消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(271) オバマ現象の解剖(16) ハミルトン・プロジェクト(2)

2010-02-05 20:21:16 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 一 ロバート・ルービン


 ローバート・ルービンは、一九三八年生まれで、一九九五年一月一一日から一九九九年七月二日まで、第一期と第二期のクリントン(William Jefferson“Bill”Clinton)政権の第七〇代米財務長官(United States Secretary of the Treasury)を務めた。前任はロイド・ベンツェン(Lloyd Bentsen)であった。

 彼の実務家としての出発点は、ニューヨークの法律事務所、クリアリィ・ゴットリーブ・スティーン&ハミルトン(Cleary, Gottlieb, Steen & Hamilton)の弁護士であった。

 一九六六年、ゴールドマン・サックス(Goldman Sachs)に入行。一九七一年にゼネラル・パートナー(General Partner)に昇進して、一九八〇年には経営陣に加わった(2)。一九八七~一九九〇年副議長(Vice Charman)兼共同チーフ・執行委員(Co-Chief Operating Officer)。一九九〇~九二年、スティーブン・フリードマン(Stephen Friedman)と組んで、共同議長(Co-Chairman)兼共同シニア・パートナー(Co-Senior Partner)になる(http://www.sec.gov/Archives/edgar/data/831001/000119312508055394/ddef14a.htm)。

 九三年~九五年、大統領経済政策助言者としてホワイトハウスに入り、新設された国家経済会議(NEC=National Economic Council)を指揮した。NECは各省庁を超えた権限を持ち、予算から国際貿易におよぶ広汎な事項を審議・政策作成する機関である(http://www.citigroup.com/citigroup/profiles/rubin/. Retrieved 2008-02-20)。同会議におけるルービンの指導力を、元ソ連駐在米国大使のロバート・シュトラウス(Robert Strauss)は、一九九四年に絶賛していた(Ullmann[1994])。

 九五年、上述のように、ルービンは財務長官に就任したが、その直後の九五年一月、メキシコが対外債務のデフォルト(支払い停止=default)危機に陥った。メキシコは、九四年にNAFTA(北米自由貿易協定=North American Free Trade Agreement)に参加したばかりであった。クリントン政権は、ルービンと当時のFRB(連邦準備理事会=Federal Reserve Board)議長(Chairman)のアラン・グリーンスパン(Alan Greenspan)と相談して、ESF(為替安定基金=Exchange Stabilization Fund)から二〇〇億ドルもの緊急融資をメキシコ政府に供与した(Devroy & Chandler[1995])。

 一九九七年と一九九八年には、ロシア、アジア、ラテンアメリカで大規模な通貨危機が生じた。この危機に対応すべくIMF(国際通貨基金=International Monetary Fund)を梃子にしてこれら地域の経済政策作成に介入したのが、グリーンスパン、財務長官ルービン、副財務長官(Deputy  Secretary Secretary)ローレンス・サマーズ(Lawrence Summers)の三人組であった(Ramo[1999])。

 こうした金融危機の慢性化を危惧していたCFTC(商品先物取引委員会=Commodity Futures Trading Commission)委員長のブルックズレー・ボン(Brooksley Born)は、その大きな原因の一つにOTC(店頭取引=Over The Counter)があると認識して、店頭取引されている金融派生商品(デリバティブ=derivatives)を放置すれば、過度の信用膨張で米国金融は崩壊するとして、規制の必要性を訴えた(CFTC[1998])。このとき、この三人組が規制の導入に強力に反対した。SEC(証券取引委員会=US Securities and Exchange Commission)委員長のアーサー・レービット(Arthur Levitt)も反対の陣営に加わった。ボーンの危惧通りに金融派生商品群が世界的な金融危機を勃発させ、結果的にボーンが正しく、ボーンに強力に反対した三人組が間違っていたのであるが、三人組の影響力は危機勃発後もいささかも衰えず、彼らの人脈はオバマ政権の中枢にいる(Roig-Franzia[2009])。レービットの証言によれば、ルービンとグリーンスパンのボーン案への批判は激越なものであったという(Goodman, [2008])。ただし、ルービンは、回想録で、デリバティブの危険性を認識していて、デリバティブ取引をしている人たちの多くがその危険性を十分意識していないとの危惧感を表明している(Rubin[2003], pp. 187-88. 邦訳、四四八~四九ページ)。

 一九九九年、ルービンは財務長官を辞任し、後任にサマーズが就いた。ルービンの引退にさいして、クリントン大統領は、「アレキサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)以来のもっとも偉大な財務長官であった」と激賞した(http://www.ustreas.gov/education/history/secretaries/rerubin.shtml)。ルービンが、のちにハミルトン・プロジェクトを立ち上げたのもクリントンのこの言葉がきかけになったのではないかと想像される。

 財務長官辞任後は、シティグループ(Citigroup)の経営陣に加わり、二〇〇一年にはエンロン(Enron)を救済すべく、財務省に働きかけたが断られた(Noah, Timothy,"The sainted former treasury secretary makes a sleazy phone call, and nobody cares,".http://www.slate.com/id/2060712/)。エンロンを倒産させてしまえば、米国金融界が崩壊するという訴えであったが、エンロンへの大口債権者が、ルービンの属するシティグループであった(3)。

 〇三年一〇月、外交問題評議会(CFR=Council on Foreign Relations)の副議長となる。〇六年四月に、ブルッキングズ研究所でハミルトン・プロジェクトを組織する。〇七年六月にはCFRの共同議長となる。

 シティグループでは、同社会長(Chairman)兼CEO(Chief Exective Officer)のチャールズ・プリンス(Charles Prince)が、〇七年一一月五日、サブプライムローン問題で大きな損失を出したことの経営責任をとって辞任した。〇七年一〇月中旬に発表していた損失予想額二〇億ドルをはるかに越える八〇~一一〇億ドルになる可能性があると、プリンス会長は一一月五日に発表し、翌日辞任したのである(http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/7078251.stm)。そして、ルービンが、二〇〇七年一一月から一二月、同社の一時的な会長(Chairman of Citigroup)を務めることになった。ルービンは、すぐさま、UAE(アラブ首長国連邦=United Arab Emirates)のADIA(アブダビ投資庁=Abu Dhabi Investment Authority 、一九七六年設立)から七五億ドルの融資を受けると一一月二六日に発表した(http://www.afpbb.com/article/economy/2307945/2318917: http://www.nytimes.com/2009/01/10/business/10rubin.html?_r=1&hp)。

 ルービンは、二〇〇八年に詐欺容疑で投資家グループから告発された(Tharp[2008])。売れる見込みのない妖しげなCDO(4)を組み直してシティグループが作ったペーパー・カンパニーに買い取らせ、本来なら会計帳簿に載せなければならない膨大な損失を隠蔽して、シティグループ株の暴落を防ごうとしたというのが告訴内容である。不正操作による株価維持をしつつ、経営陣は、暴落前に自社株を売り抜け、一億五〇〇〇万円もの利益を得たというのである。その売り抜けによって、ルービンは三〇六〇万ドル、プリンスは二六五〇万ドルを稼ぎ出した。

 〇八年一一月二三日、シティグループは、米国政府から追加支援を受けることで合意したと発表した。シティグループが抱える不良資産三〇六〇億ドルによって将来発生するであろう損失のうち、米国政府が二四九三億ドルを肩代わりするほか、公的資金二〇〇億ドル注入するということであった。大前研一はそれを糾弾していた。
 「この発表を聞いて私は呆れ果ててしまいました。これは金融危機に対応した救済策などではなく、もはや米国政府による犯罪行為だと言っても過言ではないと思います。ガイトナー・ニューヨーク連銀総裁(President of New York Federal Reserve Bank)、ポールソン財務長官を始めとした米金融界の有力者たちが、ロバート・ルービン元米財務長官(現シティグループ顧問)に恩義を感じているために、無理矢理シティを救済しようとしているとしか思えません」(http://www.ohmae.biz/koblog/viewpoint/1208.php)。

 二〇〇九年一月九日、ルービンは、上級顧問を退き、〇九年春の年次総会後に取締役も辞任示した。CEOのパンディット(Vikram Pandit)に宛てた書簡の中で、ルービンは、「私自身を含め長期にわたりこの業界に関わった非常に多くの人間が、金融システムが今日直面している非常に厳しい状況の重大な可能性を認識できなかったことは極めて遺憾」と述べた(http://jp.reuters.com/article/domesticFunds/idJPnJT831321820090109)。
 ルービンが辞任前の〇八年にシティグループから得た収入は、給与が一七〇〇万ドル超、ストックオプションによる利益は三三〇〇万ドルであった(http://people.forbes.com/profile/robert-e-rubin/19713)。

 『ウォール・ストリート・ジャーナル』(Wall Street Journal)紙が発行する『マーケットウォッチ』(MarketWatch)という電子ジャーナルがある。この〇九年一月一五日の記事で、ルービンは、倫理のない実業家一〇人の一人に名指しされた(Kostigen[2009])。そもそも、この企画は、「世界でもっとも倫理ある実業家一〇〇人」("100 Most Influential People in Business Ethics")を発表している『倫理マガジン』(Ethisphere Magazine)という電子メディア(http://ethisphere.com/100-most-influential-people-in-business-ethics-2008/)の向こうを張って、「もっとも倫理のない一〇人」を選んだものである(5)。

 ルービンについては、以下のことが記されている。

 「本人の意図がどうであったかにかかわらず、ルービンは、二〇〇八年の金融危機をもたらした人物のひとりである。彼が財務長官のときにおこなった規制緩和が、今日の問題の多くを引き起こしたといまや非難されている。彼はまた、レバレッジによるより大きなリスクをとったことによってシティグループを引き倒した犯人でもある」。

 この記事を書いたトーマス・コスティゲン(Thomas Kostigen)には地球環境問題を論じた著作があり(Kostigen[2008])、同じく地球環境問題を論じた共著はベストセラーーになった(Rogers & Kostigen[2007])。