それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

「正解の返し」問題、つまり好感度の高い人を受け容れられない私の心の問題

2013-07-20 16:18:15 | コラム的な何か
挨拶しておかねばならなかったのだが、ずっと挨拶出来なかった研究者に、昨日の研究会でようやく挨拶できた。

事情を話すとあまりにもややこしいだけではなく、私が今お世話になっている大学のことをこと細かに書くことになるので省く。

この研究者の見た目は非常に華やかで、誰が見てもプラスの評価をする見た目である。

研究者で見た目がここまで良いのは、かなり珍しいと言われている。

私が彼女に挨拶したとき、彼女の返答はすべて「正解」だけで構成されていた。



「正解の返し」という概念がぼんやりある。

バラエティ番組が全盛の昨今だからこそあるのだろう。

下世話な話題をどうせだから話そうと思うが、昨晩のテラスハウスでも「正解の返し」という言葉が出てきた。

イケメンの(自称)写真家の男性が、フラットメイトの女性たちに対して「正解の返し」をし続けていた。という場面である。

「正解」とは何だ?それは文脈による。

テラスハウスのこの場面では、おしゃれで、相手の好意を引き出せて、男性的で、遊びはあるがやや落ち着いた雰囲気の回答のことを指していた。

ちなみに、僕に某研究者が行った「正解」の返しは、相手(=僕)の感情に上手く訴え、確実に仲間であることを伝えつつ、しかし深くは関係しないようにする、IQと好感度の高い、適切な返答である。

どちらも要するに、「高感度が高くなる返答」なのである。

もちろん「正解」には色々ある。

客観的に基礎づけられるわけではない。あくまで主観的なものだ。

「空気を読む」の「空気」に似ている。

突き詰めると無いが、無いと言うには有り過ぎる。



僕が言いたいのは、「正解」が何か客観的に決めようとか、そういう馬鹿みたいなことじゃなくて、

「正解」を口にすることが正解であったとしても、

「正解」をそのまま受け取ることが正解なのかどうかは分からない、ということなのである。

容姿が整っていて、

物事の理解が早く、

人から嫌われないタイプの人が、

見事に「正解」の返しをする、という状況。

私はどうしても解せないのである。

それはどこまで信頼できる相手なのだろうか?

答えはこうだ。

お前(私)の信頼を彼らはそれほど欲していない。

私が卑屈なのか?

そうだ。私が卑屈なのだ。

だからこそ、あえて言いたい。

好感度の高い返しは、卑屈な人間にとっては「正解」とは限らないということを!

いや、知っている。

これは強がりだ!

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