消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(276) オバマ現象の解剖(21) ハミルトン・プロジェクト(7)

2010-02-10 21:39:39 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 おわりに


 米国の金融関係の政府高官には、ゴールドマン・サックス(以下GSと表記する)出身者が多い。これは、少なくとも正常なこととはいえない事態である。
 ルービンはもとより、子ブッシュ政権時代の財務長官、ヘンリー・ポールソン(Henry Paulson)は一九九九年から〇五年までゴールドマン・サックスの会長兼CEOであった(http://search.bloomberg.com/search?q=Henry+Paulson&site=wnews&client=wnews&proxystylesheet=wnews&output=xml_no_dtd&ie=UTF-8&oe=UTF-8&filter=p&getfields=wnnis&sort=date:D:S:d1)。

 同じくブッシュ政権下の財務次官補、ニール・カシュカリ(Neel Kashkari)もGS出身。インド系米国人である。ポールソン財務長官は、〇八年一〇月六日、緊急金融安定化法(緊急経済安定化法とも呼ばれる。Emergency Economic Stabilization Act of 2008)で定められた七〇〇〇億ドルの実行のための不良資産買い取り業務の責任者として、カシュカリを財務省・金融安定化担当次官補に任命した。カシュカリは、この時点で三五歳という青年であった。〇六年七月、ポールソンが、財務省入りをしたときに、GSでの部下であったカシュカリを同行させたのである。GS時代には、サンフランシスコで、IT証券投資銀行業務、M&A業務を統率していた(http://indonews.jp/2008/10/gs.html)。

 子ブッシュ大統領の首席補佐官(White House Chief of Staff)ジョシュア・ボルトン(Joshua Bolton)もそうである。

 元USTR(通商代表部=US Trade Representative)で、世銀理事のロバート・ゼーリック(Robert Zoellick)もGS出身である(http://www.alor.org/Volume44/Vol44No40.htm)。

 ニューヨーク連邦銀行議長(Chairman of New York Reserve Bank)のスティーブン・フリードマン(Stephen Friedman)も、長年GSに勤務し、一九九〇から九二年までは共同会長、一九九二~九四年の単独会長であった。フリードマンは、〇二~〇五年、子ブッシュ政権下の経済政策の大統領補佐官(United States Assistant to the President for Economic Policy)、NEC理事(Director)、ブルッキングズ研究所理事、CFR(外交問題評議会=Council on Foreign Relations)のメンバーでもある。GS社外重役も長年務めていた( http://www.ibtimes.com/articles/20090507/ny-fed-chairman-stephen-friedman-resigns.htm)。

 そもそも、ガイトナーをニューヨーク連銀総裁に推薦したのは、ジョン・ホワイトヘッド(John C.Whitehead)である(http://www.democraticunderground.com/discuss/duboard.php?az=view_all&address=389x5609368)。

 しかし、〇九年五月四付『ウォール・ストリート・ジャーナル』(Wall Street Journal)が、〇八年九月のGS救済に疑惑があると報じた。GSは、経営危機回避策として財務省からの銀行持株会社(bank holding company)への模様替え勧告を直ちに受け入れ、預金銀行形態に転換し、FRBから一〇〇億ドルの資本注入を受けた。投資銀行形態なら、FRBのからの資本援助を受けることができなかったからである。しかし、ここで問題が生じた。フリードマンが、現役のGS重役であったうえに、GSの大株主であったからである。預金銀行監督機関であるFRBの幹部が、監督対象である預金銀行の経営者であるということになると、法的な問題が生じる。FRBの基本線が崩されてしまう。まさにこの渦中で、フリードマンが、〇八年一二月と〇九年一月に大量のGS株を購入していたことが、発覚した(http://online.wsj.com/article/SB124139546243981801.html)。

  フリードマンは〇八年一二月に三万七三〇〇株ものGS株を購入した。その後、一年期限の辞職勧告をFRBから受けたのであるが、勧告を受けた直後の〇九年一月さらにGS株を買い増した。これはSECによって明らかにされた。FRBの救済を受けたGSの株価が反騰し、フリードマンはこの二度の購入で三〇〇万ドルもの利益を帳簿上であるが得たことになる。『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙とのインタビューで、彼は、〇九年末にはニューヨーク連銀を辞める意向であることを明かしたが、株式購入については、自分は連銀の政策を決定する立場にはないので、自分のGS株購入にはなんらの不都合はないとも開き直っていた。

 しかし、これは屁理屈である。一九一三年の連銀法では、FRB参加の一二の地域準備銀行は公的と私的利益の折衷である。各銀行の理事会は九人の理事からなる。三人は加盟銀行出身、三人は公人から、そして三人はワシントン本部のFRBの指名である。フリードマンは、ワシントン本部の指名による理事であった。したがって、彼は政策決定の当事者だったのである。

 結局、フリードマンは、〇九年五月七日、ニューヨーク連銀議長を辞任した(http://abcnews.go.com/Business/wireStory?id=7532268)。

 『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙(〇九年五月八日付)で、ジョン・ヒルセンラース(Jon Hilsenrath)とケイト・ケリー(Kate Kelly)が、「ニューヨークFed議長、疑惑の渦中で辞任」(Chairman of N.Y. Fed Quits Amid Questions)という記事を書いた。

 フリードマンは、ニューヨーク連銀議長として、二〇〇九年一月二四日に財務長官に転身したティモシー・ガイトナー(Timothy Geitner)の後任として、ウィリアム・ダドリー(William Dudley)をニューヨーク連銀総裁(President)に選んだ(15)。このダドリーを採用したのはガイトナーであったが、ダドリーもまたGS出身者である。

 ガイトナーは、ニューヨーク連銀のリスク分析担当にE・ジェラルド・コリガン(E. Gerald Corrigan)をすえたが、このコリンズもまたGSの副会長であった。
 〇八年決算で米国史上最大の九九三億ドルの赤字であったのに、経営陣に高額のボーナスが支払われると物議を醸したAIG(
American International Group)の会長、エドワード・リディ(Edward Liddy)もGS出身者である。〇三~〇八年にGSの重役であった。AIGのCEOに就任する前は、オールステート(All State)会長(Chairman)であった。彼をオールステート会長とAIGのCEOに推薦したのはポールソンである(Eisenberg, Carol, "Former Allstate Chairman Edward Liddy tapped (again) by Paulson," http://news.muckety.com/2008/09/18/former-allstate-chairman-edward-liddy-tapped-again-by-treasury-secretary/5092)。

 〇八年六月一五日、CEOのマーチン・サリバン(Martin Sullivan)が過去最大の損失を出したことから辞任し、後任にはロバート・ウィルムスタッド(Robert Willumstad)会長(Chairman)が就任した(CEO兼任)。しかし、経営危機がさらに深刻になり、巨額の公的支援が決定したことから、〇八年九月一八日に、ロバート・ウィルムスタッドはCEO兼会長を引責辞任し、後任にエドワード・リディが就任したのである(http://people.forbes.com/profile/edward-m-liddy/165)。

 さらに、AIG取締役(Director)のスザンヌ・ノラ・ジョンソン(Suzanne Nora Johnson)もGS出身である。〇七年に辞めるまでに彼女は二〇年以上、GSに勤務し、最後は副会長(Vice Chairman)であった(http://www.reuters.com/article/pressRelease/idUS229558+16-Jul-2008+BW20080716)。

 〇八年一〇月七日、米下院で開かれた公聴会の席上で、AIGの保険子会社であるAIG・米国ン・ゼネラル(AIG American General)の幹部が、公的資金の投入による救済が決定した一週間後の〇八年九月二二日から三〇日にかけてカリフォルニア州南部オレンジ郡の高級リゾート地で、総額四四万ドルもの豪勢な会合を開いていたことが判明した。ホワイトハウスも「卑しむべき行為」と異例のコメントを出した。当初、AIG側は、「保険業界では常識的なことである」と正当性を主張していたものの、最終的には当時のウィルムスタッド会長が「もし開催を知っていれば中止させた」と弁明した(http://sankei.jp.msn.com/world/america/081008/amr0810080941001-n2.htm)。

 今度は、〇九年三月一五日、AIGが幹部社員に対して総計一億六五〇〇万ドルものボーナスを支給したと報じられた(New York Times, March 15, 2009)。『ニューヨーク・タイムズ』紙によると、三月一三日に四〇〇人の幹部にその額が支払われた。うち、七三人が各一〇〇万ドル超を支給された。そのうち一一人はすでに退社した。支給額二〇〇万ドル超は二二人いた。最高額は六四〇万ドルであた。これに対してオバマ大統領は、「あらゆる手段を駆使してこれを阻止する」と宣言したが、阻止できなかった。AIG側は「ボーナス支給は危機前の契約で決定されたもので、支払わないと法的責任が生じる」と弁明した。米メディアは高額ボーナスを受け取ったこれら幹部・元幹部を「AIGボーナスベイビー」と揶揄している(渡部恒雄「AIGボーナスベイビー-深刻な財務省の人手不足」〇九年三月二六日、http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/772)。

 〇九年三月一八日、この問題をめぐってリディ会長が米議会公聴会での証言を求められ、ボーナス支給は、AIGを破綻寸前に陥れた住宅ローン担保証券に絡むデリバティブ取引を処理する人材の流出を防ぐためやむを得なかったと釈明。ボーナスを受け取った社員の情報開示要求にも、「従業員、家族が死の脅迫を受けている」と断固拒否した。議員の追及も空回りした。政府が八〇%の株式を保有しながら、税金の流用に等しい高額ボーナス支給を制止できなかったのである。

 リディ会長は支給計画をFRBに事前に報告したと主張した。しかし、ニューヨーク連銀総裁として〇八年九月のAIG救済に携わりながら、ガイトナー長官が知ったのは支給の三日前の〇九年三月一〇日であった。「法的権限は政府にない」として、財務省は支給を撤回させることができなかった。

 また、実際に支払われたボーナスは、一・六億ドルレベルではなく、四・五億ドルであったとの『タイム』(Time)の報道もある(http://www.correntewire.com/wsj_aig_bonus_figure_450_million_not_165_million_times_stated)。 AIGに投入された資金は、〇九年四月末時点で総額一八〇〇億ドルにものぼる(http://gensizin2.seesaa.net/article/115554693.html)。

 シティグループ(CitiGroup)に救済買収される前のワコビア(Wachovia Bank)のCEOは、GS出身のロバート・スティール(Robert King Steel)であった。

 ルービンがGS会長であったことは付け加えるまでもない。

 このように、米国の政治と経済はウォール街によって牛耳られている。さらには、ゴールドマン・サックス出身者が、強力なネットワークで米国の金融界に君臨しているのである。これでは、米国発の金融危機の元凶である米国型金融システムの根本が改革されないはずである。

 FRBへの批判も多くなった。FRBは十分の吟味時間を経ずに、あわてて、ベアー・スターンズ(Bear Stearns)やAIG(American International Group)に一兆ドルもの救済資金を注ぎ込んだ。その内容も具体的に開示されているわけではない。少なくともFRBの姿勢が問われているのである(http://online.wsj.com/article/SB124173340275898051.html)。


野崎日記(275) オバマ現象の解剖(20) ハミルトン・プロジェクト(6)

2010-02-09 21:36:03 | 野崎日記(新しい世界秩序)


五 オバマ政権に入ったファーマンとその取り巻きたち


 オバマは、大統領選の最中の〇八年六月九日、上述のジェイソン・ファーマンを陣営の経済政策チームのスタッフに加えた。ファーマンは、一九七〇年生まれの青年である。クリントン政権時代のルービン財務長官の下で経済政策担当官の役職をこなし、ブルッキングズ研究所の財政問題専門家として活躍し、ハミルトン・プロジェクトの事実上の中心人物である。キム・チップマンとマシュー・ベンジャミンは、オバマが、ファーマンを陣営の参謀に任命したのは、ハミルトン・プロジェクトに没頭しているルービン一派の賛同を得たいためであるとの観測を打ち出した(Chipmen, Kim & Mathew Benjamin, "Obama Names Rubin Ally Furman to Economic Policy Post," http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=20601103&sid=aUEIoIsU8XR4&refer=us)。

 ファーマンは、二〇〇四年大統領候補、ジョン・ケリー(John Kerry)の選挙参謀も務めた。オバマの選挙参謀には、じつに多くの金融関係者が名を連ねている(10)。
 ファーマンは、オバマ陣営に参加させる金融界の大物として、ルービン、同じくルービンの後継者でクリントン政権時代の財務長官のローレンス・サマーズ(Lawrence Summers)、元FRB副議長のアラン・ブリンダー(Alan Blinder)、経済政策研究所(Economic Policy Institute)のジェアード・バーンスタイン(Jared Bernstein)、ジョーン・ケネス・ガルブレイス(John Kenneth Galbraith)の息子で、テキサス大学(University of Texas)経済学部教授のジェームズ・ガルブレイス(James Galbraith)を推薦したと上述のチップマンに語った。ただし、バーンスタインとガルブレイスは市場市場主義者ではない。おそらくは、政権のバランスをとろうとしたのであろう。

 いずれにせよ、ファーマンの招聘は、渦中にあるウォール・ストリートからの初の採用ということで、ジョン・エドワード(John Edward)の選挙参謀を務めたこともあり、ウォール街の政界への影響力を糾弾する著著(を『Sirota[2008})を著したジャーナリストのデービッド・シロタ(David Shirota)などはオバマを裏切り者扱いをしたほど、左側からの批判は厳しかった。『ワシントン・ポスト』(Washington Post)のベテラン記者、トム・エドソール(Tom Edsall)などは、党大会の議論で、ファーマンを通じるルービンのオバマ政権への影響力の強化を露骨に批判した(ABC News, "Obama Economic Adviser Draws Fire On Left," http://blogs.abcnews.com/politicalrader/2008/06/0bama-economic.html)。

 非営利消費者組織の「パブリック・シティズン」(Public Citizen)のローリ・ウォーラック(Lori Wallach)は、『ロサンゼルス・タイムズ』(Los Angeles Times)に語った。「労働者への嫌悪を著した著作、ウォルマート(Wal-Mart)擁護論、公正貿易論、等々に現れているように、彼はやっかいもの(liability)だ」。確かに、ファーマンは、ウォルマートの低価格商品が貧民を助けていると公然と語ったことがある(Furman, Jason,"Wal-Mart: A Progressive Success Story, November 28, 2005, http://www.americanprogress.org/kf/walmart_progressive.pdf)。同紙には、ユナイテッド・スティール(United Steel)労働者のマルコ・トルボビッチ(Marco Trbovich)の談話も載っている。「ファーマンは非常に明るい奴だ。しかし、我が国の製造業に対して破壊的な貿易政策に対しては、単純にして稚戯的なチアリーダーとして応援している」(Conda, Cesar, "Obama's Centrist Economic Team - Pro-free and pro-Wal-Mart are not enough," http://www.weeklystandard.com/Content/Public/Articles/000/000/015/363utibo.asp?pg=2)。

 ナオミ・クライン(Naomi Klein)が、"Obama's Chicago Boys Lookout"と題するエッセイを『ネーション』(Nation)紙(June 30, 2008)に投稿している。以下、紹介する。
 オバマは大統領選の遊説中、クリントン元大統領がウォルマートの外部重役を務めていたことを非難していた。そのオバマが、ウォルマートを「連続成功物語」(Progressive Success Story)と最大限に賞賛した論文を書いたファーマンを、経済政策のアドバイザーに任用したのである。ファーマンは、ウォルマートへの批判者たちこそが敵であると上記の著作で述べていた。オバマは繰り返し、自らを市場賛美者であると語ってきた。彼は一〇年間ほどシカゴ大学で法律を講じてきた。その意味では、シカゴ学派と無縁ではない。選挙キャンペーン中、経済政策顧問にシカゴ大学の経済学教授のオースタン・グールスビー(Austan Goolsbee)をすえたことはその現れであろう。しかし、グールスビーは、フリードマン信奉者たちと異なり、経済格差の存在が米国の大きな問題であるとした点で、オバマ陣営の中では左派に属する。ただし、グールズビーの解決策は教育である。それでも、グールズビーは、地元のシカゴで、シカゴ学派は単純なレーッセフェール(laissez-faire)ではないと弁明しつつ、オバマとシカゴ学派との人的結合を強めたいと語っている。

 オバマのシカゴにおける支援者に、青年実業家で億万長者のケネス・グリフィン(Kenneth Griffin)がいる。シタデル(Citadel Investment Goup)というヘッジファンドのCEOである。もちろん彼は献金上限額を寄付している。グリフィンは、ベルサイユ(Versailles)で挙式し、披露宴はマリー・アントワネット(Marie Antoinette)が使っていた劇場、太陽サーカス(シルク・ド・ソレイユ=Cirque du Solei)でおこなわれた。つまり、かなり派手好みの人である。

 彼は、ヘッジファンド経営者として当然のことながら、課税強化等々のヘッジファンドの締め付けに強力に反対している。またグリフィンは、米国政府が中国からの輸入攻勢に音をあげて中国との貿易制限措置の導入に反対している。さらに、中国官憲の武装用品が米国から流れてきたものであることに神経質になった政府が、流出を取り締まろうとしたときも、グリフィンは反対した。反対しただけでなく、彼は、民衆を監視・弾圧する中国の警備会社に多額の投資をおこなったのである。

 オバマのシカゴ・ボーイ(Chicago Boys)たちは、規制の動きを阻止すべく動くであろうか。かつて、ビル・クリントンが一九九二年の大統領選に勝利して正式に大統領に就任するわずか二週間前に、クリントンのNAFTA条約見直し改訂の試みは撤回された。ルービンの説得が功を奏したのである。当時、クリントンは、NAFTAにおける労働条件、環境保護、社会的投資において、重大な欠陥があるので、NAFTA条約改定にむけてメキシコ、カナダと交渉する決意をもっていた(11)。しかし、就任式の二週間前、クリントンは、当時、ゴールドマン・サックス(Goldman Sachs)の会長であったロバート・ルービンの訪問を受け、NAFTA条約の無条件の受容を説得され、遊説中の反NAFTAの姿勢を撤回した。説得に成功したルービンは、PBS(Public Broadcasting Service)(12)に対してその成果を豪語した。「クリントン大統領は、執務室(Oval Office)に入る前の過渡期に経済政策において決定的な転換をしていた」と。

 事実、クリントンは、父ブッシュ前大統領が推し進めていたNAFTAの受容を民主党員に働きかけるように転換したのである。今回も、ファーマンやグールズビーが、市場規制に傾きかねないオバマを、市場原則主義者に誘導する役割を担うであろう。

 自由貿易、新自由主義に関する米国アカデミズムの雰囲気は、金融危機以後、激変した。新自由主義の威光が急速に衰えているのである。シカゴ大学では、〇八年五月中旬、同大学の学長、ロバート・チンマー(Robert Zimmer)が二億ドルを投じて、ミルトン・フリードマン研究所(Milton Friedman Institute)の創設を提唱した。それは、フリードマンが残した業績を深める経済研究センターであることが目指された。シカゴ大学はこのことで大もめにもめた。同大学のスタッフのうち、一〇〇人を超える人たちが設立に対する抗議文に署名した。その抗議文はいう。

 「最近の一〇年間で、経済学におけるシカゴ学派によって強力に押し進められた新自由主義的グローバルな秩序が実現した。しかし、その効果を正であると明確にいうことなどできない」、「世界の多くの人々にとって、その効果はマイナスであったという人は多い」。

 フリードマンは、二〇〇六年に逝去した。そのときには上記のようにあからさまにフリードマン批判をする経済学者はほとんどいなかった。オースタン・グールズビーなどは、『ニューヨーク・タイムズ』(New York Times, Novenmer 17, 2006)紙にフリードマン賛美のエッセイを寄稿していたほどである。

 それからわずか二年後、フリードマンの名前は、自らの本拠地(alma mater)の大学においてすら迷惑な存在(liability)とされるようになってしまった。このような情況なのに、オバマは、わざわざシカゴ学派の亡霊を呼び込むためにシカゴ・ボーイズたちを陣営に加えたのである。

 オバマは、遊説中に次のようにいっていた。「いまの経済危機は、長い間ワシントンを支配していた使い古され、誤った方向に人を導く哲学の理論的帰結である」と。その通りである。しかし、オバマは、ワシントンからフリードマン主義の悪弊を一掃する前に、イデオロギーに汚染された自らの家の掃除をおこなうべきである。クラインはそのようにオバマを批判した(13)。

 さて、ファーマンは、〇九年一月二八日、オバマ政権のNEC(国家経済会議=National Economic Council)副委員長(Deputy Director)に任命された。委員長は、サマーズである。ファーマンは、ハーバード大学院生であたときの一九九六年、ジョセフ・スティグリッツ(Joseph Stiglitz)に一年間契約で雇われたことがある。クリントン政権の経済政策、および、大統領経済諮問委員会(http://jp.truveo.com/christina-romer-wh-council-of-economic-advisers/id/1132941529)の特別助手であった。そして、スティグリッツが.世銀に移るとともに、ファーマンも世銀に移った。〇四年にはジョン・ケリー(John Kelly)大統領候補経済政策チーム理事になった。LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス=London School of Economics)で修士号(MSc)、ハーバード大学から経済学博士(ph.D)を授与されている(http://wagner.nyu.edu/faculty/facultyDetail.php?whereField=facultyID&whereValue=323)。

 また、グールズビーも一九六九年生まれの青年である。オバマによって大統領経済諮問会議の委員に任命されている。また、ポール・ボルカー(Paul Volcker)が議長となっている新設の大統領経済再生会議(President's Economic Recovery Advisory Board )(14)委員にも加わっている。

 グールズビーはエール大学でエリート・クラブのスカル・アンド・ボーンズ(Skull and Bones Yale University)に入会を許されていた。一九九一年経済学修士号(M.A.)をエール大学から、経済学博士号(Ph.D.economics)をMIT(Massachusetts Institute of Technology)から一九九五年に受けている。彼はオバマのイリノイ州における上院議員立候補を促し、ずっと選挙戦をともに戦ってきた。二〇〇四年の上院選挙、そして、二〇〇八年の大統領選挙ではともにオバマ陣営の首席経済顧問であった。


野崎日記(274) オバマ現象の解剖(19) ハミルトン・プロジェクト(5)

2010-02-08 21:27:06 | 野崎日記(新しい世界秩序)


  四 ミッシング・マーケット


 ハミルトン・プロジェクトの顧問会議(Advisory Council)が、プロジェクトの紹介をしている。個条的にまとめる。

①ハミルトン・プロジェクトは、機会・繁栄・成長に関する米国の約束を促進させることを目的とする。

②長期の繁栄は、幅の広い層の経済成長、個人の経済的安全、必要な公共投資を展開する効率的政府の役割によって実現される。

③我々の基本的な戦略は財政規律を求め、基本的重要部門への公共投資増大させることにある。

④我々は、イデオロギーや教条を離れた、経験と事実に基づく全米の幅の広い経済政策議論を求める。

⑤本プロジェクトは、「政府の賢明な援助と激励」が、市場を導き、向上させ、財政規律と経済成長を図るとした、アレキサンダー・ハミルトンにちなむものである(http://www.
brookings.edu/media/NewsReleases/2006/20061218furman.aspx)。

 ハミルトン・プロジェクトのディスカッション・ペーパーは、経済的安全(Economic Security)、教育(Education)、エネルギーと環境(Energy & The Environment)、グローバル経済(Global Economy)、健康保険政策(Health Care Policy)、住宅(Housing)、インフラストラクチャー(Infrastructure)、ミッシング・マーケット(Missing Markets)、科学と技術(Science & Technology)、税政策(Tax Policy)の一〇分野に整理されている(Index of the Hamilton Project Papers by Subject, http://www.brookings.edu/projects/hamiltonproject/~/media/Files/Projects/hamilton/papers_released_to_date_0209.pdf)。

 なかでも、ハミルトン・プロジェクトのもっとも重要なキーワードは、ミッシング・マーケットである。この言葉は、日本語ではまだ定着していない。ミッシングという連想で、ミッシング・リンク(Missing Link) という用語と関係があるのかどうかはまだ確定できない。だが、まだ実現してはいないが、存在し得る市場という意味で、ハミルトン・プロジェクトでは使われているようである。その意味では、ミッシング・リンクと非常に近い使われ方をしているように思われる。

 ミッシング・リンクという用語は、研究者中英和辞典によると、①系列を完成するのに欠けているもの、②失われた環[鎖], 類人猿と人間との中間にあったと仮想される動物、とある(http://ejje.weblio.jp/content/missing+link.)。しかし、ダーウィン的進化論が、まだタブーである米語圏では、この用語すらタブーとして使用されていない。グーグル(google)で"Missing Link"を検索しても、ヒットしない。

 ミクロ経済学では、パレート最適(Pareto-efficient)に相当する市場など存在しないという意味で使われてきた。つまり、理論上では存在を前提にされてきたが、実際には「存在しない市場」という意味で使われてきた。

 公害などがミッシング・マーケットの具体例である。行為の結果に対して、行為者はなんらの責任をとらないという分野が公害である。工場廃液が海を汚染し、魚類を有毒化し、それを食した流域民が中毒になるという結果をもたらせても、その結果が排出者を罰するように設計された市場などは存在しない。経済行為の結果はすべて市場に繁栄されるという意味での市場など存在しないのである。廃液排出者を特定することも、排出者をすべて訴えることもできない。密かに数多くのものが廃液を流すからである。その意味でも、こうした問題の解決を市場に委ねることはできない。

 この場合、政府が調停に立たねばならない。政府の関与の下で、工場廃液の排出に関する罰則コストとか被害者保証額の設定ができる。そうすることによって、もともとはなかった市場を新たに創り出すことができる。政府の関与によってのみ生み出される市場のことをミッシング・マーケットとして扱うことができる(http://homepages.strath.ac.uk/~hbs97102/econ101/Docs/Supplement%20I%20Pollution.pdf、ミッシング・マーケットに関する研究書として、Hahn[1989]がある)。

 ハミルトン・プロジェクトは政府介入を積極的に支持する。しかし、それは市場を抑制するためでなく、まだない市場を育成するためにのみ許されるものである。つまり、ミッシング・マーケットを現実に存在するようにさせるための政府介入である。 

 同プロジェクト理事のジェイソン・ファーマン(Jason Furman)は、ミッシング・マーケットを次のように説明している。それは、ファーマンの「機会・繁栄・成長を促進させるハミルトン・プロジェクト」(Hamilton, the Project Advancing Opportunity, Prosperity and Growth)という題の報告の中でなされている(http://www.brookings.edu/~/media/Files/rc/papers/2008/06_missing_markets_furman/06_missing_markets_furman.pdf)。

 ファーマンはいう。市場こそがもっとも重要なものである。財・サービスの購入はもとより、健康保険、生命保険、不動産保険等々の各種保険を購入するにも市場が重要な役割をはたす。保険を通して様々なリスクを人々は回避することができる。リスクそのものも売買され得る。ライフサイクルに合わせて住居を変えることも市場を通してできる。テロの驚異ですら保険の購入でそうしたリスクを最小化することもできる。保険という保護装置がなければ、社会は非常に傷つきやすいものになってしまう。そうした市場がもしあれば、その市場は上記のリスクを軽減する役割を担っているはずである。しかし、そうした市場は存在していない。

 政府がはたすべき第一のことは、そうした存在していない市場を創り出すことである。政府の介入はそのためにも必要である。政府介入のない完全な放任主義に社会をさらしてしまえば、重要なミッシング・マーケットを誕生以前に窒息させることになる。

 そこで、ファーマンは、結論を大きなフォントで書いている。「リスクを減少することができる市場が消えている。我々はどう対処すればいのか。ミッシング・マーケットが、住居を購入したり、老後に備えて貯蓄したりするさいに家計が直面するリスクを本来的に減少させ得るものである」と。

 まず法と規制。これは、市場を窒息させるのではなく、市場を窒息させるような要素を排除するという役目も持っている。

 こときは、まだ、証券化の危険性が現実化していない次期であった。しかし、債権の証券化を推し進めることがミッシング・マーケットの事例とされていたことは注目されてよい。金融手段を社会生活向上の梃子にしようとの発想が出されたことに、このプロジェクトがウォール街の利益を反映したものであることが率直に表現されているからである。

 例として、モーゲジ証券の小口化がある。住宅を取得しやすくするために、モーゲジ証券をまとめて、大口の投資家が個別に持つのではなく、個々の証券を分割して多くの小口投資家が共有する(shared-equity mortgage)制度を作れば、つまり、協働で証券を保有するというミッシング・マーケットを創れば、住宅は非常に取得しやすくなる。このまま住宅金融の混乱が継続すると、米国は、住宅取得に関して未曾有の危機に突入するという危機感から書かれたものである。しかし、ブームのときは住宅価格が上がり、ブームが去った後は下落し、それとともに銀行貸出が増減するという現行システムは、改善しなければならない。こうした「ブーム・破裂サイクル」(boom-and-bust cycle)を阻止する方策が「不動産担保証券共有化」(SAM=shared appreciation mortgage)市場の発展である(Caplin, Andrew,  Cunnigham, Noël B., Engleler, Mitchell, L. & Frederick Pollock, "Faciliating Shared Appriciatin Mortgages to Prevent Housng  Crashes and Affordability Crises," a Hamilton Project Discussion Paper, September 2008)。

 証券化を工夫する方策の一つに、大災害での損害への金融方法がある。これは、〇八年六月に書かれたディスカッション・ペーパーに見られる(Smetters, Kent & David Torregrosa, "Financing Losses from Catastrophic Risk," a Hamilton Project Discussion Paper, June 2008)。この論文のテーマは、テロや自然災害に備えての保険を、証券化で賄おうとするものである。大災害に備える現行の保険料は高すぎ、補償額も十分ではない。保険料が高くて十分な保険に入っていなかった貧乏人は、大災害時には、不公平なほどの莫大な出費を余儀なくされる。損害保険料を安くするためには、保険会社が資本市場を積極的に利用すべきである。そのさい、政府が再保険システムを担えばよい。

 自治体のリスクについても、同じことがいえる。自治体は、突然税収不足に見舞われて、増税か、住民サービスの低下かという苦しい選択を迫られることがある。そうした不意の緊急事態に備えるべく、自治体も保険を買えるようにすればよい。理論的にはそうであるが、現実にはそうした保険はいまのところはない。それを創りだそうというのである(Deep, Akash & Robert Z. Lawrence, "Stabilizing State and Local Budget: A Proposal for Tax Base Insurance," A Hamilton Project Discussion Paper, June 2008)。

 政府がはたすべき第二に重要なことは、市場の失敗を修正することである。市場の失敗が市場創出を阻害するからである。保険市場では、とくにそのことがいえる。自分は健康だと思う人たちが健康保険を解約するようになるとしよう。しかし、そうすることは健康に自信がなくて健康保険に入ったままの人が掛けなければならない保険料が高くなる。今度は、保険料が高くなりすぎて、健康に不安を覚える人でも、低収入の人は、健康保険に入ることができなくなる。そのうえに経済危機が社会を直撃すると、健康保険に関する無保険者が激増する。さらに、医療費の高騰に悲鳴を上げる保険会社は、医療費支出の可能性の少ない健康者しか保険に入れなくしてしまう。ますます、保険に入る人が少なくなり、保険料が馬鹿でかくなり、保険そのものの効用が小さくなってしまう。こうして、この市場は消滅する。健康保険の分野では、とくにこのことがいえる。健康保険加入者が減少すれば、健康保険そのものがなくなってしまうからである。米国の健康保険制度の病弊はここにある。

 健康保険の分野では、リスク調整済みのバウチャー(risk-adjusted voucher)を政府が個人に対して発行し、個人が民間保険会社から健康保険を買うようにすれば、現行のように、健康な人のみを保険に勧誘するという悪弊はなくなる。そうした健康保険バウチャー制もこのプロジェクト研究の成果の一つである(Emanuel, J. Ezekiel & Victor R. Fuchs, " A Comprehensive Cure: Universal Health Care Vouchers," A Hamilton Project Discussion Paper, July 2007)。

 失業者の打撃を緩和するための、民営化された失業者健康保険制度の提唱も、政府主導下の新しい市場の創出である(King, Jeffrey R., "Fundamental Restructuring of Unemployment Insurance: Wage-Loss Insurance and Temporary Earnings Replacement Account," A Hamilton Project Discussion Paper, September 2006; Kletzer, Lori G. & Howard Rosen, "Reforming Unemployment Insurance for the Twenty-First Century Workforce," A Hamilton Project Discussion Paper, September 2006)。

 自己資産を超えた生活をしてきて、退職時には未曾有の経済危機に見舞われて家計が破綻するという悲劇を避けるためには、企業に社員の貯蓄を奨励し、年金に加入させることを義務づけ、その分、減税措置を施すとか、四〇一kとか個人退職勘定(IRA=Individual Retirement Account)(9)の充実に向かって政府がこの分野に積極的に介入すべきであるとの提言もなされている(Gale, William G., Gruber, Jonanthan & Peter R. Orszag, "Improving Opporyunities and Incentives for Saving," A Hamilton Project Discussion Paper, April 2006)。

 「社会問題を解決し、個人や社会が直面するリスクを減少させるには、市場に基礎を置くか、市場的な解決策が魅力的なものである。これらの市場を妨げているものを除去するということも大事であるが、しかし、多くの場合、市場が失敗し、行動上の障害があるために、『自由市場的』解決策が支持を失ったことである。それゆえ、効率的な政府が健全な市場を繁栄させる条件を作る手助けをすることが決定的に重要であることになる。幅広い経済成長と経済的安定を促進させるうえで、効率的政府の伝統的、決定的役割を有効に補完するのが、市場に基礎を置く解説策である」。「政府は、ミッシング・マーケットを実現させる決定的な役割を担うことができる」。

 この報告をしたファーマンが、オバマ政権の中枢に登ることになった。


野崎日記(273) オバマ現象の解剖(18) ハミルトン・プロジェクト(4)

2010-02-07 21:05:18 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 三 オバマの大統領就任演説


 この姿勢は、〇九年一月二一日の大統領就任演説(Inaugural Address)にも受け継がれた。

 これも要約しよう。

 私は、(中略)我々の祖先が支払った犠牲を心に留めながら、ここに立っている。(中略)

 米国は、指導者たちの技量や理念だけに頼ることなく、我々人民が祖先の理想に忠実で、建国の文言に正直であることによって、乗り切ってきた。ずっとそうやってきた。現在の米国人も同様であらねばならない。

 我々が、現在、危機の最中にいることは明白だ。我々の国家は、暴力と憎悪の広範なネットワークを相手に戦争をおこなっている。我々の経済はひどく弱体化している。それは、一部の者の強欲(greed)と無責任さの結果だけではない。厳しい決断をすることなく、国家を新しい時代に適合させ損なった我々全員の失敗の結果である。家は失われ、職はなくなり、ビジネスは台無しになった。我々の健康保険制度(health care)は金がかかり過ぎる。あまりにも多くの学校が荒廃している。さらに、我々のエネルギーの消費の仕方が、我々の敵を強化し、我々の惑星を脅かしているという証拠が、日増しに増え続けている。(中略)

 間違いなく深刻なのは、我々の国土に広がる自信の喪失であり、米国の凋落が避けがたく、次の世代はうなだれて過ごさなければならなくなるのかも知れないという恐怖である。(中略)

 この日、我々は、恐怖ではなく希望を、紛争と不一致ではなく目標の共有を選んだため、ここに集った。この日、我々は、我々の政治をあまりにも長い間阻害してきた、ささいな不満や偽りの約束、非難や言い古された定説を終わらせることを宣言する。(中略)

 我々の旅は、危機に立ち向かう者、仕事をする者、創造をしようとする者のためのものだ。それらの人々は、著名な人たちというよりも、多くの無名の働く男女で、長い、でこぼこ道を繁栄と自由を目指し、我々を導いてきた人々だ。我々のために、彼らは、わずかな財産をまとめ、新たな生活を求めて大洋を旅した。我々のために、彼らは、劣悪な条件でせっせと働き、西部に移住し、鞭打ちに耐えながら、硬い大地を耕した。(中略)

 彼らは、米国を、個人の野望を合わせたものより大きく、生まれや富や党派のすべての違いを超えるほど、偉大であると考えていた。(中略)

 これが今日、我々が続けている旅なのだ。米国は、依然として地球上でもっとも繁栄し、力強い国だ。我々の労働者は、今回危機が始まったときと同様、生産性は高い。我々は、相い変わらず創意に富み、我々が生み出す財やサービスは、先週や先月、昨年と同様、必要とされている。能力も衰えていない。しかし、同じ手を用いるだけで、狭い利益にこだわり、面倒な決定を先送りする、そんな時代は確実に終わった。今日から我々は立ち上がり、埃を払って、米国再生の仕事に着手しなければならない。なすべき仕事は至る所にある。米国経済は、大胆かつ迅速な行動を求めている。そして我々は、新規の雇用創出のみならず、新たな成長の礎を整えることができる。道路や橋を造り、電線やデジタル通信網を敷き、商業を支え、我々を一つに結び付ける。科学を本来あるべき地位に戻し、医療の質を引き上げながら、そのコストは減らす。太陽、風や土壌を利用して自動車を動かし、工場を動かす。新時代の要請に合うように、学校や単科大、大学を変えていく。我々はすべてのことを成し遂げられるし、おこなっていく。(中略)

 我々が今日問うべきなのは、政府の大小ではなく、政府が機能するか否かだ。家族が人並みの給与の仕事を見つけたり、負担できる(医療)保険や、立派な退職資金を手に入れることの助けに、政府がなるかどうかだ。(中略)

 問うべきなのは、市場の良し悪しでもない。富を作り自由を広げるという面で、市場に比肩できる他の力はない。だが、今回の(経済)危機は、監視しなければ、市場が統制を失い、豊かな者ばかりを優遇する国の繁栄など長続きしないことを我々に気づかせてくれた。我々の経済の成功は、いつも、単に国内総生産(GDP)の大きさだけでなく、繁栄の範囲を広げる能力、機会を求めるすべての人に広げる能力によるものだった。慈善としてではなく、公共の利益に通じるもっとも確実な道としてである。(中略)

 我々の遺産はつぎはぎ細工である。しかし、それは、強みであって、弱みではない。

 我々は、キリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒、それに神を信じない人による国家だ。

 我々は、あらゆる言語や文化で形作られ、地球上のあらゆる場所から集まっている(http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090121-OYT1T00132.htmによる)。
 以上である。

 見られるように、〇九年一月二一日の大統領就任演説も、〇四年七月の演説とぴったりと重なっている。それは、また、〇六年四月のハミルトン・プロジェクトについてのルービンの開会の挨拶とも重なっている。

 ルービンはいう。

 建国の父(the Founding Father)たちは、この国に、機会・繁栄・成長を約束するという強い意志を示していた。それを実現するために、ハミルトンは、経済をダイナミックで強力な市場に基礎を置き、政府が経済的成功のための基礎的条件を整える重要な役割を担うべきであるとの信念を持っていた。この約束と信念を取り戻すことがこのプロジェクトの課題である。

 ルービンはいう。ハミルトンは、財政上の責任感を保持していた。個人の機会を重視していた。経済政策目標における真摯さも強く持っていた。このプロジェクトは金融の専門家、高名な政治家、学者たちに参加していただいている。

 このプロジェクトを生み出した源流は二つある。一つは、ジョーン・ポデスタ(John Podesta)の主催する米国進歩センター(Center for American Progress)(7)。二つは、ジーン・スパーリング(Gene Sperling)が執筆中の『成長前段階の進歩』(Sperling[2005])である(8)。

 ルービンは言明した。我が国は、現在のグローバル経済下ではとてつもなく大きな力と経済的な優位性を持っている。米国民には、変化を許容し、進んでリスクをとり、移民に開放的で、大きな経済を持つという文化的背景がある。(中略)

 しかし、我々の前には厳しい二つの試練が待っている。一つはゆくりと忍び寄るもので、私たちの国際的な競争力の低下、もう一つは、はるかに劇的に進行するもので、債券市場と金融市場とを直撃しているものである。これらは、ある面では機会であるし、リスクである。それは、グローバルな経済で生じた巨大な変化からもたらされたものである。つまり、技術、グローバリゼーション、市場に基礎を置く経済(market-based economics)の普及の結果である。それらすべては、中国やインドの台頭に表現されている。それは歴史的な競争という挑戦であると同時に、とてつもなく大きな新市場をもたらす機会でもある。(中略)

 こうした挑戦に対応するためのハミルトン・プロジェクトには三つの目的がある。強い成長(strong growth)、広範な層が参加する成長(broad-based partcipation in growth)、安全の増大(increased security)である。(中略)

 こうした目的の基礎には、市場に基礎を置く経済が経済活動を組織する中心的原理であるという強い信念がある。しかし、アレキサンダー・ハミルトンが論じたように、経済的成功を達成するためには政府の役割が不可欠である。

 我が国がはたさなければならない挑戦は、我々の判断によれば、二つのものである。

 まず一つ目の挑戦。それは、健全な財政状態への回復、もっと広くとれば、われわれのインバランスのすべてを回復させることである。世界の先進国の中では我々だけが、中短期的な財政的インバランスに陥っているだけでなく、きたる一〇年間で莫大な支出を決定してしまっている。個人の貯蓄率はほぼゼロである。個人の借金の膨大な積み増しがある。経常収支は赤字である。これは、我々の財政赤字に一部起因している。

 二つ目の挑戦。これは決定的に重要な挑戦である。それは経済的な成功に必要な数多くの条件に投資することであり、この条件が危機的に不足していることを注視することである。成長の条件の中には、市場の性質上、市場だけでは達成できず、政府のみが供給し、触媒となり得る分野がある。それは、教育インフラストラクチャー、エネルギー政策、健康保険(health care)、基礎研究、等々である。(中略)

 そのためにも、我々はものの考え方に関する新しい変化を促すハミルトン・プロジェクトを必要とし、米国はこの新しい変化と挑戦に対応できるであろうと、ルービンは、開会演説を締めくくった(http://www.brookings.edu/comm/events/20060405rubin.pdf)。


野崎日記(272) オバマ現象の解剖(17) ハミルトン・プロジェクト(3)

2010-02-06 07:06:31 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 二 ハミルトン・プロジェクト発表式におけるオバマの演説


 鶏が先か?卵が先か?という次元のものになってしまうが、ロバート・ルービンが提唱したブルッキングズ研究所のハミルトン・プロジェクトのテーマとオバマの一連の演説は、見事に重なっている。二〇〇四年のオバマ演説に刺激されて、ルービンがこのプロジェクトを作成したのか、プロジェクトのテーマにオバマ演説がぴったりであったからなのか、真相はいまのことろ不明である。いずれにせよ、上院議員一期目のオバマが、〇六年四月五日、民主党系シンクタンク(Think Tank)のブルッキングズ研究所でハミルトン・プロジェクト構想が発表されるセレモニーにおいて、先頭を切って招待演説をおこなったのである。この時点で、ウォール街のルービン陣営が、オバマを時期大統領候補者に押し上げようとの決意を固めていたと推測しても、それほど間違ってはいないだろう。

 ハミルトン・プロジェクトの最初の大会は、「機会、繁栄、成長についての米国の約束を回復する」(Restoring America's Promise of Opprtunity, Prosperity and Growth)というテーマであった。ハリー・トルーマンが言及し、二〇〇四年のオバマ演説で強調された建国の理念が、スローガンとして掲げられたのである。ハミルトン・プロジェクトというのはアレキサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)(6)にちなんで付けられた名前である。

 最初に挨拶をしたのは、ルービンではなく、オバマ上院議員であった。オバマが演説の中で謝意を表明した人々は、のちの大統領選で協力することになる。挙げられた名前は、ロバート・ルービン(ハミルトン・プロジェクト議長、当時、シティグループ会長)、ロジャー・アルトマン(Roger C. Altman、当時、エバーコア・パートナーズ、Evercore Partners会長)、ピーター・オーザック(Peter R. Orszag、ハミルトン・プロジェクト理事)、ロバート・ゴードン(Robert Gordon、ハミルトン・プロジェクト研究員、マクロ・エコノミスト)、オースタン・グールズビー(Austan Goolsbee、同じく研究員でオバマの経済顧問として活躍)、ジョナサン・グルーバー(Jonathan Gruber、MIT教授、医療保険改革でオバマを支えている)、ジム・ウォリス(Jim Wallis、オバマの精神的指導者、福音教会牧師)であった。

 演説において、オバマは、米国には二一世紀に向けた改革プログラミングがないと断定した。自分も属する左派グループは、一九三八年に制定され、週四〇労働時間を上限とするとしたFLSA(公正労働基準法=Fair Labor Standards Act)のようなものにいまだにこだわり、それを超える方針を出すことに失敗している。他方で、右派グループは、減税一本槍である。どちらも、現代における国家の新しい役割について突っ込んだ議論をしていない。

 必要なことは、新しい道を見つけることである。それは、人的投資であり、医療改善、教育改善であり、増大する最貧層に仕事を与えることである。少なくとも、これら人々に向けての二二〇万人の新規雇用の創出が必要である。

 オバマは、自由貿易神話にも懐疑の念を表明した。これまで、自由貿易の利益のみに視点が合わされてきた。グローバリズムで取り残された人たちに対しても、パイさえ大きくしていけば、彼らの再教育費用もでてくるとの前提で話されてきた。しかし、本当にそうだろうか。現実に、私(オバマ)の地元もイリノイ州のデカトゥール(Decatur)やゲールズバーグ(Galesburg)では多くの人が職を失っている。医療手当も受けていない。退職年金もない。いまや親の代よりも子供の代の方が貧しくなる可能性が現実のものになってきた。こんなことは歴史上始めてである。

  このまま事態を放置すれば、米国には内向き感情(nativist sentoment)が蔓延する。保護主義と反移民感情が芽生えている。私たちの子供のために、私たちはこの流れを変えなければならないhttp://www.brookings.edu/comm/events/20060405obama.pdf)。

 見られるように、二〇〇六年四月のハミルトン・プロジェクトを祝するオバマの演説は、二〇〇四年の演説そのもの再現であった。最貧層に視線を当て、教育と医療などの充実で、彼らを貧困から脱出させる。それらが、政府のはたすべき義務であると断言したのである。


野崎日記(271) オバマ現象の解剖(16) ハミルトン・プロジェクト(2)

2010-02-05 20:21:16 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 一 ロバート・ルービン


 ローバート・ルービンは、一九三八年生まれで、一九九五年一月一一日から一九九九年七月二日まで、第一期と第二期のクリントン(William Jefferson“Bill”Clinton)政権の第七〇代米財務長官(United States Secretary of the Treasury)を務めた。前任はロイド・ベンツェン(Lloyd Bentsen)であった。

 彼の実務家としての出発点は、ニューヨークの法律事務所、クリアリィ・ゴットリーブ・スティーン&ハミルトン(Cleary, Gottlieb, Steen & Hamilton)の弁護士であった。

 一九六六年、ゴールドマン・サックス(Goldman Sachs)に入行。一九七一年にゼネラル・パートナー(General Partner)に昇進して、一九八〇年には経営陣に加わった(2)。一九八七~一九九〇年副議長(Vice Charman)兼共同チーフ・執行委員(Co-Chief Operating Officer)。一九九〇~九二年、スティーブン・フリードマン(Stephen Friedman)と組んで、共同議長(Co-Chairman)兼共同シニア・パートナー(Co-Senior Partner)になる(http://www.sec.gov/Archives/edgar/data/831001/000119312508055394/ddef14a.htm)。

 九三年~九五年、大統領経済政策助言者としてホワイトハウスに入り、新設された国家経済会議(NEC=National Economic Council)を指揮した。NECは各省庁を超えた権限を持ち、予算から国際貿易におよぶ広汎な事項を審議・政策作成する機関である(http://www.citigroup.com/citigroup/profiles/rubin/. Retrieved 2008-02-20)。同会議におけるルービンの指導力を、元ソ連駐在米国大使のロバート・シュトラウス(Robert Strauss)は、一九九四年に絶賛していた(Ullmann[1994])。

 九五年、上述のように、ルービンは財務長官に就任したが、その直後の九五年一月、メキシコが対外債務のデフォルト(支払い停止=default)危機に陥った。メキシコは、九四年にNAFTA(北米自由貿易協定=North American Free Trade Agreement)に参加したばかりであった。クリントン政権は、ルービンと当時のFRB(連邦準備理事会=Federal Reserve Board)議長(Chairman)のアラン・グリーンスパン(Alan Greenspan)と相談して、ESF(為替安定基金=Exchange Stabilization Fund)から二〇〇億ドルもの緊急融資をメキシコ政府に供与した(Devroy & Chandler[1995])。

 一九九七年と一九九八年には、ロシア、アジア、ラテンアメリカで大規模な通貨危機が生じた。この危機に対応すべくIMF(国際通貨基金=International Monetary Fund)を梃子にしてこれら地域の経済政策作成に介入したのが、グリーンスパン、財務長官ルービン、副財務長官(Deputy  Secretary Secretary)ローレンス・サマーズ(Lawrence Summers)の三人組であった(Ramo[1999])。

 こうした金融危機の慢性化を危惧していたCFTC(商品先物取引委員会=Commodity Futures Trading Commission)委員長のブルックズレー・ボン(Brooksley Born)は、その大きな原因の一つにOTC(店頭取引=Over The Counter)があると認識して、店頭取引されている金融派生商品(デリバティブ=derivatives)を放置すれば、過度の信用膨張で米国金融は崩壊するとして、規制の必要性を訴えた(CFTC[1998])。このとき、この三人組が規制の導入に強力に反対した。SEC(証券取引委員会=US Securities and Exchange Commission)委員長のアーサー・レービット(Arthur Levitt)も反対の陣営に加わった。ボーンの危惧通りに金融派生商品群が世界的な金融危機を勃発させ、結果的にボーンが正しく、ボーンに強力に反対した三人組が間違っていたのであるが、三人組の影響力は危機勃発後もいささかも衰えず、彼らの人脈はオバマ政権の中枢にいる(Roig-Franzia[2009])。レービットの証言によれば、ルービンとグリーンスパンのボーン案への批判は激越なものであったという(Goodman, [2008])。ただし、ルービンは、回想録で、デリバティブの危険性を認識していて、デリバティブ取引をしている人たちの多くがその危険性を十分意識していないとの危惧感を表明している(Rubin[2003], pp. 187-88. 邦訳、四四八~四九ページ)。

 一九九九年、ルービンは財務長官を辞任し、後任にサマーズが就いた。ルービンの引退にさいして、クリントン大統領は、「アレキサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)以来のもっとも偉大な財務長官であった」と激賞した(http://www.ustreas.gov/education/history/secretaries/rerubin.shtml)。ルービンが、のちにハミルトン・プロジェクトを立ち上げたのもクリントンのこの言葉がきかけになったのではないかと想像される。

 財務長官辞任後は、シティグループ(Citigroup)の経営陣に加わり、二〇〇一年にはエンロン(Enron)を救済すべく、財務省に働きかけたが断られた(Noah, Timothy,"The sainted former treasury secretary makes a sleazy phone call, and nobody cares,".http://www.slate.com/id/2060712/)。エンロンを倒産させてしまえば、米国金融界が崩壊するという訴えであったが、エンロンへの大口債権者が、ルービンの属するシティグループであった(3)。

 〇三年一〇月、外交問題評議会(CFR=Council on Foreign Relations)の副議長となる。〇六年四月に、ブルッキングズ研究所でハミルトン・プロジェクトを組織する。〇七年六月にはCFRの共同議長となる。

 シティグループでは、同社会長(Chairman)兼CEO(Chief Exective Officer)のチャールズ・プリンス(Charles Prince)が、〇七年一一月五日、サブプライムローン問題で大きな損失を出したことの経営責任をとって辞任した。〇七年一〇月中旬に発表していた損失予想額二〇億ドルをはるかに越える八〇~一一〇億ドルになる可能性があると、プリンス会長は一一月五日に発表し、翌日辞任したのである(http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/7078251.stm)。そして、ルービンが、二〇〇七年一一月から一二月、同社の一時的な会長(Chairman of Citigroup)を務めることになった。ルービンは、すぐさま、UAE(アラブ首長国連邦=United Arab Emirates)のADIA(アブダビ投資庁=Abu Dhabi Investment Authority 、一九七六年設立)から七五億ドルの融資を受けると一一月二六日に発表した(http://www.afpbb.com/article/economy/2307945/2318917: http://www.nytimes.com/2009/01/10/business/10rubin.html?_r=1&hp)。

 ルービンは、二〇〇八年に詐欺容疑で投資家グループから告発された(Tharp[2008])。売れる見込みのない妖しげなCDO(4)を組み直してシティグループが作ったペーパー・カンパニーに買い取らせ、本来なら会計帳簿に載せなければならない膨大な損失を隠蔽して、シティグループ株の暴落を防ごうとしたというのが告訴内容である。不正操作による株価維持をしつつ、経営陣は、暴落前に自社株を売り抜け、一億五〇〇〇万円もの利益を得たというのである。その売り抜けによって、ルービンは三〇六〇万ドル、プリンスは二六五〇万ドルを稼ぎ出した。

 〇八年一一月二三日、シティグループは、米国政府から追加支援を受けることで合意したと発表した。シティグループが抱える不良資産三〇六〇億ドルによって将来発生するであろう損失のうち、米国政府が二四九三億ドルを肩代わりするほか、公的資金二〇〇億ドル注入するということであった。大前研一はそれを糾弾していた。
 「この発表を聞いて私は呆れ果ててしまいました。これは金融危機に対応した救済策などではなく、もはや米国政府による犯罪行為だと言っても過言ではないと思います。ガイトナー・ニューヨーク連銀総裁(President of New York Federal Reserve Bank)、ポールソン財務長官を始めとした米金融界の有力者たちが、ロバート・ルービン元米財務長官(現シティグループ顧問)に恩義を感じているために、無理矢理シティを救済しようとしているとしか思えません」(http://www.ohmae.biz/koblog/viewpoint/1208.php)。

 二〇〇九年一月九日、ルービンは、上級顧問を退き、〇九年春の年次総会後に取締役も辞任示した。CEOのパンディット(Vikram Pandit)に宛てた書簡の中で、ルービンは、「私自身を含め長期にわたりこの業界に関わった非常に多くの人間が、金融システムが今日直面している非常に厳しい状況の重大な可能性を認識できなかったことは極めて遺憾」と述べた(http://jp.reuters.com/article/domesticFunds/idJPnJT831321820090109)。
 ルービンが辞任前の〇八年にシティグループから得た収入は、給与が一七〇〇万ドル超、ストックオプションによる利益は三三〇〇万ドルであった(http://people.forbes.com/profile/robert-e-rubin/19713)。

 『ウォール・ストリート・ジャーナル』(Wall Street Journal)紙が発行する『マーケットウォッチ』(MarketWatch)という電子ジャーナルがある。この〇九年一月一五日の記事で、ルービンは、倫理のない実業家一〇人の一人に名指しされた(Kostigen[2009])。そもそも、この企画は、「世界でもっとも倫理ある実業家一〇〇人」("100 Most Influential People in Business Ethics")を発表している『倫理マガジン』(Ethisphere Magazine)という電子メディア(http://ethisphere.com/100-most-influential-people-in-business-ethics-2008/)の向こうを張って、「もっとも倫理のない一〇人」を選んだものである(5)。

 ルービンについては、以下のことが記されている。

 「本人の意図がどうであったかにかかわらず、ルービンは、二〇〇八年の金融危機をもたらした人物のひとりである。彼が財務長官のときにおこなった規制緩和が、今日の問題の多くを引き起こしたといまや非難されている。彼はまた、レバレッジによるより大きなリスクをとったことによってシティグループを引き倒した犯人でもある」。

 この記事を書いたトーマス・コスティゲン(Thomas Kostigen)には地球環境問題を論じた著作があり(Kostigen[2008])、同じく地球環境問題を論じた共著はベストセラーーになった(Rogers & Kostigen[2007])。


野崎日記(270) オバマ現象の解剖(15) ハミルトン・プロジェクト(1)

2010-02-04 23:56:09 | 野崎日記(新しい世界秩序)


 第二章 ハミルトン・プロジェクトと大きな政府


 はじめに


 オバマ政権の経済政策は、大きな政府路線に属する。一九八〇年代の共和党のロナルド・レーガン(Ronald Wilson Reagan、一九一一~二〇〇四年)政権以来、米国の経済政策は、小さな政府路線を維持してきたが、民主党のバラク・オバマ(Barack Hussein Obama, Jr)政権による大きな政府路線は、約三〇年ぶりの方向転換になる。安井明彦の指摘によれば、オバマ陣営の認識では、レーガン時代は、大衆が小さな政府を望んでいたが、いまや大衆はそうした路線に批判的になり、大きな政府を望むようになった(安井[二〇〇八])。

 二〇〇九年一〇月時点での米国の失業率は、一〇・二%であった。この水準は、一九八三年四月以来、二六年半ぶりの高水準である。非農業部門の失業者数は、一五七〇万人。景気後退が始まった〇七年一二月から累計すると、七三〇万人の増加となった(http://www.cnn.co.jp/business/CNN200911070006.html)。

 こうした状況を受けて、米国では、巨額の財政出動やむなしとの空気が醸成されている。ポール・クルーグマン(Paul Krugman)などもそのひとりである。『朝日新聞』二〇〇八年一一月一七日月朝刊の「あしたを考える」は、ポール・クルーグマンの同月一四日のインタビュー記事を掲載した。記事の見出しは「大不況克服へ巨額財政出動せよ・債務増を心配する時でない」であった。

 こうした大きな政府容認論の流れは、すでに二〇〇六年四月に米国民主党系のシンクタンク、ブルッキングズ研究所(Brookings Institute)で作成されたハミルトン・プロジェクト(Hamilton Project)で打ち出されていたものである。それは、ロバート・ルービン(Robert Rubin)によって主宰されているものであるが、「まだ見えぬ市場」(Missing Market)というキーワードの下、政府が主導して新しい市場(排出権取引、医療保険のバウチャー制、教育のバウチャー制、等々)を創出すべきであるとの考え方が、プロジェクトの重要な柱となっていた。

 このプロジェクトの柿落とし(1)で最初に演説を任されたのが、当時、上院議員(U.S. Senators)であったバラク・オバマであった。おそらく、すでに金融危機の到来を予測していたルービンたち、ウォール街の金融関係者が、大きな政府による金融機関救済の布石を打ったものと思われる。