消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(280) オバマ現象の解剖(25) 金融権力(2)

2010-02-19 00:01:58 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 一 リパブリカンとフェデラリスト


 米国には、ジェファーソニアン・デモクラシー(Jeffersonian Democracy)の伝統がある。強い自由競争指向とともに、州権の重視、金融独占への嫌悪、小さなコミュニティ尊重などがその内容である。この言葉は、トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson、一七四三~一八二六年)にちなむものである。米国の歴史では、一八〇〇~一八二〇年代に理想として試みられた政策を指す。これは、その後に試みられたジャクソニアン・デモクラシー(Jacksonian Democracy)と対比される。

 ジェファーソニアン・デモクラシーは、以下のように一般的に理解されている。
 ①米国政治体制の核は代議制民主主義(representative democracy)にあり、市民は州政府(state)を支え、州政府が君主制(monarchism)や貴族制(aristocracy)などに堕落することに抵抗する義務を負う(Banning[1978], pp 79-90より)。

 ②都市の悪しき影響力に屈しない市民の徳と独立性を象徴するのが、自作農民(yeoman farmer)である。政府の政策は彼らの利益に資するものでなければならない。投資家(financiers)、銀行家(bankers)、工業家(industrialists)たちは、都市を堕落の汚水池にしてしまっている ので排除されるべきである(Elkins & McKitrick[1995], ch.  5より)。

 ③米国人は、「自由の帝国」(Empire of Liberty)を世界に普及させる努力を払わなければならないが、「紛糾をもたらす同盟」(entangling alliances)は避けなければならない( Hendrickson & Tucker[1990])。

 ④人々や国家・コミュニティの共通の利益・保護・安全を組織するために、連邦政府(national government)が必要であるが、そこには危険性もある。したがって、連邦政府はきちんと監視され、その力は制限されなければならない。

 このように、連邦政府の力の強化に反対する人たちが、「反連邦主義者」(Anti-Federalists)として、一七八七~八八年にジェファーソン主義に結集した。

 この思潮に反対していたのがフェデラリストであった。フェデラリストとは、広義には、連邦主義者のことであり、連邦制国家における中央政府の権限拡大を支持する人々で、狭義には米国建国直後に結成された政党名とその支持者を指す。ワシントン(George Washington)、ハミルトン(Alexander Hamilton)、ジョン・ジェイ(John Jay、一七四五~一八二九年)などが指導者であった(Banning[1978], pp 105-15より)。

 ⑤共和主義(Republicanism)が政府形態として最善である(Dilday[2007], p. 92)(1)。

 レパブリカンたちが憎悪したフェデラリストのアレキサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton、一七五五(七?)~一八〇四年)
について説明しておこう。ハミルトンは、カリブ海西インド諸島ネイビス(Nevis)に生まれる。ジョージ・ワシントン(George Washington、一七三二~一九九年)将軍の下で独立戦争(the American Revolution、一七七五~八三年)に従軍。初代大統領になったワシントンの下で、初代財務長官(United States Secretary of the Treasury)。財務長官時代に連邦党(United States Federalist Party)創設。建国の父(Founding Father)の一人。フィラデルフィア憲法会議(Philadelphia Convention)呼びかけ人。『連邦主義者報告』(the Federalist Papers)共同編集者。大陸会議(Continental Congress)議員に選ばれるが、ニューヨーク銀行(Bank of New York)設立準備のために辞任。英国の政治体制賛美者。強力な中央政府論者。国債・州債発行論者。国の認可銀行(national bank)設立論者。輸入関税・酒税(whiskey tax)導入論者。常備国軍設立論者(Chernow[2004], pp. 90-94)。

 一七八〇年、当時のニューヨーク州の大富豪で有力政治家のフィリップ・シャイラー(Philip Schuyler)将軍(General)の娘、エリザベス(Elizabeth)と結婚。孤児となり辛酸をなめてきたが、この結婚によって上層階級の仲間入りすることになった。

 ワシントンと行動をともにするうちに、ハミルトンは、大陸会議(2)の資金的裏付けに乏しいことに憤りを覚えていた。連邦政府は、独自の徴税力を持たず、各州からの献金とフランス国王からの援助金(3)、ヨーロッパ諸国からの借金等々に依存し、独立戦争を戦う軍備も財政難で思うようにならなかった(Rakove[1997], p. 324)。ハミルトンの中央政府強化論はそうした経験から出たものであろう。

 ヨークタウン(Yorktown)における勝利を収めたのち、ハミルトンは軍務を辞め、一七八二年、この年に新しく発足した連合会議(Congress of the Confederation)のニューヨーク選出議員になる。会議で、ハミルトンは、徴税権確保に奔走した。中央銀行設立案もそのときに提出されたものである。

   一七八三年に連邦会議を辞し、ニューヨーク弁護士会に登録(Chernow[2004], p. 160)。

一七八四年、ニューヨーク銀行(Bank of New York)設立。これは、現在でも存続し、米国最古の銀行である。一七八六年、アナポリス会議(Annapolis Convention)議員になり、そこで、憲法を制定し、それに基づく、強力かつ財政力あり、州政府からは独立した中央政府の設立を求める決意書を提出した。そして、一七八七年、米国の独立達成後、ニューヨーク地区議会から憲法会議(Constitutional Convention)メンバー.に選ばれた。これが、一七八七年五月~九月に開かれたフィラデルフィア憲法制定会議(Philadelphia Convention)である。ちなみに、この憲法起草に関わった五五人が建国の父と呼ばれる人たちである。

 ハミルトンは、会議の初期段階で、選挙の洗礼を受ける大統領と上院議員の制度を主張し、絶対的権限を有する強力な中央政府樹立を提言していた。州政府知事も中央政府によって指名されるとしたのである。ただし、彼の主張は大した影響力を持たなかった(Mitchell[1957], pp. 397 ff. )。憲法起草案には、ハミルトンの激しい主張は盛り込まれなかったが、それでも、彼は起草案に署名し、細部をつめるべく、計八五巻の『フェデラリスト・ペーパーズ』(Federalist Papers)を発刊した。これは、いまでも米国憲法を語るさいの一級の資料になっている(Lupu[1998], p. 404)。

 一七八一から八九年までは、米国一三州の連合規約(Articles of Confederation)が事実上の米国憲法であった。連合規約とは、独立戦争において一三の植民地の相互友好同盟を定めた規約であり、このとき、連合の名称を「アメリカ合衆国」(United States of America)と定めた。米国憲法ができる前の暫定憲法の位置づけであった。一七七七年に採択され、一七八一年までにすべての州で批准された。しかし、一七八七年に米国憲法が制定され、一七九〇年全州が憲法を批准するとともに、連合規約の効力が失効した(http://www.earlyamerica.com/earlyamerica/milestones/articles/)。

 一七八八年、ハミルトンは、ニューヨークで憲法批准を進める役割を担った。批准に大きな影響力を示したのが、妻の実家のシャイラー家であり、ハミルトンは、上院議員に妻の親、フィリップ・シャイラー(Phillip Schuyler)を新憲法に基づく上院議員候補に押し立てることに成功した。ただし、最終的に決闘することになるアーロン・バー(Aaron Burr)とは、この時点で不和の関係になった(Lomask[1979], pp. 139–40, 216–7, 220)。

 上述のように、ワシントン初代大統領によって、ハミルトンは、一七八九年九月に財務長官に任命され、一七九五年一月まで職務に止まった。財務長官時代に、ハミルトンは多数のレポートを書いている。なかでも、次のものが重要である。いずれも下院に向けたものである。①『公信用について』(一七九〇年一月一四日)(On the Public Credit)、②『公信用、国の認可銀行について』(一七九〇年一二月一四日)(On Public Credit: On a National Bank)、③『造幣局の設置について』(一七九一年一月二八日)(On the Establishment of the Mint)、④『製造業について』(一七九一年一二月五日)(On the Manufacturing)。

 『公信用について』は、ジェファーソン主義者たちの神経を逆なでするものであった。それは、独立戦争で負った各州の負債を、連邦政府が肩代わりし、連邦政府の財政基盤を強化するためにも大規模な国債を連邦政府に発行する権限が付与されるべきであるという内容であった。これは、当時の国務長官(Secretary of State)であったトーマス・ジェファーソンやハミルトンの盟友であった議員、ジェームズ・マディソン(James Madison、一七五一~一八三六年)たちによる猛烈な反発を招いた。各州の負債を連邦政府が一律に肩代わりするということは、ジェファーソンの出身州、バージニアのように戦費の大半を供出していた州も、ほとんど供出をしなかった州も区別なく救済されるということで、納税者たちは納得しないとか、憲法の厳密な適用を考えればこの案は憲法の精神からの重大な逸脱であるというのが反対の理由であった。

 また、独立戦争に参加していた軍人たちに、大陸会議は、十分な俸給を支払っていず、連邦政府になってからは、債券で退役者たちに未払いの報酬部分を肩代わりしていた。つまり、軍人たちに渡された債券は債務支払い証書であった。当然、この債券は大幅に価値低下していた。そうした情況を放置したままで、大量の国債を連邦政府が発行するということは、退役軍人に発行した債券をめぐる大きな投機が起こるだろうと、マディソンはハミルトンの政策を批判した。フランスから帰国したばかりのジェファーソンの反対に同調した人のグループがリパブリカン、ハミルトンに同調した人のグループがフェデラリストと呼ばれるようになったのである(Max, ed.[1937], vol. 3, pp. 533-34)。結局、一七九〇年七月二六日、僅差でハミルトンが下院を乗り切った(Miller[2003], p. 251)。

 しかし、ハミルトンが第二代米国大統領のジョン・アダムズ(John Adams、一七三五~一八二六年、大統領在任期間、一七九七~一八〇一年)と敵対したために、一八〇〇年、対立政党の民主共和党が大統領選で勝利。ハミルトンの影響力が急速に衰える。一八〇一年、連邦主義の主張を展開する『ニューヨーク・ポスト』(New York Post)を創刊(Nevins[1922], p. 17)。一八〇四年、ジェファーソン政権での副大統領、アーロン・バーとの確執の末に決闘、翌日死去(四九歳)("Today in History: July 11". Library of Congress. http://memory.loc.gov/ammem/today/jul11.html)。


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