消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(285) オバマ現象の解剖(30) 金融権力(7)

2010-02-27 22:01:22 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 注


(1) ここで、共和主義を当時の文脈の下で説明しておきたい。リパブリカンとは、米国初期の政党である民主共和党(Democratic-Republican Party)を指す。一七九二から一八二四年まで存続した。一七九二年にジェファーソンとジェームズ・マディソンによって創設された政党であるが、この呼び名は政敵たちが使用したもので、自らは、リパブリカン(Republicans)とかデモクラート(Democrats)と称した。一八〇〇~二四年の政権党であった。しかし、一八二四年に分裂し、その一つが現在の民主党(Democratic Party)になった。政敵は連邦主義者(Federalists)たちであった。連邦主義者の党の連邦党(Federalist Party)は、民主共和党設立の一年前にアレキサンダー・ハミルトンによって創られたものである。

 リパブリカンたちは、当時フランスと戦争そしていた英国との一七九四年ジェイ条約(Jay Treaty)に反対し、フランスを支持した。彼らは、憲法の厳格な遵守を主張していた。憲法起草者の一人であったハミルトンに強く反対していた。とくに、ハミルトンの国法銀行(national bank)設立案と国家債務は国民のためになるという主張に猛烈に反対していた。それが憲法の精神に反するからという理由であった。彼らは、ジェファーソンの強烈な金融・商工業者への警戒感を巡って分裂することになる。マディソンや北部デモクラート(Northern Democrats)は金融・商工業者に対してそれほどの警戒感を示さなくなっていた。それに対して、ジェファーソンや南部リパブリカンたちは、依然としてそうした層への嫌悪感を維持していた。

 ジェファーソンたちは、旧いリパブリカン(Old Republican)と呼ばれ、低関税・州権・厳格な憲法・財政支出削減を求め、連邦政府の常備軍(standing army)の設立に反対した。これに対して、ヘンリー・クレイ(Henry Clay)、ジョン・カルハウン(John C. Calhoun)によって主導される国民リパブリカン(National Republicans)たちは、高関税・国防強化・公共投資などによる国内改造を訴えていた。そして政敵の連邦党が一八一五年に分裂し、元メンバーの多くが民主共和党の国民リパブリカンというナショナリスト分派に入った。

 一七九六年、ジェファーソンは、民主共和党の最初の大統領候補となるが、連邦党のジョン・アダムズに敗れた。初代大統領は無党派のワシントンである。アダムズは米国二代目大統領である。ジェファーソンは、アダムズの副大統領となった。これは、異なる政党から大統領と副大統領がでた数少ない例である(ほかに一八六五年のリンカーン(Lincoln)大統領(共和党)・ジョンソン(Johnson)副大統領(民主党)の例がある)。一八〇〇年の選挙でジェファーソンはアダムズを破り、民主共和党の最初の大統領で、第三代米国大統領となり、二期続いた。その後、アダムズ(一八〇八年、一八一二年)、ジェームズ・モンロー(James Monroe、一八一六年、一八二〇年)とリパブリカンが政権を握り続けた。しかし、その後、民主共和党は分裂を繰り返し、その中から、一八二四年、アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)によって現在の党に連なる民主党(Democratic Party)ができた。また、クレイの国民リパブリカンはホィッグ党(Whig Party)になる。

 民主共和党の議席比率の推移を記す。一七八八年(下院四三%、上院三一%)、一七九二年(下院五一%、上院四七%)、一七九六年(下院四六%、上院三一%)、一八〇〇年(下院六三%、上院五三%)、一八〇四年(下院八二%、上院七一%)、一八〇六年(下院八三%、上院八二%)。米国の建国当初は、民主共和党と連邦党という二大政党対立時代であったが、連邦党は、一八〇四年のハミルトンの死後、指導者に恵まれなかったこともあり、急速に勢力を縮小させてしまった。そして、一八一五年ハートフォード会議(Hartford Convention)で党は分裂してしまった(http://franklinjefferson.blogspot.com/; http://www.history.com/encyclopedia.do?vendorId=FWNE.fw..de035500.a;   http://www.u-s-history.com/pages/h445.html)。

(2) 大陸会議(Continental Congress)は、英国からの自立を求めて開催された米国一三州からなる会議。一七七四年九月から一〇月まで続いた第一次大陸会議では、一三州のうち一二州が参加。ジョージア(Province of Georgia)は参加しなかった。英国製品ボイコットを含む各州の合意が形成された。参加州は、以下の一二州。①ニューハンプシャー(Province of New Hampshire)、②マサチューセッツ(Province of Massachusetts Bay)、③ロード・アイランド(Colony of Rhode Island and Providence Plantations)、④コネチカット(Connecticut Colony)、⑤ニューヨーク(Province of New York)、⑥ニュージャージー(Province of New Jersey)、⑦ペンシルバニア(Province of Pennsylvania)、⑧デラウェア(New Castle, Kent, and Sussex, on Delaware)、⑨メリーランド(Province of Maryland )、⑩バージニア(Colony and Dominion of Virginia)、⑪ノースカロライナ(Province of North Carolina)、⑫サウスカロライナ(Province of South Carolina)(http://www.britannica.com/EBchecked/topic/134850/Continental-Congress)。

 第二次大陸会議は一七七五年五月から一七八一年三月にかけて開催された一三州の会議。今度は、ジョージアも参加した。第二次大陸会議中に、一七七五年四月一九日のレキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)によって独立戦争が開始された。大陸軍(Continental Army)が結成され、ワシントンが総司令官。一七七六年七月四日、独立宣言(Unanimous Declaration of the Thirteen United States of America)発表。大陸会議は第一次、第二次ともフィラデルフィアであったが、英国軍に占領され、一七七七年九月にヨーク(York)に開催地を変更。各州同盟の目的をはたした大陸会議は一七八一年三月一日にいったん解散し、翌日の二日に連合会議(Congress of the Confederation)が新たに結成され、同じメンバーで独立戦争を終結させる会議となった(http://www.u-s-history.com/pages/h656.html)。

(3) すでに財政危機にあったフランス国王は、英国の弱体化を狙って、米国独立戦争(一七七五~一七八三年)を支援した。一七七六年に武器販売によって、フランスは戦争に関与し始めた。武器は、ポルトガルの会社ロドリク・ホルタレス・エ・コンパニー(Rodrigue Hortalez et Compagnie)を通じて密かに米国に渡された。一〇〇万ポンド前後の援助であったとされる。米国は、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)、アーサー・リー(Arthur Lee)などが、ヨーロッパ各国の関与を求めるロビー活動を展開していた。結局、一七七八年二月六日、ルイ一六世(Louis XVII)がベンジャミン・フランクリンと合意し、一三植民地と正式に同盟を結ぶことを決めた。直ちに参戦し、一七八一年一〇月一九日、フランス艦隊は、ヨークタウンでの米国の勝利に大いに貢献した。これで、米国に主要な戦闘は終わり、局面では、米国外での英国とフランス、さらにはフランスと同盟したスペインも加わる領土争いに転換した。英国は、一七八三年に休戦に応じ、同年のパリ条約に調印した(Treaty of Paris)。パリ条約で、フランスは、一七六三年に失った領土のうち、トバゴ島(Tobago)、セントルシア(Saint Lucia )、セネガル川(Senegal River)領域、ダンケルク(Dunkerque)を回復し、テラ・ノヴァ(Terra Nova)の漁業権を得た。スペインは、メノルカ(Menorca)を回復したが、ジブラルタル(Gibraltar)は英国の手に残った。
 フランスは、参戦によって、一〇億リーブル以上の戦費を使い、国家負債累計額は三三億リーブルにものぼった。この財政危機がフランス革命を呼び込んだのである(  http://people.csail.mit.edu/sfelshin/saintonge/frhist.html)。

(4) ジェファーソンは、ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリンとともに、対欧州政策を展開するために、一七八四年にフランスに渡った。米国は、独立しても、輸入品の八五%が英国からのものであり、この多様化を欧州に求めるために、初代大統領のワシントンが彼らを派遣したのである。翌年、彼らは、プロシア(Prussia)、デンマーク、トスカーニ(Tuscany)との通商協定の調印に成功した。その直後、ハミルトンは単独の駐仏米国大使になる。アダムズは駐英大使になった。このとき八〇歳になるフランクリンが引退した。ジェファーソンは、革命前後のフランスをつぶさに見たのち、一七八九年に帰国した(http://www.sparknotes.com/biography/jefferson/section9.rhtml)。

(5) 一七九一年、ハミルトンが課税強化の一つにウィスキーの酒税を引き上げたことから、ペンシルバニア(Pennsylvania)州西部の農民の大規模な反乱がおこった。この地域ではバーボンの原料であるトウモロコシの生産に特化していた。トウモロコシは、奥地の農民の重要な現金収入源であった。ウィスキー課税は奥地農民を追いつめた。彼らが暴動を起こし、連邦政府と全面対決した。この暴動を鎮圧するために、一七九四年八月七日、ワシントン大統領が一万三〇〇〇人からなる民兵(militia、一八歳以上四〇歳未満))を組織した。この人数は独立戦争時の人数に匹敵するものであった。この民兵組織もハミルトンが主導した一七九二年の民兵法(the Militia Law of 1792)に基づくものであった。これは、連邦政府の常備軍創設の最初の試みであった。この鎮圧には、ワシントン大統領とともに、ハミルトンも戦場におもむいた(http://www.earlyamerica.com/earlyamerica/milestones/whiskey/)。

(6) 第一次マナサスの戦いでは、北軍が敗退し、ワシントンまで敗走した。この戦いを北軍はブルランの戦い(Battle of Bull Run)といい、南軍は、マナサスの戦いという。南北戦争の最初の陸上戦である。マナサスはバージニア州の地域、ブルランはその地域の支流の名前。南軍が南北戦争の本格化とともに緒戦に大勝したことは、戦争を長期化させる要因になった(http://americanhistory.about.com/od/civilwarbattles/p/cwbattle_bull1.htm)。

(7) この二重銀行制度の下では、国法銀行については、OCC(通貨監督局=Office of the Comptroller of the Currency)、FRB(連邦準備制度理事会=Federal Reserve Board)、FDIC(連邦預金保険公社=Federal Deposit Insurance Corporation)が規制・監督するが、州法銀行は、原則として州の銀行局が権限を持つ。ただし、州法銀行であっても、FDICに加入が許され、その場合には、FDICの監督下に入る。同じく、FRBに加入しておれば、FRBの監督に従う(http://www.answers.com/topic/dual-banking)。

(8) 法律的には、主体を自然人という生きた人間と、非自然人(artificial-person)という人間が委託した間組織とに分けられる。法人(juridical person)が非自然人の代表格である。具体的には企業などがそれに当たる(http://www.natural-person.ca/artificial.html)。

 


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