら足も速くない。

研究が好きなのに、頭が悪い。

絵描きになりたいのに、デッサンが全く上手く出来ない。

翻訳家になりたいのに、日本語がうまく使いこなせない。

とかね。

ポーカーで言えば、ほとんどの人が手持ちのカードはフルハウス、ストレート・フラッシュなどにはならず、

「あと一枚違ったら、フルハウスだったのに・・・」

という具合だろう。



僕の友人にとても映画が好きなやつがいた。

映画が好きで好きで仕方がないらしい。

それで実際に撮影してみたくなった。

しかし映画を撮る、とひとくちに言ってもそれは簡単ではない。

カメラを何台か用意して、照明も、音声機材も、編集ソフトも、そして何よりスタッフと俳優も集めなくちゃならない。

それは相当難しいことだ。

それに加えて、肝心の脚本。

物語は脚本なしには進まない。

行き当たりばったりでいいのは、ノンフィクションくらい(それでもオチの目途くらいはあるかもしれない)。



友人の偉大なところは、そのすべてを用意してしまったことだ。

単なる一般の大学生に過ぎなかった彼がカメラをはじめ必要最低限の機材を用意し、そして人を集めた。

彼の最大の武器は人望が厚いところだった。

つまり、彼はまさに「監督」だった。

誰でも監督になれるわけじゃない。

「自薦、他薦は問いません」というわけにはいかない。

人をうまく扱えなければ監督にはなれないのだ。



スタッフには僕も含まれていて、朝から晩まで僕らは映画を撮り続けた。

僕も一度映画というものがどういうふうに出来上がるものなのか、この目で見たかったから、そんな多忙なスケジュールでも決して不満はなかった。

男の子も女の子もいる大所帯になったけれど、それもう楽しくて、映画ってなんて楽しいんだろうと思わずにはいられなかった。



にかかわらず、ただひとつだけ問題があった。

僕の友人のこの偉大な監督には、脚本を書く才能が全くなかったのだ。

彼は脚本を書く才能以外、おそらく映画撮影にとって必要最低限の能力を持っていた。

人望、野心、好奇心、管理能力、忍耐力・・・。

彼の下に集まった素晴らしいカメラ、熱意あふれるスタッフ、芝居のまともにできる俳優たち。

そこに、中学生が書いたような脚本・・・。

映像ひとコマひとコマは魅力的なのに、俳優の口から出る奇妙なセリフ。奇妙な展開。

あと一枚違ったら、フルハウスだったのに・・・。



自分のことを棚に上げたが、人のことは言えない。

僕も全く属性の違う幾つかの性格がケンカしながら共存しているような気がする。

対象を分析するのに必要な理性。

それにうまくかみ合わないような噛み合うような、芸術家のようにナイーブな感受性とアップダウンの激しい気性。

小説家にするには頭でっかちで文才がなく、芸術家にするにも能力がなく、学者にするにも冷静さに欠けるきらいがある。

それでも生きていかなくちゃいけない。

そういうアンバランスさから生まれる新しいものがあると信じたりしつつ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿